Loka-Purusha


夏の名残を色濃く残した夕暮れに引き留められるように、玲名は足を止めた。橙色に塗りつぶされた土手の向こうで、小さな人影が四つ五つ、蜘蛛の子を散らすように一斉に駆けていった。その体から飛び出す笑い声が心地よく、月日が経つのは早いものだと、ありふれたフレーズが頭を過る。思い残しの無いよう過ごしてきたつもりだったが、やはり懐かしさというものは理屈ではないのだろう。過去をそう振り返ることができるごく普通の感覚が、何故だか無性に嬉しかった。段々と肌をかすめる風が冷たさを増しても、影が辺りの色に紛れ始めても、玲名はその時までしばらく、ただ黙って過去を見つめていた。

「面白いものでもあった?」
振り向けば、そのやけに余裕ぶった(ように玲名には聞こえる)声の持ち主が、のんびりとこちらへと歩みを進めてくる。その少年に、見覚えがないはずがない。何の用事だったか、記憶によれば済ませるのに一時間くらいかかるからと、ヒロトは先に玲名を帰らせていた。元より合わせて帰る約束などなかったのだが、最近は何故かそういうふうになっていた。それはさておき、そうなると一時間くらい、何の用もなく、玲名は遠くを眺めて惚けていたことになる。さぞ間抜けに見えただろうと玲名が腹の底で毒づいた一方で、ヒロトはといえば呑気に「ふうん」と相槌を打った。
「でも玲名、まだ帰らない?」
ヒロトのそのいたずらっぽい声を、玲名は、空の橙が闇に隠され始めたことを知っていてそう聞いたのだと理解した。

この時期の暮れは早い。ただぼんやりと懐かしんでいただけで、現実に戻った今、玲名はもちろん園へ帰る。風呂に入り、食事をして、勉強と明日の準備をして、寝る。夜になる前に家路につくべきだし、すぐにでもそうしたいと思う。

だが、このタイミングで帰りたいなどと言い出せば、まるでヒロトと一緒にいたいからそう言った、などと思われかねない。と、玲名は考えていた。例えヒロトがそう思ったとしても、玲名の怒りを買ってまで口には出そうとは思わないだろうし、玲名が頑と撥ね付ければ、ヒロトが折れることも分かっている。
しかし、ヒロトのどんな仕草を見るにつけても、以前よりも、ずっとずっと好きかもしれないと玲名に思わせる何かが、玲名に余計な意地を張らせつづけていた。

「もうすぐ暗くなるから心配なんだ。暗くなった場所に、一人女の子を置いていくなんてこと、したくないから。ね」
言うが早いか、ヒロトは玲名の手を取り、道沿いに引いた。人混みで、はぐれそうだとかそういった理由もなく二人で手を繋ぐことは珍しい。ヒロトの手のひらは乾いていて、玲名のそれよりも、少し熱かった。
「ヒロト」
「早く帰ろう」
探るように見たヒロトの顔からは、何を考えているのか読み取れない。ただ暗い場所で見る夜空を映したヒロトの瞳が、玲名にはいつもよりきれいに見えた。そしてそれが同時に、もしかしたら自分は、無意識の内にヒロトを待っていたのかもしれないと、諦めにも似たような感情をもたらす。
少し強めの風が吹き、ヒロトが握る手とは逆の手で、玲名は髪をかき上げる。歩き始めたせいだけではなく、体温が上がってきている気がした。けれども少しくらい素直になってもいいと思えるくらい、今のヒロトは頼もしかった。

ヒロトのことを、こんなふうに考える日が来るなんて思っていなかった。玲名は目を凝らして遠くなった堤防の向こうを振り返った。すでに人の姿は一つもなかった。

ヒロトは昔のことを、どれだけ鮮明に覚えているだろうか。玲名は足早に手を引くヒロトを思った。かつての感情の中には、今の玲名がそうであるように、もう他の何かで塗りつぶされてしまったものがあるのだろうか。そしてこの『今』も、いつか思い出として、済んでしまった過去として、懐かしく思い出だされる日が来るのだろうか。ふと涙が出そうになって、指先に力が入る。それに果たして気づいていただろうか、園の玄関照明灯に照らされるまで、ヒロトはその手を離さなかったし、玲名もそれを望まなかった。