レースフラワー

※「カンパニュラ」の続き

 救急箱と大型のタッパーを抱えながらだったが、なんとか教皇宮に至るまでにアフロディーテに追い付くことが出来た。
 再度治療をさせて欲しいと紫龍の余りある熱意に、終始困惑した様子でいたアフロディーテは溜め息を一つ落とすととうとう根負けした。治療を受けると了承した時、良かったと安堵の表情を浮かべた紫龍は、彼にしては珍しく嬉しそうにも見えた。
 アフロディーテは隣を歩く紫龍を横目でチラリと見る。その視線に気付いた紫龍と目が合う。年相応の淀みない綺麗な目だ。以前デスマスクが言ってたことが今なら分かる気がする。馬鹿みたいに真っ直ぐだ。しかしこの子は聡い部分もある。
全く青銅の坊や達には困ったものだ……。突っ跳ねてもこうやってまた自分の前に現れる。自分でも不思議だがそれを嫌いになれなかった。
 双魚宮に到着するまでの道のりで二人は特に言葉を交えるこはなかった。しかし悪い空気ではない。
柔かな月明かりが落ちて、夜のシン…と静まった独特の雰囲気の中紫龍はアフロディーテの隣を歩く。負傷している腕を見ながらというのが実に紫龍らしい。
 双魚宮に近付くにつれて、水の流れる音と薔薇の芳香が無機質な宮に彩を飾る。それらを通り過ぎると、アフロディーテは双魚宮内の自室に紫龍を招き入れた。


 アフロディーテの腕の出血は相変わらず続いている。先程天秤宮で見たときよりは、やや緩やかになったか。
「貧血で気分が悪い等は?」
「さあ…今はまだなんとも。」
 自身のことなのに随分投げ遣りな態度だ。
 治療を受ける為にアフロディーテは魚座の黄金聖衣を脱ぐ。聖衣は淡く輝くと元の魚の形になり、パンドラボックスの中に静かに収まった。
「これは…!」
 邪魔にならぬ様にと、水色の長い髪の毛を胸の前に退かして貰った。そして表れた傷を見て紫龍は言葉を詰まらせた。アフロディーテは腕を負傷していたのではなかった。肩口から背中の半分位に掛けて一本の紅い血筋が走っていた。
「…ふ、理由を知りたそうだなドラゴンよ。」
「…貴方のことだどうせ聞いても、答えてくれぬのだろう?」
 話ながら紫龍は手早く止血の処置をする。少し強めに出血点を押さえると真っ白なガーゼが一気に紅色に滲んでいく。一枚目が駄目に為ったところでアフロディーテは静かに、先程の紫龍に答えを教えてくれた。
「…小さな子を庇ったのだ。その時に…な。」
 天秤宮で老師に言っていた「不覚」とはこのことだろう。
 聖闘士たるもの戦いは避けられない状況で、それでもなんとか誰も巻き込まない様な場所を選んだつもりだった。しかし其処の近くには奴隷として監禁されていた幼子がいた。久し振りの外の世界。右も左も分からぬ場所で夢中になって逃げる少女はアフロディーテの姿を捉えると縋る様に懸命に駆けて来た。それを、敵が目を着けぬ筈はなかった。
「その少女は…?」
「無事だよ。ただ今までのストレスとショックで声が出せなくなってしまったがね。」
 それでも一時的なものだろうとアフロディーテは言った。優しい人に支えられて、時間の癒しを受ければいずれ少女はまた笑えるようになるだろう。
 三枚目のガーゼを使用した後、出血が止まったのを確認すると傷口を消毒した。
「痛くは無いか?」
「これぐらいの傷…。」
「違う、貴方の心がだ。」
 傷口に新たに出したガーゼを宛がい、包帯を巻き付けている紫龍にはアフロディーテの表情は見えない。もし自分のせいで少女が声を出せなくなったのだと、そう思って自分自身を責めてはいないかと。
「自分で傷の処置をしなかったのは、その少女のことを考えてではないのか。」
「…知った様な口を利く。」
 棘だらけのその言葉とは裏腹に、彼の声色は酷く弱々しい。
「アフロディーテ。」
「…なんだい。」
「俺は貴方のそういうところが好きで、そして嫌いだ。」
 誰かの為に自らを犠牲にして何かを為す。もう、一人でそういうことをしないでも良い世界なのだ。もっと頼って欲しい。自分じゃなくても良い、シュラやデスマスクや他の誰だって良い。
「貴方はもう一人じゃない。」
 貴方の周りにはいつだって、誰かがいて、手を差し伸べているのだ。
「…知っている。」
「………。」
「…分かっているさ。」
 今の自分は独りよがりなのだということを。そんなの誰よりも自分が一番分かっている。
(…温かい。)
 他人の手とはこんなに温かいものだっただろうか。遠い記憶の彼方で誰かの温もりを思い出した。


