「あ、玲名。どうしたの、珍しいね」 超高層ビルの一番上の階にある社長室。入室の許可が出るかでないかのうちに息せき切って飛び込んだ玲名を、ヒロトはにこやかな笑顔をもって迎え入れた。玲名の凄まじい形相に気が付いているはずなのに、動じることもない。 「…お前、車を買ったそうだが?」 「さすがに耳が早いなあ。今日納車したばっかりなんだよ?さてはもう見ちゃったのかな〜」 詰め寄った玲名に向かって、ヒロトは書類を一箇所に纏めながらひどく楽しげだ。それにはさすがに怒りよりも呆れが先行して、「今、見た」と玲名は溜め息のように口にした。 「いい車でしょ?俺もセンスがいいなあって。今週末に時間をとるから、夜景を見に行こうね」 「馬鹿が」 ヒロトは、その吐き捨てるような声にも構わない。 「海がいいの?」 「なぜ、あんな高そうな車にした?」 相手の話を聞かないのはお互い様だった。玲名はヒールで床を数回叩き、走ったことで乱れた前髪を片手でかきあげた。 「いくらかは知らんが、あれは高級車の類だろう」 「まあね。高そうっていうか、実際すごく高いよ」 何故か胸をはるヒロトに思わずかっとなり、玲名は悠然と笑う青年の眼鏡をとりあげて、両手でその頬を思い切りつまみ上げた。歪められた唇の間から「痛い」との声が微かに聞こえ、少しだけ引き上げる腕の力を抜く。 「お前は何を考えているんだ!いつもいつも…そうやって、ご近所にどんな噂を立てれば気が済む!」 「噂って例えばどんな?」 「どんなでも、だ!」 若くして成功をおさめるものは、この日本であまり例を見ない。海外と比べて日本は上下の層の格差が小さく、年功の束縛が大きいからだ。そんな中でヒロトの羽振りのよさはひどく目立つ。容姿だって、この国で言う財閥の社長然としたものではない。やたらと雰囲気のある振る舞いも胡散臭いことこの上ない。玲名は、そのせいでヒロトの真っ当な人生が、周囲に良くない方向へ勘違いされ広められることがとても気に入らないし、そう思う度に、ヒロトを気にかける自分を自覚させられることがひどく腹立たしい。実は、時々連れ歩かれているやたらとスタイルのいい美女の存在も、ヒロトの正体の妖しさに拍車をかけていたが、その件に関する認識は毛ほどもなかった。 ヒロトは、怒り心頭に発した玲名に、大抵は反論をせず困ったように苦笑いを浮かべるばかりだった。概ね、それはヒロトのことを思ってくれての怒りであることをヒロトは知っているからだ。机を叩き、熱を帯びた口調で常識を説いている今の玲名だってそうだとも。 しかし、この買い物がいかに失敗であるかを言い募る玲名の、「たかだか趣味のようなものに」だの「あんな車に無駄遣いを」だの、そんな言葉には多少むっとせざるを得ない。ある系統の物に男がかける情熱は、いつだって女に理解しがたいものだ。わかっていても、全て割り切れるかといえばそうでもない。 ヒロトは、まるで自分こそが真の理を知っている者であるかのように、やれやれと首を振った。 「…ブガッティ・ヴェイロン」 「何?」 聞きなれない単語に微かに眉をひそめ、玲名は自らの記憶を探った。ヒロトとは違う分野ではあるものの、玲名とて多少は学がある。どこかの国の学者か誰かの名前だろうかと玲名は考えたのだ。 「ランボルギーニ・レヴェントン」 二つ目の知らない言葉に、玲名は眉間の皺をさらに深めてヒロトを見た。何かの引用というわけでもないようで、全くもってその意図がつかめなかった。 「……何だそれは。お前の知り合いか?」「カリフォルニアなんて、たったの二千万だよ?ヴェイロンの十分の一……痛い痛い、関節が逆に」 「何が『たったの』だ!大馬鹿者!!」 開き直りにしか聞こえないそれに振り上げた玲名の腕を捉え、今度こそ真面目な調子でヒロトは言った。 「怒らせてごめんね。他のじゃどうしても嫌だったんだ。あれしかないって、そう思った」 ヒロトの持つ理由の重さなど、玲名は考えもしていなかった。頭に冷や水をかけられたような気がして、体の動きが止まる。 「カリフォルニアの青が一番玲名にぴったり合う色をしているから、どうしても欲しかったんだ」 「そ、…」 目を伏せがちにして、口の端を持ち上げたヒロトを玲名は直視できない。何かを諦めて受け入れるような笑顔をつくるのは卑怯だ。玲名はヒロトの、その表情にとても弱かった。 「……それは…もし、私に一番合うのがそのブガッティ、何とかだったら、」 悄然とし、途切れ途切れに言葉を紡ぐ玲名の腰へヒロトは慰めるように手を回し、ゆっくりと抱き寄せた。 「うん、ブガッティ・ヴェイロン?そっちを買ったかなあ。でもヴェイロンの青って主張が強すぎるんだよね。玲名の髪って紺色より藍色に近いし、ヴェイロンもレヴェントンも全然違う気がして。やっぱりカリフォルニアだなあって、一目見てピンと来たんだ。光が入ったときの見え方、ううん、魅せ方一つでもやっぱりそれぞれで大きく違うんだよね。本当に出会えて良かった。ああ、でもそれがヴェイロンだったら審査通ったかなあ……」 玲名の髪を一房すくい上げ、ものものしい所作で口付ける。それはヒロトが割と頻繁に好む仕草だったが、玲名の心中はもはやいつもどおりとは言いがたかった。 申し訳ないような居た堪れないようなそんな思いから一転し、ドン引きである。精神的なものばかり求めて、物への執着心を見せなかったヒロトが、それがここへきて、いきなりこんなことになってしまうとは。 「あっ!いや、あのね。色だけじゃなくてさ。あの…ほら、例えば同じフェラーリでもさ、エンツォは攻撃的過ぎるから。玲名もあのボディーラインを見たら絶対カリフォルニアがいいって思うよ。すごくセクシーなんだ。特にあの曲線の持ち味が俺はいいと思っていて、」 黙り込んだ玲名に、慌てたようにしてヒロトはあさっての方向へとフォローを入れた。重く真面目に考え込んだ自分が情けないやら嘆かわしいやらで、玲名は何も言葉にすることができなかった。ライトがどうの、ドアが何だの、ヒロトの懸命な弁にようやく溜まりかけのエネルギーを使ってその頭を撫でれば、ヒロトは弾んだ声で馬力の説明を始めるのだった。 |