できるだけ慎重にノックをする。扉の中から、聞き慣れた声がこちらへ入室許可の返事を返した。きらびやかに装飾が施されたその扉を開く。一歩踏み出して色んな思いをぐっと噛み締めながらゆっくり部屋に入ると、彼女はこちらに背を向けていた。二人で選んで決めた真っ白いドレスを纏っている姿に、自然に口角は上がってしまう。声をかけようとしたとき、彼女が「よーし」とつぶやいたのが聞こえた。まさか、もしかして、ともすれば、このムードを台無しにする気ではないだろうか。嫌な予感はだいたい当たる。


「呼ばれて飛び出て…」


続きは意地でも言わせない。時子がさっそく振り向こうとするが、そこで慌ててストップを掛ける。振り向く前の言葉はどうしようだとか色々考えていたというのにそんな俺のささやかな計画が、がたがた音を立てて崩れていく。今日は結婚式の筈だし、しかも俺らが主役だ。なのに、何故こうも雰囲気が出ないんだ。俺は静かに絶望した。それは言い過ぎだとしても、たしかに心が深手を負った。


「ちょっと待て、心の準備が出来てねーよ。早過ぎるだろオイ」
「え、もう私半分振り返っちゃったじゃんよー」



「じゃんよー、じゃねえよバカ!」と叫び返してやりたいのを堪える。中途半端に体が傾いている時子にすぐに近づいてその肩を掴みながら、俺は自分の中から緊張感がなくなっていくのをなんとなく感じた。どうしてここまで無神経になれるんだと今更になって驚いたが、彼女の体はがちがちになっていて、はっと驚く。凄く緊張しているらしいという事が嫌でもわかったのでさっきのは強がりかとほくそ笑む。俺でさえ既に手汗がべったべたで気持ちが悪い。
結婚式前の厳かな、でも幸せなひと時のはずなのに、俺らがするとちゃちなギャグになっている気がするが、大体見当はついていた。


「夢見すぎてたのかもしれない」
「なんか言った?」
「言ってねーよ」
「なんで怒ってんの!」
「怒ってねーよ!」


なんだこれ。なんだか落ち込みそうになるが、気を取り直して前を向く。綺麗な装いをしていても、中身はやはり変わらないものですか……そうですか。たしかに人間直ぐには変われない。ましてや特別なことで体が固まっているような時には襤褸だって幾らも出ちゃうだろう。時子の格好はまぎれもなく花嫁のそれで、きっと俺もそれなりに花婿らしさのひとつやふたつ、出ていてもおかしくはない。
それで十分だと思うことにした。諦めよう。良い意味で。良い意味で諦めよう。


「時子ちゃん察してくんない?タイミングとかタイミングとか」
「いや、なんか恥ずかしくて」
「だからって呼ばれて飛び出てはやめよう、な」
「本当すいません」
「別にそんな謝んなくてもいいけど」



もう俺はこの何年間かで振り回されるのに慣れてしまった。亭主関白とか、少しだけ憧れてみたりしたけど「おい、チョコパフェ」なんてかっこつかない。しかも、そんなことを実際に言ってみろ。殴られておしまいだ。とりあえず坂田夫婦には絶対無理であるけれど、それでもこいつが根はしっかりしている奴だって知っている。俺のためにお菓子作りも頑張っているのも密かに知っている。そのせいで、彼女自身何キロか太ったのも知っている。


「良い?振り向くよ?」
「あー、じゃあもう、はい…」


くるりとついに振り向いた彼女と対面した。べたな言い回しだけれども、一瞬時が止まったように感じた。それから口をぽっかーんと開ける俺に、笑って「どう?」とドレスの端を摘んでみせる時子は確かにアレだった。アレ。三文字が脳内をどっしりと陣取る。悔しいが不覚にも少し驚いた。きっとウエディング効果、或いは花嫁効果、婚前効果。そんなもん有るのか知らないけれど、そうじゃないとおかしい。意識すればするだけ見つめてしまって、すぐに目を泳がせる。黙っていてもわかるような自分の挙動不審具合に「いやいやいや!俺変態か!」と内心ツッコみを入れる。どこへ行ったんだ、さっきまでの余裕は。どこへ消えたのか、平常心。まさかこれほどとは思わなかった。



「はは、どうだ!」
「え!?」
「なに」
「あ、あー化けるもんだなーうん」
「それ……褒めてる?」
「当ったり前だろ。銀さん素直だからマジで」


へえーとにやつきながらこっちをいかにもな様子で見る。彼女はそれから満足した風に笑った。その笑顔に、この空気に、なにかこう胸に迫るものがあって、咄嗟に時子の手を取る。驚いたように手と俺の顔とを交互に見てから気づいたように少し俯く姿に、ああ、と思ってどうしようもなく頬が緩む。


「照れてんの?」
「……うっさい」
「……へえー」


さっきのお返しのつもりで茶化すと、みるみる彼女は赤くなる。このままだと暴れそうだ。しかしこれは何というか、彼女が見せたくなるのも頷ける。冗談とか世辞とかそんなんじゃなく、本当に花嫁というものは世界で誰よりも、何よりもきれいだなぁと思った。
俺も楽しみにしてたというのもあるけれど、こんなに結婚式が特別で輝かしいものなんだとは知らなかった。今日くらいは少し素直になりたい。コイツが居なかったら、きっと長い間若しくは未来永劫、こんな喜びはわからないままだったろう。

「似合ってる」そう言って、握っていた手をやんわり離してしっかりと時子の目を見て、何となく笑い合う。こういうのが良い夫婦だよな、多分。


- ナノ -