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ふわりと水面に浮き上がるような感覚を伴って、啓介は目を覚ました。睡魔を引きずって重たい目蓋を懸命に持ち上げ、霞む視界の中、手探りで兄を探し求める。望んだ感触はなく、けれどもむなしく空を掻くばかりの手でしつこくソファを撫でる。徐々にその手が未練たらしく思えて、そっと指を握りこんで動きを止めた。
目の前に兄がいないことに小さな落胆を感じたが、気づかない振りをする。大きく息を吐いて視界を閉ざし、おぼろげな頭で思考の断片を寄せ集めた。
兄はどこにいるのだろう。自室でもう一度寝直しているのだろうか。それとも外出しているのだろうか。本音を言えば、別に何をしていようが一向に構わなかったが、とにかく兄と顔を合わせるのだけは気が引けた。

(昨日の今日……いや、昨夜の今朝だしな)

普段は冷静なくせに、一度頂点に達すると烈火のごとく怒り狂う兄のことだ、すぐに怒りのボルテージが下がるとも思えない。
謝りたい気持ちはある。あるにはあるが、兄を前にして素直に謝れるかというと、そんな自信もない。まず謝らせる隙を与えずに徹底的に避けられそうで、それも怖い。避けられたら避けられたで、自分の性格を踏まえると接触を図るために挑発をしてしまいそうだ。すると兄が怒る。
堂々巡りである。
火を見るよりも明らかな未来を想像して、啓介は一人悶々と環状に閉ざされた思考の中をぐるぐると回り続ける。次第に考えるのにも飽き、情けないことに空っぽの胃が音を立てた。腹が減っては何とやら、とにかく空腹を満たしてから作戦を練るべきであろう。
よし、と伏せていた頭を勢いよく上げた瞬間、もぐら叩きのごとき絶妙なタイミングでバシッと後頭部を叩かれた。あえなく啓介は朝からソファの座面と熱烈なキスを交わす。

「やっと起きたか。まったく、いつまでソファに抱きついているつもりだ」
「あ?」

理不尽な仕打ちに涙目になりながら振り返ると、そこには綺麗に仁王立ちした恭介が新聞を片手に佇んでいた。やけに小気味よい音がしたと思ったら、新聞で叩いたらしい。

「……兄貴?」
「何だ」

相変わらず不機嫌な表情のまま、威嚇でもするように低い声で応じるのは、間違いなく恭介だ。啓介が目を白黒させながら兄を見上げ固まっていると、恭介はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「遅いが朝食を用意してやる。俺はもう食べたからお前の分だけだが。腑抜けていないで顔でも洗ってこい」
「遅いって……今何時だよ」
「もう十時半だ。いいからさっさとその阿呆面をどうにかしてこい。また叩かれたいのか」

それは勘弁とばかりに啓介が立ち上がると、肩に掛かっていた何かが床にずれ落ちる感覚がした。つられるように見下ろすと、足元に薄手のブランケットが皺になって広がっている。

「ぼさっとするな愚図が。早く行け」

兄の厳しい叱責と背中に受けた新聞の一撃に急き立てられ、慌てて洗面所に向かう。結局殴るのかよ、と出そうになる小言を飲み込んだ。
逆流した小言が溶けた胸の内が、それをきっかけにしだいに熱を上げていく。心臓がどくどくと脈打って、手足が甘ったるい歓喜で痺れるようだ。炉心と化した胸の中で、恋情という名の核燃料が溶け落ちる。重大事故の発生はもう止められない。
思い出す。
あのブランケットは、恭介の部屋にあったものだ。
啓介が兄の手を握りしめて眠ったときには、当然ながら何も被っていなかった。ということは、恭介がわざわざそれを二階から持ってきて、啓介の肩に掛けてくれたということだ。
単に散らかった啓介の部屋に入りたくなかっただけかもしれないが、それでも啓介は嬉しかった。気を緩めれば涙が出てしまいそうなほどには。普段から叱責や罵倒をいただいているぶん、彼の優しさは貴重なのだ。

「……自惚れちまいそうだ」

あまり過度に期待をすると痛い目を見るのは自分なのだが、それでも啓介は緩む口元を隠せそうになかった。鏡に映った自分の頬が、目尻が赤い。我ながら単純である。
わかりにくい兄の優しさに胸を高鳴らせつつ、いつもより早く顔を洗って歯磨きを終えた。二日酔い特有の頭痛や胃のむかつきもない。至極快調な目覚めである。深酒が過ぎたとの懸念は、やはり一時の弱気から生じたもののようだ。
青いメッシュの入った黒髪を手櫛で適当に直して再びリビングに戻ると、ちょうど恭介がキッチンから出てくるところだった。その両手はお揃いのマグカップで塞がっている。啓介はそれを見てふたたびにへらと締まりのない笑みを浮かべると、子犬のように兄に駆け寄った。

「おい、その気色悪い顔をどうにかしろ」
「こんなイケメンに気色悪いっつーの、兄貴くらいだぜ?」

勢い余ってまた「オニーチャン」と呼んでしまいそうになったが、すんでのところで舌を縺れさせずに済んだ。が、意識する間もなく予定調和のようにふざけたことをぬかしてしまったことに気づき、啓介は内心しまったと肩をこわばらせる。
チン、とオーブントースターの音が鳴った。
恭介はテーブルにマグカップを置くと、くるりと踵を返し、何事もなかったかのように啓介の横を通り抜けた。その際に啓介を一瞥すると、彼は存外穏やかな声で「座っていろ」と命じる。