「やめろ馬鹿、今すぐ」

「えーいいじゃないですかー」


 カラスが鳴いている。唇を突き出してぶうぶういう奴の頭に、ゲンコツをお見舞いしてから眼鏡を掛け直した。またしても感触は無い。「暇なんですよう」と半透明の体で漂うようすはくらげを彷彿とさせる。色の彩度で謂えば、ビニールセロファンのようでもある。声は少しエコーを掛けたように頭に響き、普通とは違うのがわかる。

 痛がる気配などさらさら無いようだが、チッとわざとらしさ全開で生意気に不満を訴える、その顔はきっと年相応だ。俺が、一向にマルが着かない我がクラスのテストの答え合わせをして三十分が経過した。そこで、既に飽き出したらしく、そいつはさっきから俺の前で奇妙なポーズをとっては俺を笑わしにかかっているが、半透明なので威力は半減している。



「俺だって好きでやってんじゃねえよ?誰が嬉しいってんだ、こんな珍回答連続の採点」

「じゃあやめちゃえばいいじゃないですかー」

「それがそうもいかねーの」

「ハッ……つまらない男」

「おい、っていうか視聴覚室勝手に使うなって言ったろ」



ギクッと、自ら効果音を付けてふざける。昼ドラの影響を大いに受けた台詞を一刀両断。視聴覚室に勝手に入り込み、昼休みを活用してこいつがどろどろの恋愛サスペンスを観ていることを俺は知っている。何故なら、俺はこの学校の先生だからだ。

ようやく終わりが見えてきた採点、スパートを掛ける前に片手で肩を揉みほぐす。凝ってしょうがない。それを見てか、そいつはひゅんと飛んできて、「はい!私が!」と言い俺の肩に手をかけて力を入れはじめた。不思議な話だが、触れたいと思うものには触れられるらしい。卑怯な仕組みだ。


「おー…気持ち良い」

「お代はプリンで結構ですよ」

「一口な」

「くっそ!非道!極悪人!」

「言ってろ言ってろ〜」



 散々な言いように笑いながら採点を続けていると、ふと肩から重みが消えて、俺の髪の毛へと動いた。

「なに」

「ちょっと」

こそばゆいような、最近誰かに髪の毛をいじられたこともないので、なんだかやけに胸騒ぎがする。ふざけんな俺は中学生か。表面上では落ち着きを保ちつつ「くすぐったいんだけど」と後ろを見遣ればそいつは楽しそうに、「だってふわふわなんですもん」と言ったままいじるのをやめない。答えになってねぇ。とりあえずそのままにさせておいて、点数を数え出す。バツばっかりなおかげでこの作業はとてつもなく楽だ。悲しいかな、慣れた。

ようやく最後の一枚に取り掛かったとき、手が離れて、そいつはふっと俺の目の前に回り込んできた。何となく気配で確認して、答案にしっかり目を添わしよくよく見るとその答案はこいつのものだった。俺が試しに解かせてみたのだったが、それをすっかり忘れていた。

「あ、私のだ」

「だな」

ゆっくり確かめていくと、出来はまあまあと言ったところだったが、字が汚い。みみずが這ったような感じだ。生前もこんな字だったのなら、絶対モテていないだろう。字が綺麗なやつはそれだけで得だ。


「つうかおまえやべーよ、読めねーよこんなひょろひょろの字」

「うっそだー。ちゃんとマル付けてくれてるじゃないですか」

「だから、俺くらいしか読めねえっつの」

「そんなに?」

「そんなにだよ、どこの象形文字だってくらいある意味難読だよ」


なんとか解読しつつマルを付けていくと、今度こそ本当にむちゃくちゃな、古代文字みたいな字…とも言えるか怪しいものが回答欄から外れた下の方に並んでいた。パッと見では全然読める気がしない。点数を付け終わったのに、謎が残る。


「…78点」

「おー!なかなか」

「字は3点」

「えええ」

「当たり前だろーが。マイナスでも良いくらいだな」


そう言いながら再び用紙の端っこをじいっと見つめる。ますます何なのかわからない。古代文字の解読は専門外だし、なんとか一人で解いてみようと思ったがやはり無理だ。


「おい…この下の…字?なんて書いてあんの?俺にも読めねーぞこれ」

「ああ、それですか」

「なんで笑ってんだ」

「ちょっと我ながら恥ずかしいこと書いたな、と」



頬を人差し指で照れ臭そうに掻いたなら、しばらく考えるような素振りをする。まさか自分でも何書いたか読めないとか忘れたとかじゃねーだろうな……。疑う俺と目を合わせて、それから糸がぷつんと切れたようにして、途端に叫びだした。