 パチンと鋏が包帯を切り落とす。今の包帯は重ね合わすだけで簡単に止まる。傷口が傷口なだけに結ぶ煩しさを考えるとこの包帯を選んで正解だった。
「暫くは動かさない様にしたほうが良い。」
 そう言うが難しい話である。アフロディーテは魔宮薔薇の管理の他、他の黄金聖闘士が行う執務もある。大人しくしてくれと紫龍が言えなかったのはそれにあった。
 クローゼットから出した私服に着替えるアフロディーテを手伝う。背中に戻した水色の巻き毛は思っていた以上にサラサラでまるで絹糸の様だ。ずっと触っていたくなる、とはこのことを言うのだろう。
「済まなかったな紫龍。」
「これぐらいどうと言うことは…。」
 無意識の内にアフロディーテの髪の毛を弄っていた紫龍の手がピタリと止まった。
「…え?今、名前で…?」
「うん?私が名前で呼ぶと何か不都合でもあるのかい?」
「あ、いやそういう訳では…。」
 アフロディーテは紫龍達青銅聖闘士のことを星座の呼び名の方で呼ぶ。瞬のことはアンドロメダの呼び名から名前の方で呼ぶのは知っていたが、まさか自分も名前で呼ばれるとは思っていなかった。
「貴方が俺の名前を呼ぶとは、思っていなかったから…。」
「…嫌なら止めるが?」
「嫌じゃない、です。」
 少しは、心を開いてくれたのだろうか。もし…そうだとしたら嬉しいのだが…。やはりこの魚座の黄金聖闘士は読みにくい。
「先程から気になっていたのだが……そのタッパーはなんだい?」
 しかも阿呆みたくでかいタッパー。蓋を開けてみれば仕切りに丁寧に分けられた料理が詰め込まれていた。
「これは誕生日パーティーの残りものになるのだが…。」
「…ん?誰の誕生日だ?」
 黄道十二宮とアテナとシオンの誕生日は覚えているが今日誕生日の黄金聖闘士はいない。今月は童虎(老師)の誕生日があるだけで、アフロディーテには見当がつかない。
「自分で言うのもどうかと思うのだが…俺の誕生日です。」
「そうか…君の…。だから天秤宮であんなに沢山小宇宙があったのか…。」
 気付いてやれなくて済まなかったと謝罪された。しかし任務で聖域を空けていたアフロディーテにはどうやったって知らせる術はなかった。だから謝る必要はないと紫龍は言葉を返す。
「救急箱を借りる時に老師に持っていけと。」
「…老師らしいな。」
「アフロディーテ何処へ?」
 おもむろに立ち上がったアフロディーテを紫龍は心配そうに見つめた。
「教皇宮には行かないよ。こんな時間だ、アテナもシオン様ももうお休みになっただろうからね。」
 敢えてこの時間に起きているとすれば残業しているサガだろうか。
「キッチンから皿を取ってくるだけだよ。」
 余り腹は空いていないが、折角持ってきてくれたのだ。それに日付は変わってしまったが、祝えなかった紫龍の誕生日を祝いたいとも思った。
「なら手伝おう。肩を上げる時は言ってくれ、傷口が開いては大変だからな。」
「…私は妊婦か。」
「いや怪我人だ。」
 至極真面目に返された。アフロディーテは思わず吹き出したという。



レースフラワーの花言葉は「静寂 悲哀 可憐な心 細やかな愛情」等々…。
これも紫龍くんと同じ日の誕生花の一つです。

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