長引いた残業のせいで終電を逃した。ホテルで宿泊することも考えたが、明日は貴重な休日である。たまの休みをホテルで過ごすよりは、自宅でゆっくりとくつろぎたい思いが勝り、恭介は適当にタクシーを拾って近所まで帰ってきた。
ほとんどの住宅の窓に光はなく、ところどころに立っている街灯の頼りなく明滅する白い光だけが、コンクリートの道路を円く照らしている。
革靴の音を鳴らして戻ってきた恭介が平凡な一戸建てである我が家を見上げると、何故か二階の、しかも自分の部屋に明かりが点いていた。訝しく思って恭介は眉を寄せたが、すぐにある一つの可能性に突き当たり、思わず大きく舌打ちする。可能性、と言いつつも、恭介の中ではほぼ回避不可能の確定事項に等しい。これから起こるであろう面倒事を想像するだけでげんなりしてきた。願わくば現実にならないことを祈るばかりだが、その必然性を意識すると同時に何よりも先に諦めの境地が見え始めていたため、その祈りが届くことはないだろう。神は平等に不公平だ。

「……あの、馬鹿が」

きっと、否。確実に原因は弟だ。認めたくないことに同じ母の腹から生まれてきた、三歳下の、手のかかりすぎる弟。
腹を括って自宅の扉に鍵を差し込み、一回転させる。今更ながらに、やはりホテルに泊まっておくべきだったかと後悔の念が押し寄せてきていた。
内側から鍵を掛け直す。靴を脱ぎ捨てて暗い玄関をすり抜け、重い体を引きずるようにして二階へ向かう。これほどまでに自室に近づきたくないと思ったのは初めてだ。
案の定、半開きになった自室のドアの隙間から、蛍光灯の筋が伸びていた。
入りたくない。しかし、入らないことには、着替えもできないし、眠ることもできない。
自室が駄目なら弟の部屋という手段もあるにはあるが、整理整頓の行き届いていない汚い部屋で眠るなど、潔癖な一面のある恭介にはとてもではないが耐えられそうになかった。
意を決して扉を押す。室内から強烈なアルコールの匂いが漏れてきて、恭介は思わず顔を顰めた。
これはいったいどういう状況なのか。
まるでこの部屋自体が酒に浸けられていたかのように、きついアルコールの匂いが漂っている。原因は一目見てわかった。恭介の自室のローテーブルに、いくつも転がる酒のボトルや缶。そうしてできた珍妙な林に、毛先に青のメッシュが入った黒髪の頭を突っ込むようにして、ガタイのいい男が腕を枕に伏していた。規則正しく上下する背中。ちらりと覗く耳にはシルバーを基調としたピアスが数個刺さっている。几帳面な恭介とは真逆に派手な外見のせいで、モノクロームに統一された恭介の部屋からは明らかに浮いていた。
溜息をつく。
認めたくないことに、「これ」が実の弟だというのだから、始末に負えない。

「起きろ、邪魔だ」

黒の上着を脱ぎ捨てて、きちんと皺が伸ばされたシーツのベッドに、鞄と一緒に放る。呑気に眠りこけている弟の尻をつま先でしたたかに小突くと、啓介はううんと唸ってのろのろと顔を上げた。

「あ。お帰り、オニーチャン」

啓介はとろんと潤んだ目をこちらに向けて破顔した。一応は成人男性のはずだが、そんなことを微塵も感じさせないあどけない笑顔である。この顔自体は嫌いではないのだが、茶化すように「お兄ちゃん」などと呼ばれ、恭介は鳥肌が立った。普段は「兄貴」と呼ぶくせに、たまにこの弟はこちらがそう呼ばれるのを嫌がっているのを見越してか、からかい半分でその呼び方を用いるのだ。

「……何をしている?」
「あんたも一緒に飲もうぜ。これウマいからさ、兄貴もきっと気に入るよ」

話のまったく通じない啓介に対し、恭介は頭を抱えざるを得なかった。ただでさえ手のかかる弟であるというのに、この上酔っ払っているなんて相手にしたくもない。
そんな兄の思いなど露知らず、啓介は酒が入っていて気分がいいのかにこにこしながら続ける。

「実はさ、今日サークルの奴らと一緒に飲み会行ってきたんだけどなー。アイツ等酔っ払うとテンション上がりまくって超鬱陶しくて。店じゃ騒げないからとか言って、コンビニで酒買って誰かのウチに上がったんだけど、相手するの面倒になって酒だけ奪って帰ってきたんだよ。酔っ払ってる奴って気前よくなるよな。ちょっとおだててみたらあっさり高い酒買っちゃうんだから笑える。缶はそんな高くないけど、ボトルのは結構いいお値段だったぜ? あれこれ飲んで酔っ払ってるからきっと味もわかんないだろうなと思って、高いの全部かっ攫ってきた。酔いが覚めたら多分アイツ泣くな、財布がやけに軽いとか何とか言ってさ」
「……酔っ払って鬱陶しいのはお前も変わらん」
「酔ってねえよ」
「酔っ払いは皆そう言う」

べらべらとよく回る弟の舌を引っこ抜いてやりたい衝動を理性でぐっと押さえつけると、恭介は努めて冷静に頭の中で話をまとめた。
つまり、サークルの仲間と飲み会を過ごし、二次会と称して友人の家に上がり込んだはいいものの、疲れてさっさと帰ってきたということか。しかもちゃっかり、酒(しかも高価なものすべて)を回収して。
だが、重要なのはそんなことではない。

「疲れたのならば自分の部屋で寝ていればいいだろう。何故、俺の部屋で、また酒を飲んでいる?」

恭介は後半部分を強調して、ことさらにゆっくりと、幼児に噛んで含めるように言い聞かせる。二次会の続きならば自分の部屋でやれと言わんばかりだ。実際そう言いたいのだが。
酒で濁った頭でも恭介の言いたいことはわかったのか、啓介は朱に染まった頬を膨らませてぶすくれて見せた。可愛くない。