Loka-Purusha

玲名は二つに折りたたんだ薄い座布団に腰を乗せて、借りた本を両手で大きく広げていた。
膝を置いたすぐ横に転がった図書館用の布バッグの中には、あともう四冊の書籍が詰められていて、彼女の手に取られるのを待っている。
玲名は金曜日の放課後になるといつも図書館で許されている限度いっぱいの量まで借り出して、土日の間じゅう、人気のない学習室でゆっくりと読書を満喫することにしていた。

夏が終わり、しばらく経っていた。昼が近づくにつれて少しずつ部屋が暖められていくのも、夕へ向かうにつれて段々と空の色が深くなるのも、全ての要素が一様に、刻々と流れていく時間を強く感じさせる。過ぎゆくいくつもの瞬間の、そのどれもが等しく貴重であることを思い出せてくれる時間はとても好ましい。

そしていつも大抵そんなふうであるように、玲名はこの日もまた、ゆったりとしたくつろぎの中で、穏やかな一日を終える予定だった。なのに。

ぱたん、と小さな音を立てて、玲名は本を閉じた。実はもうずっと内容なんて、少しも頭の中に入ってきてはいなかった。その理由の気にかかることといったら、どうだろう。あまり好きではない、貸し出し用に消毒された書籍においも微々たるものだ。
玲名は、不安定に揺らぐ気持ちを体の内側から追い出すように、慎重な息を吐いた。それから、しおりを挟んだ本を背中側にそっと置き、ヒロトに向かって、こう聞いた。
「それでお前は、今日はどこへも出かけないのか?」

ところが、いくら待っても、形のある返答は返ってこない。それはヒロトの意地悪などではなく、一応、生理的には仕方のないことだった。微かに聞こえた、返事に到底満たないような小さな唸り声を不審に思った玲名がヒロトの顔を覗きこんでみると、何とも間抜けにぽかんと開かれた口の代わりに、瞼はしっかり閉じられている。玲名の気付かない間に、ヒロトは深い深い眠りに落ちていたのだ。

「……」
堂々とした眠る様は、まるで当然の権利でそうしているかのように見えて、ああ、疲れているのならもう少し位いいか、玲名は危うくそんな仏心を出しそうになった。ところが、思えばそもそもこれまでが、我慢に我慢を重ねてのものだ。玲名自身のために過ごしやすく色々を調整したこの部屋の中で、ヒロトに接触している部分だけ、所有権がヒロトに移って結構経った。このままでは玲名こそが、気疲れで参ってしまいそうだ。気を取り直した玲名は、眉をきゅっと寄せ、指先でヒロトの頬を軽く叩いて小さな刺激を与えた。

「…おい、ヒロト。私がいつ、ここで居眠りしていいと言った」
そう言って膝を左右に揺すると、すうすうと規則正しく聞こえていた寝息がはたと止むのが分かった。それから、朱色の睫毛が微かにしばたき、半開きのヒロトの口からは寝起き特有の掠れがちな声が洩れた。
これで、素足に触れるヒロトの耳のでこぼこの形や、寝息の熱さを気にしなくてすむようになるだろう。玲名はやっと、安心に胸を撫で下ろした。

「目は覚めたようだな。ちょっと休憩というから付き合ってやったのに、もう一時間以上経っているぞ。ちょっとどころではないだろう」名の顔をぼんやりした顔で数秒眺めて、ヒロトはひどくもごもごと不明瞭な口調で、「たまご」と、それから二言三言、何かの単語を口にした。きっと寝惚けているのだろう、これは本当に、すっかり眠っていたのだと玲名は納得した。寝起きに、現実と夢の境界があやふやになって意味不明な言葉をヒロトが口走ることは、割とよくあることだった。

「しっかり話せ。何を言いたいのか、私にはさっぱりわからない」
「……あー、えっと。何て言えばいいのかな。夢を見たんだけど、それがとても良い夢だった、ってこと」
「そうか。卵は何の卵だ?」
「え、にわとりの卵?なんじゃないかな…多分。お弁当の卵ってにわとりの卵?」
「部族ではないから、ダチョウの卵は入れないだろう。弁当に卵が入っていて、それが良かったのか?朝食にも卵くらい出るのに……変なやつ」
「…いやそうじゃなくてね、俺、お弁当作ってもらってさ。それがさ、手作りのお弁当で」
「それは大層良かったな。手作りの弁当に卵が入っていたことが良かったのだな」
「うん。ちょっと違うけど…良かったんだ」
「そうか」
ヒロトは嬉しげに目を細め、はにかむように小さく笑った。寝起きで潤んだその瞳には、きらきら輝くような光が星を散らしたように浮かんでいる。
「お弁当、俺はとっても嬉しかったんだ……ああでも、もう完全に目が覚めちゃったなあ」
ヒロトは哀しげな声に、玲名はひどく呆れた。ヒロトは玲名の足を頭に敷いて、午前中ほぼ丸々ずっと寝こけていただけだが、そんなヒロトに対して、玲名はずっと気を揉んでやっていたのだ。ヒロトは未だに右の太ももの上にぐっと頭を深く乗り上げたままで、その姿からは動こうという意識はちっとも見受けられない。

「この後に及んでまだ寝るつもりだったのか?もう昼だぞ」
太陽は、すでにかなり上の方、位置的に玲名には眩しいところまで登って来ていた。

「そろそろ、お前だって何か食べに行きたい頃ではないのか?」
「何も食べたくないって言ったら?俺は本当にこのまま、どこにも行きたくないよ」
「……弁当の夢を見ていたくせに、何を言っている。それが空腹の証拠になっているじゃないか、食いしんぼう」
そうするとその言い分に不満があると言わんばかりに、ヒロトが頭を玲名の太ももにぐりぐりと強く押し付けた。玲名は思わず声を出して笑ったが、それの何を楽しいと感じたのかは、玲名自身にもいまいち分からなかった。

「ほら、早く行く」
「…いやだ、このままがいい」
ヒロトは横に転がったまま玲名の腰に両手で巻きついて、それでも何を言ったところで玲名が譲らないことは理解しているのだろう、「もう!」と意味も無いことを二回も、馬鹿に大きな声で言った。

さて、面倒ではあるが、玲名はヒロトの分も食べるものの用意もしなければならない。ヒロトは多分、玲名よりもたくさん食べるだろう。玲名は、依然としてしつこく絡みつくヒロトの尻をぱちんと叩いて、学習室から追いたてた。

「それほど眠いなら、昼を食べた後で休めばいいだろう」
「本当にそうしていいなら、そうするけどね。俺は、やると言ったら本当にやるからね?玲名はいつもそうやって適当に…」
「分かった分かった、後で聞く。卵も焼いてやるから」

全く騒がしい一日になりそうだと、それは普段の玲名ならうんざりしそうな状況だった。しっとりとした静穏な空気はなくなってしまったし、秋の儚げな余韻なんて期待できないだろう。それでも、午後もヒロトと一緒に過ごすだろうことに関しては悪くない。とりあえず昼を終えたらヒロトへ逆に圧し掛かって、その上で借りた本を全て読み終えてやろう、そんなことを玲名は考えた。それで今度は、重いかもしれないなんてヒロトに気を遣ったりなど、絶対にしてやらないのだ。