「小腹がすいてたんです」

理由を尋ねられたら、こうとしか答えようがない。ちょっとお腹も減って冷蔵庫の中を覗くと四角い切り餅が袋に入って何個かたたずんでいたのだ。このシーズンには当然のように構えているそいつらは今の腹具合にちょうどいいと、さっそく磯部餅にして頂いただけだった。台所で片手に餅、片手に布巾といった具合で、シンクの縁を拭きつつ大きく一口噛み千切って、飲み込んだと思ったら、そこで餅は動きを止めた。初めから動くはずもない餅だ、要するに詰まらせたのだった。私は餅と布巾を手にしながら孤独に死にかけていた。死にそうな時まで布巾を離さないなんて、どこまで主婦の鏡なんだろうか。必死に酸素を求めて無意味にもがく腕。冗談じゃない、昨日福袋だって買ったのに。そう思ってガッと吐き出すと餅は喉の奥からぽろりと剥がれて、べちょっとフローリングに落ちた。デジャヴを覚える画だ。ともかく、私の中にあるもったいない精神は死からも救い出してくれたのだ。伊達にケチしてないなと自分に感心する。冷汗はぬぐいながら、水道水を汲んでグラスに注いだ。ぬるいとも言い難い微妙な温度が喉を通る。やけに水がゆっくりと下に流れていく気がして、これでもかという程に生きていることを実感した。とんでもない、こんなおめでたいシーズンに。

死にかけて思い出したのは、何年か前のちょうど今頃に同じような体験をしたことがあるということだった。デジャヴも納得だ。確かあの時は、彼に背中を思い切り叩いてもらって助かったのだった。最初から遠慮もへったくれもなくてある意味驚いたけれど、そのおかげで命を取り留めたのだからいくら感謝しても足りない。骨が折れたって砕けたって何だって、生きているのが一番だ。終わった後はともかく、苦しんでいる最中にはそんなことは当然も当然なわけである。いつになっても何度年を越しても、無残に唾液まみれになり床に吐き出された餅の欠片の画は、今でも忘れない。あれほど衝撃的な正月はあっただろうか。


ああ、いや、それがあったのだ。悲しいことに私の人生というのはごくありふれたものであるので、ありふれた危険だって幾らでも身に迫ってくるものなのだ。それは去年の話だった。さすがに記憶にも新しく、まだ笑い話とするにはなかなか新鮮で時間が足らないので今年こそまとめ上げて、誰かに話そうと思う。思い返してみれば、なかなかどうして私って強運の持ち主?という考えは頭をもたげる。
どうせまた飲むだろうとグラスは適当に濯いで置いておく。ふと目に入った因縁の鏡餅は、いつもなら埃が薄く積もるテレビの上にある。偽物のちっこい蜜柑が乗せられたそれは、確か今年も同じメーカーのものだった気がする。そんな細かい事は気にしない私だから彼には心配されたけれど、今年また詰まってもまた助けてくれたらいい話じゃね。流石にこれは冗談でも本気で怒られる気がするので彼には絶対言わない。それに実際もうあんな筆舌に尽くしがたい苦しみは二度と味わいたくない。一度だって経験したくなかったが、終わったことは仕方ない。それに、どうしても餅は好きなので悪夢を見る可能性は常に私の傍に漂っている。

とにもかくにも問題は去年である。否、あれは死の危険はなかったかもしれない。でも、精神面への衝撃だけで云えば話は深刻なのだ。去年は彼がいないときに死にかけていた。なぜなら彼は近場のスーパーに、風邪を引いて三が日は寝込み確定の私の為に薬やら冷感シートやらその他もろもろ、買い出しにいってくれていたからである。彼が出ている間、無償の愛を感じながら病人らしく布団の中でおとなしくしていた私に危機が訪れるなんて、誰も想像していなかったはずだ。うら若き乙女には耐え難いあんまりな経験をしたので、その具体的な内容は未だ彼にも言っていないし今のところ言う気もない。言霊ってこわいもので本当にありそうな気がするので、これこそ二度と御免だ。やっぱり話にするのは来年位がちょうどいいのかなと思う。



そうしてめくるめく我が正月サバイバルを振り返っていたら、ようやく、ただいまーという彼の声が玄関から聞こえてきた。一人でいるとまたあんな目に合う気もするので、いつもに増してその声が聞こえて安心した。リビングを抜けて少し寒い玄関口まで行くと、彼はわずかに赤くなった頬を摩りながら、また「ただいま」といった。外の空気は彼にくっついて家の中にわずかに入り込んできた。少し肩をすぼめている私に「外はもっと寒ぃんだぞ……」といささか恨めし気にごちるので「ありがとう。おかえり」と、彼が手にするエコバッグを受け取って、靴を脱ぐ彼を待つ。「今日は蕎麦だろ」と言うので袋の中をちらっと見ると、蕎麦とねぎと七味と天ぷらと、お餅が入っていた。年越しそばの材料は、毎年彼が買って来てくれることになっている。餅は相変わらず買ったらしい。彼が好きなあんこ餅は私も大好きだ。でも、まだ我が家には暫く無くなる気配がないそいつらが沢山待っている。


「まだ冷蔵庫にも何個もある」
「え、本当か」
「うん」
「でもこれ、小さくカットされたやつだから」
「うーん……」
「これならもう詰まらねえだろ」


満足げに笑って私の背中を押す彼に、「なんなら餅じゃなくても良くない?」とはうっかり言えそうもないので、今年も私は笑ってごまかす。そこでようやく台所の吐き捨てられたまま放置していた存在を思い出し、慌てて始末しようと走る。まずいと思って急いで台所に駆けるが、たかが知れている。否、私は諦めない。毎年のように怒られ、心配され、不審がられながらも、今年も無事に終わる。はずだ。「どうした?」と後ろから訝る声を片耳に、私は今年一番の俊足を発揮した。処理し終わったところで「なんでもないよ」と、また笑ってごまかすと、彼の目つきが険しくなりこちらに詰め寄ってくる。本日は二度目の冷汗を垂れ流し、うまい言い訳を考えていたら、ぽかりと栄螺殻が頭に落ちる。年の終わりに隠し事なんてするもんじゃねーぞ、と存分に睨みを利かせて言うので仕方なく口を割ると、今度はさっきよりもとびきり大きな栄螺殻が惜しげもなく落ちてきた。縁起良いねぇ。


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