※現パロ


普通の会社員をしていたが、人目を気にするのは癖だった。何処に行くにも視線を人一倍気にしては、耳を傍立てて自分のいい噂を聞けばそれで満たされた。手すりを掴む右手が少しべたつく。最近、スマートフォンに替えたばかりで、空いた左手で携帯をいじることができない。もどかしく思いながらも、不恰好になってはいないかと憂い、仕方なしに流れていく外の風景を見ていた。光が煌めく都心部から電車が進むにつれ、建物の明かりが少なくなって、小さくなっていく様子がわかる。とうてい都心になど住めないので、この辺りでようやく肩の力が抜けて安心するのだ。とは言え、緊張を解くにはまだ人の目が在りすぎる。


仕事の疲れが肩にのしかかる。気怠さと一緒にやってきた眠気に負けそうになって、扉にもたれて頭を微かに揺らしている。気を緩めていた。気を緩めていること自体に気が付かなかったほど、疲労は溜まっていた。そんな時に何駅か過ぎた頃突然、何かがどこかから落ちた音が大きく車両全体に響いた。どすんという鈍い音と、金属が擦れたような高い嫌な音だった。反射的に身体が揺れ、振り向いた目の前には男がいた。近い。自分の心臓の鼓動が耳に響く。

それも、椅子の部分から転げ落ちて床に伏している。面倒事には巻き込まれたくない。どういう事か考えているうちにじっと見詰めていることを今更のように心付く。さっと顔を背けて周りをさりげなく見渡せば、人は自身とその男だけだった。都合が良いのか悪いのか、顔は見ることはできないが、背中は若そうな会社員という感じだ。酔い潰された若手新入社員というところだろう。そう、冷静に分析出来るのが不思議だった。

想像の中の話だ。哀れな酔っ払いはこのままきっと終点駅まで辿り着いて、駅員さんに肩をとんとんとされて起こされる。それで起きそうにもないなら耳元で「お客さん、終点ですよ」と大きめに声を掛けられて、ようやく目を覚ます。おそらく明日も仕事があるであろうに、そんなことになるとは本当にこの男はついていない。遅刻をして、上司に頭を下げて、散々だ。

勝手な想像をされていると知ってか、床に固まったままの会社員はわずかに呻き声をあげた。思わず冷や汗をかいて咄嗟にハンカチを取り出したが、結局男の動きはそれだけで起きる気配も無い。数十分後の不幸な未来を想定して憐れんでいると、次の駅に着いたというアナウンスが聞こえてくる。降りる駅まではあと二つだ。近頃の電車は静かで早く進む。もし男が降りる駅はとうに過ぎていたとしたら、それだったら今起こしてあげた方がいいだろう。人がいないせいなのか、驚くほど即決し、素早く彼の近くに寄って終点駅の駅員の代わりに肩を数回叩く。
酔っぱらいの筈なのにちっとも酒臭くないという点は、胸に留まらず通り過ぎて行った。扉が開いても乗り込んでくる人は居らず、胸を撫で下ろす。会社員風の男に掛けた平凡な女の「あのー大丈夫ですかー」という声が、はっきりと響く。それでも起きない。もう一度、今度はちょっと強めに肩を叩いてセリフも音量大きめで復唱するが、まったく変化がない。


漫画のような展開に心の何処かで期待をかけていた筈が、繰り返すうちにやけになってきた。二人きりだと思えば、むしろ気が楽だ。こちらを評価する人間は、ここには男一人のみ。その肝心の男も今は反応が無い。調子づいていつしか喧嘩を売るような勢いでどんどんと背中を叩き「あのー!!」と、耳元で叫ぶように声を掛けるようになった。エスカレートしていくのが自分でも分かったが、男がもぞもぞと動き出すのに気付くまでそれは続いた。

「…あぁ……あ?」
「あの……」

こんなのっておかしい。そう思った。とうに男の事をきつく叩いたなんてことは頭には無く、一瞬で忘れてしまった。睨まれる筋合いはないはずだが、男の両眼の眼光は鋭く突き刺さって抜けない。私が起こしてやったのだ、なぜこっちがこうもいたたまれない気持ちになるのだろう。しかし、何と言ったらいいかもわからずに狼狽えるのでは、こちらの格好がつかない。慌てて「お仕事大変ですね」と脈絡も何もない様な事をのたまった。何を言ったらいいのかもわからず、また考える間もなく、口からついて出るという具合なのだった。変に思われただろうな、と泣きたいような気持ちになる。
ぼやけた視界に知らない女がどアップで映り、視界が明瞭になればなるほど、男は逆に状況が理解できないのであろう。一瞬訝るように見止めた後、わかったように一度浅く頷いて、男はふらふらと立ち上がった。なぜ自分がこんな思いをしなければいけないのか、男の具合は悪そうなものの、彼の態度は至って平然としているのを見て更にそう思った。

「えっと、大丈夫ですか」
「……ああはい、大丈夫です」

立つのもやっとに見えるが、片手にはしっかりと鞄を握っている。酒ではないなら、疲れだろう。改めて相手の辛そうな様子を見受けて男に妙な仲間意識を持ったところで、彼女の中の先程までの恨みにも似た感情はあっという間に解け消えていた。心の中で、女の感情は簡単に二転三転する。大丈夫そうに見えない人ほど、大丈夫だと言うものだ。見ていると、放っておけなくなる。さっきまで自分が掴まっていた手すりを辛そうに握る姿に、涙はひっこみ、思わずどきっとする。なぜだかそれが妙にかっこいい。今までにないようなシチュエーションのせいで、急に男が素敵に見える。ただの言動も行動も、脳内ではいいように補完される。ここまではまるで恋愛小説の展開だ、と。人目が無いという点は、弱い背中を思い切り押してくれる随一の要因だった。


電車が止まる。アナウンスの音声に紛れて「間接握手……」という心の声が外に漏れた。そのことを両者どちらも気にも留めず、男は「すんません。もう大丈夫なんで」と低く言う。上手い返しも見つからず、「そうですか…」とつぶやくように口にする。気まずさを感じて、自分のそっけなさがにじみ出るような口ぶりに、男はすぐに少し後悔した。ところが、彼の目の前の女の顔色を窺えば、落ち込んだり怒ったりするどころかなんだかどうにも嬉しそうだ。不思議に思いつつ、男は笑顔の相手に向かって「よくわからないですけど、ありがとうございました」と伝え、愛想よくふっと口角を持ち上げる。

お互い黙って、再び車内は静かになった。その先うまくいくもいかないも、多分、自分次第なのだ。今ならいける気がしている。男はもう女ではなく、外を見ている。ただただ流れる景色を、黙って見ている。彼にこちらを見て欲しい。「ばーか」声にはせずに口を動かせば、彼と目があった。



12.04.03


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