「ああやっぱすごく恥ずかしい!それ読まないでください!」

ついでに準備室中を勢いよくぐるぐる回り始めた。照れ隠しだろうか?と俺が首を傾げるのもつゆしらず。「心配しなくても読めねえよこれ」とそいつに届くように声を掛けると、でも、とか、いやとか言いつつ、だんだんとスピードが弱まり暫くして俺の前へとおとなしく止まった。デスクを少し片付けながら、顔だけは前に向けていると、そいつが神妙な面持ちだということに気がついた。急に顔つきが変わったから、俺はなんだかついていけない。


「私、死んでるんですよね」

「どうしたいきなり」

「なんでこうなったとか、なんで突然国語準備室に現れたとか、まるで覚えていないんです」

「ああ」


空のイチゴ牛乳のパックを、ごみ箱へと放り投げる。ひゅんと放物線を描いて、安っぽい音と共に中に消えた。小さく拍手をしているようだが、肝心の手を叩く音は聞こえない。それもそうだ。しかしうまく言えないが、床に足を着けて俺を見つめる眼差しは、ただの高校生だというようにしか見えないし、そうとしか思わない。話を反らされたことに気が付いたが、もう別にどうでもよかった。


「かれこれ数ヶ月前ですね」

「俺も驚いたわ、あん時はな」


片手間に初対面の日を思い出す。なんでもない日だった気がする。そうだ、こいつが現れた以外いつもと変わっていたことも無い、ありふれた日だった。ただ放課後、準備室でイチゴ牛乳を啜るこいつを見た時は驚いた。そしてあの時は、怖いと思うよりもなによりも、腹が立った。半透明なのに、イチゴ牛乳はこいつの腹の中に当たり前のように消えていった。今思えばおかしな話だ。



「なに勝手に人のもん飲んでんだ、ですよ」

「いやーあれは自分でもわからないけどね。ふっと口から出たわけ」

「あの時喉がからからで死にそうだったので、すみませ……あ、もう私死んでんだ」

「一人で完結させてんじゃねーよ」


輪郭もしっかりとしているとは言っても半透明だ。慣れてきた自分が、少し不思議だ。それでいて、わかりやすくころころと表情が変わる。俺はそれから鞄を手繰り寄せ、入っていた何時の物かもわからない飴玉をしんみりしていた筈のそいつに向かって、ぽいっと投げる。


「おあ、わっ!」

「そんくらい取れよー」

「取った!」


もたつき、あたふたしながらもちゃんとキャッチしたそいつはその飴玉をまじまじと眺めた。大丈夫。賞味期限なんて、幽霊には関係無いはずだ。


「何味ですか」

「さあな、忘れた」

「これ貰っていいんですよね?」

「ああ、ただし二つほど条件がある」

「えー?二つも?」

「なんてことねー簡単なもんだよ」


夕焼けチャイムが外で響いている。飴玉と俺を交互に見比べるそいつの体は、橙の光を透していた。生身の人間との違い、それはこんなに綺麗なものだ。今俺は、一つの小説文が書けそうなくらい、有り得ない状況に居る。



「一つ、俺の食料を勝手に食わないこと」

「う」

「絶対だからな」

「わ、わかりました」


はたして、飴玉一つと引き替えにこいつの食指が収まるのか些か心配だが、今は目をつむっておくことにする。それよりも大事なことがあったりしちゃうから。照れが顔に出ないように努めて、落ち着く為に空気を吸ったが、ホコリも一緒に吸い込んだらしく咳き込んだ。台なしだ。


「ゲホッゲッ」

「え?大丈夫ですか?」

「…おう…」

「じゃ、もう一つの方を教えてください」

「…ああ。二つ、」

「ふたーつ?」

「勝手に消え、ん、ゲッな、ゲホッ」


慣れないことはするもんじゃない。かっこつけるつもりが、ただの風邪気味みたいになる。そんなことだってある。もしくは、俺にはそういうかっこいい台詞はどうしても言えないという呪いがかかっているのかもしれない。あ、そうだそれだわ。絶対にそうだわ。


「もちろん」


俺が無理に言わせたに過ぎない。そんなこと、約束できるはずないのに。


読めない手紙
10.12.25



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