ハ長調 とある任務の余暇で訪れた街。ふと雑踏に紛れて笛の音が鳴っていることに気付く。緩やかにたおやかに辺りに響き渡る音色に思わず足を止める。音楽には特別詳しくは無いが耳馴染みが良いクラシックは、聞いていてとても心地良いものだ。 アフロディーテが音の鳴る方へ、少し開けた場所に出るとその人はフルートを片手にいつの間にか集まっていた人々へ丁寧に礼を尽くしていた。 「…実に見事な調べでした。」 集まっていた人々より遅れて現れたその人は自分に惜しみ無い拍手と賛辞を送ってくれた。見目の良い、一瞬女性と見紛う姿だが、声音から男性と判断する。彼が誰かは分からない。それでもソレントには一つ解ることがあった。目の前のこの男から感じられる小宇宙。あの戦女神アテナの加護を受けた、彼女の聖闘士だということを。 「…失礼ですが。」 「私はアフロディーテと申します。君は……海闘士、で合っているかな?」 やはり、というか。アフロディーテと名乗ったこの聖闘士は、自分の正体を知っている様だ。 「…だとしたら何か、」 「ああ突然で済まないが、この辺りで良い店を知っているのだけれど……積もる話はそれからでも良いかい?」 一瞬アフロディーテの纏う気配が変わった。確かに彼の言う通り、我々の話をするには人が多過ぎて、多数の目に止まるだろう。現に見目が良い彼への視線を寄越す人の数は増えている。 「…構いませんよ。」 「それは良かった。」 華やかな笑みを浮かべる彼とは対照的に、ソレントの表情は固いものであった。 「…改めて。私は魚座のアフロディーテ。」 「海魔女の…ソレントだ。」 「そんなに警戒しないでくれ。私は別に君の監視に来た訳ではないのだから。」 内容は明かされなかったが任務の余暇で此処にいるのだとアフロディーテは肩を竦めながら言った。 「何故私に声を掛けて来たのか。」 「君が奏でた素晴らしい調べに賛辞を送りたかったからさ、他意は無いよ。」 アフロディーテの言にいまだに信じられないとソレントは警戒を解こうとしなかった。無理も無いか…とアフロディーテは注文した紅茶を口に着ける。本当に、偶々会っただけだと言うのに。 「…時に海魔女。君は何故彼処でフルートを奏でていたのかな?」 「何処で吹こうが私の勝手では無いか。」 「しかし私には君がその場で、酔狂で吹くとは思えなくてね。」 今日、つい先程出会ったばかりだと言うのに。この目の前の魚座に、全てを見透かされている気がして。アクアブルーとマゼンダの互いの双眸がかち合って、数分。沈黙。根負けしたソレントは諦めた様に息を一つついた。 「人混みを歩いていた時に不意に楽器ケースを打つけてしまったのです。」 奏者として命の次に大事な楽器が壊れ様ものなら、それは一大事である。一刻も早く、楽器が無事かを調べたくて開けたあの場所でフルートを見ていた。 「成る程。その時に小さい子にでも見付かったのかな?」 「えぇ。普段ならどんなに頼まれてもあの様にフルートを吹いたりはしないのだが……子どもの思いを無下には出来なかった。」 大きな瞳をきらきらと輝かせながら吹いてくれと、強請るあの子は……何時かの幼い自分の様で。姿が重なって見えたのだ。 「その子は喜んでいたかい?」 「えぇ。とても、喜んでいたよ。」 アフロディーテの問いにソレントは深いワインレッドのスーツのポケットから出てきたのは可愛らしい包み紙に包まれたキャンディ。お礼に貰ったのだと、ソレントは口許を綻ばした。 「良かった。」 「?」 「君が漸く笑ってくれたなと思ってね。」 その子に感謝しなければ、とアフロディーテも口許に笑みをつくりながら言った。 「…魚座、貴方は本当に何も。」 「最初にも言った筈だよ海魔女。私はただ余暇を楽しんでいて、そうしたらフルートを奏でている君がいて、アフタヌーンを共にしている……それだけさ。」 さて、とアフロディーテが伝票を手に席を立つ。 「残念だが海魔女、"仕事"の時間が来てしまった。」 「それは分かったが魚座、そっちは…。」 「ん? ああこれか? 気にするな年下は黙って奢られたまえ?」 この店の紅茶もケーキも美味だから、ちゃんと味わってから帰る様に……それだけ言うとアフロディーテは二人分の会計を済ませ、青く長い髪を靡かせながら颯爽と店を出て行った。仕事=任務と言うのだから、下手に留める訳にも行かなかった。 アフロディーテの背中を見送り、一人テーブルに残されたソレントは彼オススメの紅茶に口をつけた。大分冷めてはいたのだが紅茶もケーキもどちらも大変美味であった。 ―――――――――――― 楽器の日に思い付いたお話でした。 |