恭介は立ち上がりズボンを叩いて埃を払うと、ネクタイに手をかけてそれを解き始めた。弟の存在は徹底的に無視することに決めたらしい。啓介がふと顔を上げると、兄は既に白いシャツを脱ぎ捨ててしなやかな筋肉に包まれた背中を晒していた。弟に比べれば体格差や筋肉量で劣るため、いささか迫力には欠けるものの脆弱そうには見えず、芸術家が丹精込めて彫り上げた一体の像のように魅力的である。うなじにかかる後れ毛を払う仕草にすら洗練されたものがある。 セクシーだ。 啓介は兄の肉体に見蕩れながら、口中に溜まった唾液を飲み干す。 「お前はもうそこで寝ていろ。今夜限りもう文句は言わん」 「あ? じゃああんたどこで寝るんだよ、俺の部屋か? 別にいいけど。オニーチャンなら大歓迎」 「誰があんな汚い部屋で寝るか、リビングのソファに決まっている。もういい、もう黙っていろ」 視線だけをこちらに向けた兄の声には、本当に疲労が滲んでいた。キスのことを咎め立てする節がないのはありがたかったが、こんなふうに突き放されるのは初めてで啓介は戸惑う。これならば先刻のように怒鳴られたり詰られたりしているほうがよほどマシだ。 「ンなこと言ってると、俺があんたのベッドで寝ちまうかもよ。いいのか?」 言ってから、火に油を注いだかと身を固めたが、 「好きにしろ。……疲れた」 恭介はクローゼットから適当に取り出した服をさっさと身に着けると、覇気のない声で呟いてふらふらと部屋を出て行った。パタン、と静かにドアが閉まる。 解かれたネクタイと脱ぎ捨てたシャツは、ハンガーに掛けられることなくベッドの上に放置されていた。 約五分間ほどだろうか、啓介はそのまま呆けて動けずにいた。それからはっと我に返ると、啓介は慌てて兄の部屋を出て階下に向かう。足元が暗くてよく見えないせいで、最後の数段を踏み外して啓介は転がり落ちた。 「痛ってえー……」 幸い足を捻りはしなかったものの、床に腰を思い切り打ち付けた。ジンジンと痛む腰をさすりながら立ち上がり、廊下の電気をつける。 足音に気をつけながら──階段から落ちてしまった音を考えれば無意味かもしれないが、それでも──薄暗いリビングにそうっと入る。ソファで寝ると言っていた兄の言葉を思い出したが、生憎とここからでは背もたれしか見えない。 啓介は細心の注意を払ってソファに近寄ると、背もたれの方からそこを覗き込んでみた。二人がけではあるが、お世辞にも広いとは言えないそこに、体を折り曲げて横たわっている影があった。いくら啓介より体格が小さいと言っても、恭介とて成人男性である。こんな窮屈な場所が快適であるはずがない。 「……兄貴?」 返事はない。 前方に回り込んで膝をつく。力の抜けた腕がだらりと下がっていた。兄の顔には髪がかかっており、その表情は窺えないが、泥のように眠っていることだけはわかった。一瞬の躊躇の後、啓介は手を伸ばして、兄の顔にかかる髪を払い除けてみる。廊下に点した電灯を頼りに目を凝らして恭介の顔色を確かめると、赤みを帯びていた頬は、今やほとんど血の気を失い、紙のように白かった。下がった腕の先にある手を掬ってきゅうと握りしめてみても、あまり温度は高くない。 死んでいるみたいだ。 両手で握りしめた兄の手を、自分の額に押しつける。 呼吸に合わせて浅く上下する肩だけが、兄が生きている証のようで。 「……兄貴」 無性に罪悪感に苛まれ、啓介は口の中でごめん、と謝った。 いつになっても、こうして兄を怒らせることしかできない自分がひどく情けない。 両親が国内外の単身赴任であまり帰ってこないため、昔から家の中ではほとんど恭介と二人きりで過ごしていた。しかし恭介が一足先に社会人になった今、そうして二人で過ごせる時間などほとんどなくなってしまった。啓介が朝目覚める頃にはもう兄は出勤してしまっているし、夜は遅くまで残業してくることが多いため、啓介の眠りが深まる頃に帰ってくる。顔を合わせる機会など滅多にない。 「……いまさら、」 あんたが帰ってくるのを待ってたんだよ、なんて、言えるわけがなかった。 仕事人間で放任主義な両親に代わって、恭介はしっかりと弟の面倒を見ていた。責任感が強く要領の良い性格──典型的な「兄」気質の真価がおおいに発揮されていたと言っても過言ではない。啓介は兄からの叱咤と躾(という名の軽度の暴力)で育っていたが、虐待まがいの暴力を振るわれたことはないし、食事を抜かれたこともない。いい子にしていればそれなりに甘やかしてももらえた。恭介は、母と父、そして兄という三つの役目を使い分けながら、啓介を育ててきたのだ。 あの頃の啓介にとって、兄は世界の中心だった。 そしてそれは、今でもまったく変わらない。 もう散々怒らせた自覚はある。仕事帰りで疲れているだろうに、さらに疲れさせるような真似をしたのだから。きっと兄は自分のことが嫌いなんだろうなとは、薄々どころか実感を伴って感じていたことだ。だからと言って兄が望むような優秀な弟になど努力したってなれるはずもなく、結局は稚拙な言動で兄を怒らせて気を引くくらいしかできない。悪循環であることくらいは理解しているが、それ以外に方法など知らない。どうしたらいいのかなんてわからない。さっきだってそうだ。どうしたってあそこは兄の部屋で、自分が兄を追い出す権利があるはずない。ちゃんと休ませてやりたいのは山々だったが、構ってほしいという切実な思いもあったのだ。 ……無論、そんなことを言ったところで、兄が簡単に許してくれるほど優しい性格でないのは重々承知しているのだが。 理性が飛んだのは、後にも先にも兄にキスをした時だけだ。それだって相手がわからないわけではない。 他でもない兄だから、恭介だから、キスをしたのだ。 だが、啓介がそうだからと言って、兄が同じ気持ちでいるわけがない。当たり前だ、本来ならば家族間で、しかも血の繋がった実兄に対して抱く感情にしては度が過ぎているのだから。そんなこともわからなかったあたり、やはり今夜は少々深酒が過ぎたのかもしれない。 嫌われたくは、ない。だが、嫌われるのも、仕方ないと、思う。 でも、 「兄貴。……だいすき」 それでも、好きでいるくらいは、許してほしい。 冷たい兄の手に自分の体温を分け与えるように握りしめ、啓介はそのまま目を閉じる。 意識が落ちる瞬間、そういえばまだ彼の口から出るぶっきらぼうな「ただいま」も聞いていない、と気づいた。 ←→ |