夜にどうでもいいような格好をして、そう、例えば少し散歩に行く程度の装いで、辺りを徘徊するのが少女の日課だった。今日は淡い色のワンピース。ありふれたような、といっても彼女はこの街に他を知らないが、この街も、闇に包まれ月がやわやわと照らし出す夜中となれば、がらりと纏う空気を変える。それに誘われるように今日もまた。


ほんのちょっと、いつもより遠くまで歩いただけだった。暗い通りの奥に、金色が見える。鼻をつく匂い。静けさ。しばらく夜の散歩を続けていた少女は、夜目が幾分か利くようになっていた。金色の、人の髪だということがわかる。淡く光るそれは早くしないと消えてしまう、そんな気さえした。急いで近付き、立ちすくむ。金色に光る髪の正体は、見目は少女と同じくらいの歳であろう少年だった。壁にもたれ掛かり、顔を上げてこちらをじっと射るように見ている。その少年の体は、月明かりに照らされ、赤黒く染まっていた。


「…誰」
「あ、」


意表を突くそのあまりの姿に足がすくみ、歯はがちがちと鳴る。それでも少女が意識を手放さなかったのは、意思の強さか偶然とやらかどちらともつかない。これは、どういう。声には為らなかった。少年のさらりと垂れ下がる前髪の隙間から、深く青い目が覗く。今の少女には整った目鼻立ちも恐怖を増させる一因となる。その少年は、ナイフを隠し持っていた。目の前の見るからに自分を畏れている少女を直ぐにでも殺さなかったのは、同情心でも優しさでもなく、ただの気まぐれだった。


「あっ、あの、」


しばらく開閉を繰り返し、身体に酸素を送り込むだけだった少女の口は、ようやく情けなく音を出した。肌に突き刺さらんばかりの雰囲気が襲うが、少女は動かない。動くことができない。逃げた後ろから刺してやろうか、とも思っていた少年は少女がそうしようとしないことを知り、見てわからない程ほんの僅かに口角を上げた。


「……誰って聞いてんだけど」
「あ、の」
「そのちっさい声うぜーからやめてくんね?」
「…」
「王子が聞いてやってんだからはっきり喋れば」



僅かに頷き、吃りながらも名前を口にするひ弱そうな少女は続けて、懐からなにかを取り出そうとする。まさか、と一瞬にして目の色を変え眉を吊り上げる少年。こんな糞弱そうなヤツが、と思いつつ、自分に害をもたらす存在、害をもたらす可能性のある存在は殺すだけ、鉄則に等しいそれに基づき寸秒ナイフに手を掛ける。しかし、その意に反して少女はおどおどしながら、丁寧に白いハンカチを取り出した。


「これで、拭いて」
「……」
「…いらねー。王子にこんなだっせえハンカチ渡すなんて有り得ねえ、生意気」
「でも、血が…」
「もう乾いてるっつの、良いから早くしまえよ」



拍子抜けしながらも、依然強い口調で少年はさらさらと言葉を連ねた。毒でも染み込んでいたら困る、なんて考えた頭が言い訳がましく思えるのは何故だ。少女からは見えない位置にあるナイフから、手を離す。いざとなれば素手だってやれる。少年は見くびっている訳ではない。シャツについている血は、彼のものではないのだ。それだけ。見たとこ一般人である女がこの俺に話し掛けてくるなんて良い度胸じゃん、と楽しそうに、笑う。困惑の表情を浮かべる少女はそれでも動かない。興味を湧かせた少女に、少年は自らの名を教える。


「ベルフェゴール」
「え…?」
「俺の名前」
「…ベルフェ、ゴール」
「そ、カッコイイだろ、王子にぴったり」


ベルフェゴール、意識の中で反芻する。少女は握る指先に力を込めた。そして恐れをなしていたばかりに気にならなかった、気にする余地など無かった王子という言葉。少年が何故そんな風にいうのか、理由なんぞ聞きたくも聞ける訳が無く、少女は黙って唾と一緒に飲み込んだ。


「お前、恐くねーの?血」
「……こ、こわかった…けど」
「…」
「綺麗だった から」


邪気の無い目で、そんな事を言われたのは少年にとって初めてだった。綺麗?愚かしい程の素直さに飲み込まれそうになる。ほのかに照らされる少女の身体の線はあまりに頼りない。幻覚では無いか、とすら感じた少年は馬鹿みてー、と間髪入れずにそれを頭から取り消す。恐がっていた筈の目先の少女は視線を逸らそうとはしなかった。益々良い度胸だ、見えた彼女の素性に元来飄々とした性格の少年は敵もそれ以外もどうでもよくなっていた。


