僕は、



頭を悩ませながら書類、主に借金関係のそれらを書いていたら、ペンのインクが無くなって、次第に出なくなっていった。なんでもない、いつも目にしている光景。ただただ当たり前の事に、何故だか胸が軋んだのだ。減らないものなんて無いのか、消えないものなんて在るのだろうかという果ての見えそうもない疑問は見えないところで日に日に積もっていく。寝起きの眼に差し込む淡い光は、思考を穏やかに追い立てる。普通に言うと、散々考えてしまうってことだ。

「おはよう」
「お、おはよう…ございます」
「よだれ」
「えっ」
「うっそーん」

それは、無常感と言うそうだ。ちゃらんぽらんに見えるこの女の人が教えてくれたのはつい先日のことだった。目を覚ましてからすぐに声が掛かることの幸せを噛み締めながら、僕は時計を見て仰天した。ひどい。

「も、もうこんな時間!?」
「お昼だねえ」
「えええ、なんで起こしてくれなかったんですか!」
「ちょっと待て。最近寝不足でしょアレンくん。ここ、隈があるよ」

いきなり目の下をなぞる指先にどぎまぎし、そして僕はまたびっくりした。そっか、最近あんまり眠れなかったしな、だからかな、でも。あからさまな寝坊に狼狽しながら、しかし動くことを制された僕にはどうしようもない。できることは、強いて言えばベッドのシーツにシワを増やすくらいなものだ。そんなの知っていたことなのに、なんだか不意に脱力感に襲われる。

「君が大切にしてたお花の水やりも洗い物も、ちゃんと終わったよ」
「へ……す、すみません!僕の仕事なのに…」
「楽しかったよ」
「え…」

ふふふと笑って彼女は漸く僕のベッドから離れていく。楽しかったんだ、とぽかんとするはめになった。そういう仕事は嫌いなんだと思っていた、僕は、勝手に。決めつけていたというと聞こえが悪いが、つまりはそうなのだ。僕は。

「だいじょぶ。元帥にはうまく言っておいたから」
「…あ、ああ有り難うございます。助かります……」

彼女は、やってみると良いもんだとご機嫌な様子で僕の部屋のカーテンを開いて、ニコニコと笑った。本当に楽しそうだ。騙されている気はない。でも、彼女にはてんで甘い師匠にこれを見られたら有無を言わさずシメられかねない。

「だから今度から私がやりた」
「そんな!師匠に殴られますよ!僕が!!」
「えー?いいじゃないか」
「ええ…?じゃ、じゃあ妥協案をひとつ」
「ん」
「僕と一緒に、仕事、しませんか」
「うん」
「……なんて…あ、ははは…」

まずい、絶対今顔が赤い。調子に乗ってしまった後悔がなみなみと溢れ出す。いつのまにこんなに調子のいい奴になったんだろう。どうにも恥ずかしくなって俯いていたら、離れていたはずの彼女が何時の間にか近くまで戻ってきていて、ついでに顔まで近くて、爆発するかと思った。大袈裟とは言わせない。

「もちのろん」

肩の力が一気に抜けて、冗談じゃなく倒れそうになる。おどけた口調で、僕の頭を撫でる。「寝癖おもしろいねー」となどと言いながらにやにやするので、やっぱり恥ずかしかった。ああ、よかった。多少でしゃばった感は在ったが、彼女は優しかった。知っていた筈なのに。そうして、いよいよ彼女は離れて扉の方へと歩いていき、見計らったように口を開いた。


「ご飯温め直してくるから。ちょっと待っててくりー」

マヌケな言動に思わずぷっと吹き出す。本当にあの人は僕より年上なんだろうか。唐突に、変わらないものって、案外近くにあるかもしれないなんて思った。例えば、この日常。ハハハとわざと一人で笑ってみるが、可笑しい。ずっとずっと、このままでいられたらどんなに良いだろう。彼女が元気づけてくれるこの毎日の繰り返しと穏やかな空気に絆された挙句、そのうちに、「救済」なんて言葉も忘れてしまうだろうか。

そんなことをぼんやり考えただけで、狭い心の何処からか罪悪感が芽生えた。僕は、僕は。俯いていたら、部屋の外から良いにおいが漂ってきて、思わず目の前が滲む。考えすぎるな、と珍しく真面目な顔をした元帥に言われたひとことが頭の中で反芻する。なにもかもベッドに染み込んでしまった。僕は、弱い。



海に手向けた花
10.12.10


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