Loka-Purusha


狩屋が園に帰りつくと、一番古くてぼろぼろになった小さな机に、過去には日本代表を、そして現在では、あまり積極的に絡みたいとは思えない大人代表を務める吉良ヒロトが腕を枕に、頭から突っ伏すようにして眠っていた。
本当に関わりたくないので、狩屋は黙ってその横をすり抜けて、そしてデスクパソコンの前の椅子にそっと座った。もちろん、音を立てないように。狩屋マサキ十三歳、明日までに稲の生育から米の流通にいたるまでを調べ、宿題のプリントにまとめなければいけないのだ。

毎年こぞって小中学生に調べられるのだろう、検索窓に『米づくり』と入力するだけで、凝ったページがどっさりと引っかかる。課題自体に関しては、プリントの最後に「農家の人はとても大変な思いをして米を作っていると感じました」とでも書けばいいと本心では思っているものの、実際はある程度、調べた努力が見えるくらいのものを作っていくべきことも分かっていた。狩屋の担任は怒るとそこそこ怖いのだ。そんなふうに、嫌々やりはじめた調べ学習ではあったが、作業興奮というやつだろうか、時間が経つにつれて、それなりに気分が乗っていった。

「何を見ているんだ?」
「うわ、」
自覚のないうちに画面に夢中になっていたため、背後から飛んだ予想外の声に、狩屋は口から心臓が飛び出そうになった。
狩屋の丸くなった目を見て、少し腰をかがめた女性は申し訳なさそうに笑った。積極的に絡みたいとは思わない大人代表その二、八神玲名だった。
「集中して頑張っていたのに、すまないな」
「いえ、……俺もぼうっとしていたので」
「そうか?」
近くの椅子をひっぱってきて、すぐ隣に腰掛けた玲名を見て、狩屋は顔をしかめた。この女の人が、他の大人に比べてこれといって特別に、嫌な感じがするというわけではなかった。園に遊びに来ては何かといらないちょっかいをかけたがる、一部の大人よりはずっと常識的だとすら思っていた。
ただ、狩屋の座った左手奥には、今も、机に顔を伏したままのヒロトが見えている。彼は、眠った人間特有の深い呼吸を繰り返している。ように見える。だが、確実に眠っているとは言い切れない。それが不安だった。

「ああ、米の種類か。私も昔、調べさせられた」
「そうなんですか」
「私たちの時は図書館で調べたものだったな。お前みたいに、器用にパソコンを利用できる者もいなかったし」
玲名は懐かしそうに目を細めて、勝手に奪い取ったプリントを眺めていた。
「…そうなんですか?使えそうな人、一人くらいいたんじゃないですか?」
というかすぐそこの机のところにいる気がしますけど、そう思わず喉まで出かけた言葉を、狩屋は間一髪で呑み込んだ。余計なことを口にして、状況が悪化がした場合どうしようもない。
玲名は少し悩んだ様子を見せて、「いなかったんじゃないか?」といまいちあやふやなことを言った。空気読めよ。狩屋は、それだからこの人が苦手なのだ。
狩屋くんはエライぞスゴイぞ的に誉めるつもりで言っているのかもしれないが、そんな気遣いが必要なのは、多分ここにいる狩屋ではないもう一人に対してだろう。腕時計をはめた腕を軽く持ち上げつつ「お、本当に邪魔したな」と呑気に苦笑した玲名と、そこそこ騒がしい中、姿勢を崩さないのが逆に怪しいヒロトを交互に見て、狩屋は脱力感を覚えた。



「あの、起きてますよね」
「そりゃあ、ね」
伏せた頭の影から、くぐもった声が聞こえて、狩屋は何とも言えない気持ちになった。玲名が部屋を去って、十五分くらいは経っていた。
パソコンの画面に向き直って、とりあえず今までの続きに取り組もうとしても、一向に顔を上げる様子を見せないヒロトが気になって集中できない。多分、本当にへこんでいるのだろう。
「俺、今調べものしているんですけど……何かわかります?」
「……米の種類」
案の定ヒロトはしっかり起きて耳を立てていたようで、「俺は、結構そういうやつ、手伝ってあげていたんだけどなあー…」と溜め息混じりに嘆いた。大の男が落ち込んだ様子というものは、何度遭遇しても気まずいことこの上ない。

「俺が狩屋と同じ年の頃なんてさ、何やっても否定され通しでさ」
「はあ」
「色々あったから仕方ないとは思うんだけどさ、だけど……そんな、記憶から消されてる程だったなんて」
「思い出せなかっただけ、って可能性もありますけど」
あまり意味に差はないかもしれないけれど。どうにか慰める言葉を探しつつ、狩屋はそっと玲名を恨んだ。どうしていつも、こういう役回りだけ俺に押し付けるように動くんだろう。前回は、「年上の女の人ってどう思う?」という本人的には暇つぶし程度の質問で、前々回は「テレビで見たマッサージの練習をしたいから横になれ」。他にも思い返せばきりのないくらい色んな事をやらかして、そして結局最後は全部今のように、微妙な顔をした狩屋と鬱っぽいヒロトを二人だけ取り残していくのだ。

「いいんだ。俺の存在なんて、玲名にとっては穴のあいた靴下のようなもんだよ…」
「……。あー…ジュース!俺おごりますよ、ね!それに玲名さん、穴あき靴下は結構重宝してますよ。だからヒロトさんもいい線いってますって」
「そうかなあ…いい線いくかなあ」
こんな人がそこそこ稼いでいるなんて。狩屋は日本経済が少し心配になった。ほとんど白紙状態のプリントを見て、どっと増した疲労感に肩を落とす。宿題は多分、いやきっと、夜に持ち越しになるだろう。