「ふーん…しし、お前見る目あんじゃん」
「有り、難う」
「じゃあ特別に、もうひとつ教えてやるよ。何知りたい?」


少年は今度ははっきりと白い歯を覗かせる。


「……なんで、こんな夜中に、一人ぼっちで座ってたの」


目を見開いた。


「は?どーして血まみれかって、聞かねえの」
「……」
「しし、お前面白いね、王子気に入ったかも」



んーっしょっと、と立ち上がり笑う少年に手を軽く引かれる。薄くて冷たい手だ、そう思ったと同時に、少女は少年の胸にすぽりと収まった。血の乾いた匂いと、少年のものである香水の香りが鼻を通る。目をぱちくりさせて、掴まれていない方の手を行き場も無くあたふたと動かしている少女を見て、少年は愉しそうに笑う。それを知り、彼女の手は益々慌ただしく動く。

しかし少年は少女の腕を再び掴み、自分の背に回させた。暗闇の中で、お互いの体温だけが確かに伝わるようだった。彼もおとなしくなった少女の背にやおら腕を回す。



「俺さあ、夜ってちょっとすげーなって思うわけ。まあ、王子程では無いけどね」
「…うん」
「昼より好きかもしんねー。オマエにも会えたし」
「え、と」
「しし、照れてんの?」
「や、その」


少女の困る様子もこの近い距離も、案外嫌いじゃない、と思った。呼吸音がやけに大きく響く気がする。少年は知らぬ間に口が緩くなっていた。



「俺いつもここで暇つぶしてんの、で、なんか帰るのだりーからちょっと月とか見てたりしたわけ」
「…そうなんだ」
「血でくせーけど、少しはあったけーだろ」
「う…ん」
「な、まだ怖い?」
「もう…こわくない」
「ふーん、じゃあ良いか」


彼女の細い髪から石鹸の匂いがふわりと漂うのを軽く吸い込み、少年は包んでいた腕をぱっと離した。途端に静寂とうっすらとした冷たさが体に染みる。大分時間が経ち、辺りもやや見やすくなっていた。いつの間にやら彼の持つその暖かさに慣れていた少女は、幾らか寂しそうにして身を引く。満足そうに笑った少年は軽やかに後ろに下がった。


「オマエ王子のことスキだろ」
「…え?」
「だったら、今日みたいな月の日の夜、またここに来いよ」


少女は澄んだ瞳で空を見上げる。満月だ。ぽっかりと浮いている大きなそれは、少年の綺麗な金色を思わせた。


「待っててやる、そしたら次は俺にオマエのこと教えろよ」
「わ、わかった」
「お眼鏡にかなったって事だかんな、嬉しーだろ」
「…ふふ、うん」
「しし、忘れてたらぶっ殺すかんな」
「うん」


正体不明の少年の言葉は例え物騒でも、大人たちのものよりうんと透き通るように伝わった。この不思議な逢瀬を忘れるわけ無い、気持ちは胸の内だけで穏やかに並ぶ。やっと頬を緩めて声を出しながら少女は笑った。少年は視線を逸らしたかと思えば路地裏へと徐々に歩み出す。



「それと、」

「そん時はオマエ、ちゃんと俺の事名前で呼べよ」



少女がこくり、と頷いた途端、王子と名乗る少年はいじわるな笑みと共にどこかへと去っていく。少女はゆっくりと、空をいつまでも見上げていた。



して、その頃少年は、とうに目的地に着いていた。



「やっとお帰りかい、ベル」
「あ、マーモン」


彼の同僚、仕事仲間の赤ん坊がひょっこり現れた。廊下を歩いていた足を休めて少年は思い出したように語る。少女は今何をしているのだろう。


「そうそう、今日でっかい満月だったぜ」
「ム、そういえば……だけど、ベルがそんな事気にするヤツだなんて今まで知らなかったよ」
「まあねー」
「何だか楽しそうだねベル。まあ、満月はひと月に一度だし、昔から神秘的な力を持っているとかよく言うし。僕は信じてないけどね」


突然聞かされたその話に、少年は瞑目する。それは赤ん坊からは見えないが、彼は確かに驚いていた。


「…あ?マーモンお前今なんつった」
「神秘的な力うんぬんは僕は信じてないと言ったん、」
「それじゃなくて一個前」

聞き間違いだと祈る彼は苦笑しながら答えを待った。しかし、その願いも虚しく赤ん坊は当たり前のように言う。


「満月はひと月に一度だって言ったんだよ。そもそも暦の月っていうのは空の月の満ち欠けを基にして決まっているのであって、満月がひと月に一度なのでは無く、それに…」
「あー…はいはい」



いつもするように面倒な話は軽くあしらう少年だったが、内心ではがっくりと肩を落としていた。曇っていく表情に赤ん坊は訝しげな眼差しを向ける。そんなものには目もくれず、止めていた足を動かす少年。彼にしては珍しく先程の言動を後悔していた。満月は月に一度、と復唱。なんてことだろう。唇を噛みながら、自室に戻る足を速めた。



「ゲエーッ、うっわ、マジ失敗」


夜と月とワンピースと

10.08.27


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