差し出されたマグカップを啓介が両手で受け取ると、兄はまた自分のコーヒーに口をつける作業に戻った。甘党の啓介とは違い、砂糖もミルクも入っていないコーヒーを恭介は平然と飲んでいる。だが、香りを楽しんだり味わったりしているというよりは、目覚ましのために飲んでいるといった感じがして、どうにも事務的な印象が強い。 ……まともに話をするタイミングを今の今まで逃していたが、今なら何とか話せそうな気がする。 そもそも、顔を突き合わせて朝食の席につくのが久しぶりだ。気恥かしさもあるにはあったが、何よりも嬉しいというのが本音だった。普段は仕事一辺倒な兄が、こうしてわざわざ好物を作ってくれたりと、少しでも自分を優先させてくれている。昨夜の啓介の行為について何も言及しないあたり、とりあえずほとぼりは冷めていると見て良いだろう──なぜかは置いておいて。せっかくの和やかな雰囲気に自ら水を差したくなかったし、昨夜のことを蒸し返して兄の地雷を踏まないとも限らない。できるだけ兄の神経を逆撫でしないようにしたかったが、 「あの、さ。兄貴」 「何だ」 「やっぱ、怒ってる?」 早い話が、無理だった。外堀を埋めながら徐々に核心に近づいていく、といった高度な会話技術を持ち合わせない啓介は、どうしても質問が直球になってしまう。正直なのは美徳であるが、啓介の場合は正直の前に「馬鹿」が付くからお世辞にも美徳とは言い難い。 あえて何をとは明言しなかったが、かえってその一言で、啓介が何について話しているか兄は察したようだった。恭介自身、朝食を運んだ時に妙にしょんぼりした弟を目にしていたから、どうせ昨夜のことを気に病んでいるのだろうと踏んでいたが、まさかここまでとは予想外だった。いつもなら、こちらが普段通りに接すれば弟もほっと胸を撫で下ろして懲りずにまたちょっかいを出してきたものだが。今回は反省の度合いが大きいのか、怒られるのが嫌なわりに、怒られた方がすっきりするとでも考えているらしい。だが、怯えるくらいならいっそ開き直りでもしてくれた方が、恭介としては助かった。怒る側だってエネルギーを消費するし疲れる。それに、啓介が「らしくない」と恭介も調子が狂うのだ。 要約すると、面倒くさい。この一言に尽きる。 「別に」 「は?」 だってお前、相当酔っ払っていただろう、ことも無げにそんなことを言って水に流そうとする兄の神経を、啓介もこの時ばかりは疑った。常日頃、馬鹿だ阿呆だと盛大に貶されている上に、今この瞬間もそうとう間抜けな面を晒しているのだろうが、それでも啓介は兄の優秀な頭脳が正常に機能しているか心配になった。 「あー。いやさ、兄貴?」 「何だ。まだ何かあるのか」 「………………………………イエ、ナンデモアリマセン」 実に鬱陶しそうに相手をする恭介の威圧に負けて、結局啓介は目を逸らしつつ、片言で歯切れの悪い受け答えをするしかなかった。 (俺、あの時『酔ってねえよ』ってちゃんと言ったんだがな……) 昨夜の愚行を酔っ払った末のもので許そうとする兄は、弟が上戸だと知ったらどんな顔をするのだろう。実は、正体を失くすほど酔ったことなどただの一度もないということを。信用されていなかったようだが、あの時、啓介が「酔ってない」と言ったことはまるっきり事実なのである。待ちくたびれて眠ってしまっていたのも、もしかしたら酔いが回ったためだと解釈されているのだろうか。 まあ、いちいち真実を告げて兄の混乱を招くよりは、酔っ払いの言動で済まされた方が、後腐れがなくていいのかもしれない。 「ああ、そういえば、お前の持ち帰ってきたワインは美味かったぞ」 そういえば今日はいい天気だな、と何の気なしに呟くような口調でいきなりそんなことを言われ、呆気にとられた啓介はしばし反応が遅れた。 「え、ちょ、は?」 「日本語を話せ。テーブルにコップを二つ用意していただろう。お前のと、俺のと。夜遅くに酒を飲むのは別に構わんが、既に酔っているなら世話がないだろうが。すっかり出来上がっているというのに、さらに酒を煽るのは感心しない。あと自分の部屋で飲め。迷惑だ」 「……あー、ごめん。つか、その、飲んでくれたんだな」 兄の説教に耳を痛めながらも、啓介はそう確認せずにはいられなかった。何度も言わせるなと返された。 「飲んだんだな」ではなく「飲んでくれたんだな」という言い方を選んだのは、ひとえにあのワインを恭介のために持ち帰ったからに他ならないからだ。友人とその懐状況には悪いが、普段生活のために身を粉にして働いている兄のために、何かお礼がしたかったのである。本来ならこうした資金は啓介のバイト代から利用するべきなのだが、諸事情のため今回はどうしても無理だったのだ。 勿論、照れくさいからこの理由を告げるつもりなど毛頭ない。 素直でないのはお互い様である。 「これに懲りたらあまり大酒を飲むのも大概にしろ」 「善処する」 「酔っ払う度に何度もあんなことをされてはかなわん」 ──それは確約できません、お兄サマ。 冷や汗が伝う心中でこっそりそう呟き、表面上は苦笑いでごまかした。 「まだ少し残っているから、今夜もう一度飲むつもりだ。せっかくだからお前も付き合え、啓介。その代わり、日中はお前に付き合ってやる」 「……うん」 飲み過ぎるなと戒めるくせに、今夜は付き合えと言う。とことん我が道を突き進む兄ではあるが、その道幅は隣に啓介が並べる程度には広いのだ。 小さく、でもしっかりと頷いて、啓介は兄が淹れてくれたカフェオレに口をつける。甘くて、ほんのちょっぴり苦い、そこはかとなく癖になりそうな味。「恋の味」みたいだなんて、初恋の乙女じみた思考も甚だしいが、頭の中くらいお花畑でも文句は言われまい。酔っ払った振りをしてまたキスしてやろうかとよこしまな考えがよぎったが、すんでのところで思いとどまる。甘やかしてやると約束してくれたのだ、今日はしっかり甘えておくに限る。 次に共に過ごせる日が、いつになるのかわからないのだから。 だが、 (……抱きつくくらいなら許されるよな?) この弟、懲りない。 「そうだ兄貴、言い忘れてはないんだけどさ──」 一口に「恋」といっても、恭介に──実兄に向ける感情として鑑みればそれはあまりにもまずいものだということくらい、啓介も理解している。家族に対して抱く感情の延長線というわけではなく、もう完全に逸脱を果たしているからだ。これが男女間で発生するものであれば、最終目標は性行為に及ぶのであろうが、啓介の場合はそうはいかない。キスをしてしまった時点でもういろいろとアウトな気がしないでもないが、それでも守るべき一線は弁えているつもりだ。男とセックスする方法を知らないわけではない(試したことはないが)。かと言ってそれを、プライドが高く潔癖な兄に強要するのは気が引けた。自分が相手を愛しているから相手も自分を愛さなければならないなんて思い込みは、ただのエゴでしかない。 だから、この思いは自分の胸にしまって鍵を掛けて、墓場まで持っていく。 それがどんなに辛いことでも、兄が傷つくのに比べたらどうってことない。 願わくば、この視界が失われる瞬間まで、両目に兄の姿を焼きつけていたいものだが。 ……今はまだ、このままで。 「おかえり、なさい」 「……ああ、ただいま」 Welcome back , My brother! (本当は、その一言が欲しかっただけ) ← back |