「ンだよ、仕事疲れのオニーチャンをちょっと癒してやろうっていう弟の健気な気遣いだろうが。もっと喜べよ」
「何が『気遣い』だ、辞書を引いて意味を調べ直して来い。お前がいては余計に疲れる。そんなこともわからんのか」
「そう邪険にすんなよ、俺泣いちゃう」
「っやめろ離れろ! 気色悪い!」

とにかく着替えだけでもとクローゼットに近づいた瞬間に、弟が脚にまとわりついてきた。思わず声を荒げた恭介などどこ吹く風で、啓介は兄の腿に頬を擦りつける。自分よりも体格のいい男が甘えるその様は、大型犬が飼い主にじゃれつくのとよく似ていたが、生憎と恭介は犬嫌いだった。ついでに言うと、こんなふうにふざけかかってくる弟はもっと嫌いだ。
逆の脚で蹴り飛ばそうとしたら、本当に酔っ払っているのかと疑いたくなるほど機敏な動きで避けられる。ますます腹が立った。

「カッカすんなよオニーチャン。美人が台無しだぜ」

身を退いた啓介がにんまりと笑う。至極楽しそうな、けれども何かを企んでいるような笑み。

「怒ってるあんたも嫌いじゃないけど」

何を世迷言を、と恭介が思った瞬間。
その一瞬の隙を突いて、啓介は恭介の腰にタックルをかましてきた。
あっという間もなく恭介は弟に押し倒されていた。倒れる直前に、啓介が兄の背中に腕を回してクッション代わりにしたおかげで、恭介の体にほとんど衝撃は伝わらなかったが、そうして変に気遣われたことがまた癪に障った。体格差で劣るごときで一瞬でも不覚をとったことが、恭介の矜持をいたく傷つけていた。

「オニーチャン意外と腰細いのな」
「……っ、や、めろ! どこを触っている!」

シャツ越しに体をまさぐられ、明らかな嫌悪に肌が粟立つ。取っ組み合いの喧嘩ならば恭介が負けることはないのだが、単純な力比べならば啓介が勝るため、弟の下でじたばたともがいてみても簡単に押さえ込まれてしまう。おまけに今日は疲労というハンデも重なり、常よりも非常に動きが鈍っていた。
啓介は兄の細腰に感嘆して、そこを集中的に撫で回す。ついで無駄なく鍛えられた硬い腹筋がそこを覆っているのに禁欲的なものを覚え、胸の奥を欲求の炎でじりじりと焦がされる感覚に襲われた。

「どけ! 酒臭い!」
「やだね」

羞恥よりも怒りで赤く染まった恭介の頬は、見下ろす啓介からしてみればこの上なくエロティックでしかない。たまらず喉が鳴る。押し倒す側であるという胸が熱くなるシチュエーションも、くすぶる情欲を煽り興奮に拍車をかけていた。
罵倒を吐こうと恭介の唇が薄く開く。その奥に覗く赤い舌を目にした途端、啓介の理性は音を立てて切れた。
噛みつくようにキスをする。
あまりにも唐突に唇と唇が重なったせいか、兄は何をされているのか完全に理解が追いついていないようだった。いきなり視界が弟の顔で埋め尽くされた驚きのあまり、先ほどまでの怒りが吹っ飛んでしまい、ほとんど無抵抗といってもいい状態のままやわやわと唇を食まれる。
兄の唇は啓介のそれに比べるとやや薄かったが、ひどく柔らかくみずみずしかった。啓介は自分の唇で、摘みたてのさくらんぼのような兄の柔らかさを堪能しながら、頭の中では「こりゃ後で鉄拳制裁だな」と冷静に考えていた。冷えているのは頭だけで、裏腹に体は酒の力も借りてますます熱が籠もってゆく。女と同じことをした経験があるはずなのに、相手が兄だというだけでより強い酩酊感が襲ってくる。たまらない。気持ちいい。もっと、ほしい。
腕の中で大人しくしているのをいいことに、啓介が舌を伸ばして兄の唇をぺろりと舐めた瞬間、こめかみのあたりに強烈な衝撃を受けた。「後で」は予想以上に早く訪れたらしい。ピンク色の夢が一気に遠ざかり、無理矢理現実に引き戻される。ぶっ飛ばされた啓介は、しばらくぐわんぐわんと揺れる視界に悩まされ、兄の足元に蹲った。
啓介を殴り飛ばして上半身を跳ね上げた恭介は、目尻まで真っ赤になった顔でわなわなと震えながら、近所迷惑も甚だしい声量で不埒な弟を怒鳴りつけた。

「いきなり何をする!」
「近所迷惑だぜオニーチャン。いいだろ、別に減るもんでもねえし」

さらにもう一発殴られた。

「ふざけるな、俺を辱めてどうしたいんだお前は!」

近所迷惑という言葉は右から左に抜けていたようだ。プライドの高い兄が外聞を気にかける余裕もないほど怒り心頭に発している。自分が兄の心を揺さぶっている、その事実に啓介の胸の内にぞくぞくと優越感がこみ上げてきた。

「どうしたいも何も、キスしたかったからしたに決まってんだろ。ぎゃんぎゃん騒ぐなよ、耳が痛ぇ」
「……誰が騒がせていると思っている……!」

二度も本気で叫んだおかげで少しばかり放り出していた冷静さを取り戻したか、今度ばかりは恭介も叫ぶことはせず、しかし棘のある声で唸った。
手痛い反撃は食らったが、一瞬でも兄の鉄面皮を剥がせたことに啓介は満足しながら、悟られぬように笑みを浮かべる。

「性欲が溜まっているなら適当に女を引っ掛けてホテルなりどこなりと連れ込めばいいだろう。お前なら選り取りみどりだ。くそっ、どうして俺がこんな目に……」

恭介は腹立たしげに眉間に皺を刻み、シャツの袖でごしごしと自分の唇を拭う。あまりの理不尽さに泣きたくなってきた。啓介はそんな恭介に対して何か言おうと口を開きかけたが、結局肩を竦めるだけで終わる。