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全身に広がる鈍い痛みで恭介は目を覚ました。ソファの上でわずかに身じろぐと、首から肩にかけて凝り固まった筋肉が、妙な感じに引き伸ばされてまた痛む。やはりこんな場所で眠るべきではないなと思いつつ、身を起こして固まった筋肉をほぐそうとすると、
ぐっ、
と、左手を何かに引かれる感覚がした。

「……何をしている」

渋い声で、二度目になるその質問を繰り返す。床に座り込んで、自分の手を握りしめたまま眠りこけている、弟に。

「本当に、何がしたいんだ、お前は」

呆れ果ててそう言うと、恭介は弟の手のひらの中から自分の手を引っこ抜く。そのまま腕を頭上に掲げて伸びをすると、骨だか関節だかがあちこちでバキバキと不穏な音を立てた。多少すっきりした気分でソファから立ち上がる。履き替えるのを忘れていたズボンが少々皺になってしまっているが、致し方あるまい。
ちら、と目覚める気配のない弟に目をやる。
今夜はどうにも不可解というか、様子のおかしい行動が目立っていた、と思う。何故か恭介の部屋で酒を飲んでいたし、普段よりまとわりついてきたし、キスまでされた。そしておまけに手を握りしめて寝ているときた。外的な要因で振り回されることなどほとんどない恭介だが、こと啓介にだけはいいように振り回されている気がしてならない。
大きく溜息をつくと、恭介はとりあえず自分の部屋の惨事を何とかすることに意識を向けた。目的は何であれ、ここに弟がいるということは、十中八九恭介の部屋が片付いていない証拠だ。視界を確保したかったのか、廊下の電灯がつけっぱなしになっている。その明かりを頼りにリビングの壁に掛けてある時計を確認すると、朝方の五時を少し過ぎたところだった。意外と長く眠っていたらしい。
すう、と啓介の穏やかな寝息が聞こえる。宝物のように握りしめていた恭介の手を失った啓介の手が、どことなく寂しそうだ。恭介は急に、この弟と数時間前に理解不能な攻防戦を繰り広げていたのが、たちの悪い嘘か冗談のように思えてきた。言いようのない複雑な気持ちを振り払うように二、三度頭を振る。弟をそのまま放置してキッチンの方へ向かい、流し台の下にしまってあるゴミ袋を一枚取って二階へと向かった。
恭介の部屋のドアは大きく開いており、電灯もつけっぱなしだった。

「電気代……」

そういえば階下の廊下も同じ状態だったのを思い出し、ほとんど無意識のうちに恭介はそう呟いていた。そして、自分の一人言がいかに現実的で、数時間前のショッキングな出来事とかけ離れているかを認識して馬鹿らしくなった。
未だに抜けきっていないアルコールの匂いを追い出すために窓を開け、ローテーブルの上に転がる酒の空き缶を適当にゴミ袋の中に放り込んでいく。
あらかた片付け終えたところで、恭介はテーブルの上にコップが二つ並んでいることに気づいた。一つは明らかに使った形跡があるが、もう一つは綺麗なままである。
恭介は呆然と、しばしその二つのコップを見つめていた。
締まりのない顔で笑いながら、一緒に飲もうと誘ってきた弟が脳裏によぎる。
何がどうしてああなったのかは定かではないが、少なくとも啓介は本当に自分を気遣おうとしていたらしい。
……本当に、理不尽極まりない。精神的に受けたダメージはこちらが大きいというのに、この上なぜ罪悪感に駆られなければならないのだ。
目を覚ましたら腹いせにもう一発殴ってやる、そんな物騒なことを考えながら、まだ中身がそれなりに残っているワインボトルを手に取る。啓介が「兄貴もきっと気に入るよ」と言っていたことを思い出し、ふむ、と興味が湧いた恭介は、未使用のコップに微量のワインを注いで口に含んだ。

「ん。……美味いな」

高いと豪語していただけあって、確かに味は申し分ない。赤ではなく白を購入するあたり(実際啓介が購入したわけではないが)、恭介の好みを熟知しているといえる。久しぶりの美酒に舌鼓を打ち、恭介は、世界で一番鬱陶しく、それでも心底からは憎めない弟に対して、ほんの少しだけ優しくしてやることを決めた。