空になったフライパンの油をキッチンペーパーで拭き取っている恭介に、スープができたことを報告し、小鍋をリビングに運ぶ。埃を被らないように蓋をしてキッチンに戻ると、先ほどまで啓介が立っていた場所に恭介が立っていた。綺麗にしたフライパンに新しい油を垂らしている。反対の手には皿が持たれ、その上には中央部を凹ませたハンバーグが三つ。二つは普通の大きさだが、一つはハンバーグにしてはかなり小さめである。
 ……三つ?

「兄貴、何で三つも作ってんの? やけに小さいけど」

 啓介が首を傾げて問うと、恭介は啓介をちらっと見て、

「お前は肉が好きだろう」

と言った。まるで理由になっていない。

「…………いや、まあ、そうだけど」

 肉が嫌いな成人男性ってあんまりいないと思うぞ、とは続けられず、啓介は微妙な表情になった。そこで自分の言ったことが理由になっていないことに恭介自身も気がついたらしく、ばつが悪そうに顔をそむけ、

「明日の弁当に入れてやる」

 注意して聞かなければ耳に届かないような小声で答えた。なぜかちょっと耳が赤いような。
 …………。

「えー、そんな恥ずかしがるコトなの」
「やかましい!」

 思わずといった感じで啓介が突っ込むと、大変不本意な叱責を頂戴することとなった。三十六計逃げるに如かず、素早く退散を決め込んだ啓介はレタスとブロッコリーの乗った器を携え、リビングで先にサラダを盛り付けてしまうことにした。

(夕食のおかずを弁当に詰めるなんて、いつもしてることだろーに)

 キッチンからじゅうじゅうと肉の焼ける音が聞こえてきた。同時に食欲をそそる匂いが漂ってきて、空きっ腹に大ダメージを与えていく。腹が減って死にそうだ。頭の中で兄を急かしつつ、サラダを用意した食卓についた。

「できたぞ」

 しばらくしてキッチンから出てきた兄の両手は皿で塞がっていた。ほかほかと湯気を立てるハンバーグにはソース――余った肉汁を使って即席で作ったのだろう――がたっぷりと掛けられており、皿の端にグラッセが小さい山を成している。

「お、おおお……」

 久しぶりの兄の手料理に啓介は感動を覚えていた。手際も要領も良い兄が食卓を彩ってくれるのを、幼い頃は本当に魔法みたいに思っていたものだ。今となってはその魔法を啓介もそれなりに扱えるが、やはり兄にはまだ遠く及ばない(と思っているのは啓介だけで、恭介は自分の料理と弟の料理に大差はないと信じている)。口中に生唾が湧き上がる。

「食器と、米」
「ラジャー」

 敬礼の真似事をして啓介は機敏に動いた。ナイフとフォーク、スプーンに箸とそれぞれ二組をテーブルに配置し、二つの茶碗に炊きたてのご飯を盛る。自分の分はやや多めに。恭介はオニオンスープをよそって、冷蔵庫からドレッシングを持ってきた。
席につく。声を揃え、手を合わせて。

「「いただきます」」



 ハンバーグをもぐもぐと咀嚼しながら啓介は二重の意味で至福の一時を味わっていた。噛む度に肉汁がじゅわりと溢れ、濃厚なソースが絡みつく。

「うめえ。超うめえ」

 何度繰り返したかもわからぬ賛辞を飽きずにまた言うと、恭介は「そんなに変わりはないだろうに」と呆れたように返す。啓介は箸をテーブルに叩きつけて真正面から抗議したい衝動に駆られたが、行儀が悪いと一喝されて戦う前から敗北する未来が瞬時に見えたため、眉を上げるだけにとどめた。だが抗議をせずにはいられなかったのか、

「言っとくけど兄貴。全っっっ然違うからな! 何でこの違いがわかんねーのか、そっちが疑問なくらい、違うからな! 俺ここまでうまく作れねーし! 無理だし!」
「待て、なぜちょっと自慢気なんだ」
「兄貴の方が料理うまいんだよ!」
「年数の関係上それは当然だろう」

 馬鹿な弟と応酬を重ねていては馬鹿が感染するとでも思ったのか、恭介は手に負えないとばかりに話を投げ出す。恭介が聞くのを放棄したにも関わらず、啓介は一人で話を盛り上げ、恭介の料理をどこぞの宗教教祖のごとく崇拝し賛美し始めたものだから、恭介はちょっと恐ろしくなって「さっさと食べろ」と厳しい口調で促した。
 妙にすっきりした表情で一息ついてから、落ち着いた啓介は少なくなったサラダに箸を伸ばす。啓介のハンバーグはまだ半分ほど残っている。好物は最後まで取っておく派なのだ。

「……ご満悦だな」

 にこにこしながら実に美味しそうに食事をする啓介を見て、恭介の口からはついその一言が零れた。もしも弟が大型犬なら、その尻尾は千切れんばかりに振られているのだろう。
 啓介は満面の笑みでこくこくと頷いた。嬉しくてたまらないとでも言いたげな。恭介がこの顔に弱い――弱いとしか言いようがない――ということを、啓介は未だに知らない。嫌いではないのだが、どことなく苦手なのだ――仕方のない奴めとついつい甘やかしてしまうから。甘やかした結果として付け上がるのなら、また鞭をくれてやればいいだけなのだが、あの酒乱事件以降、啓介はできるだけ恭介の癪に障らない立ち回りを心がけているらしい。奇行(啓介がこちらの気を引こうとしているのは理解しているが、許容できるかどうかは別問題である)が減ったことにより恭介の心に平穏がもたらされたのは結構なことだが、そのせいで啓介が無意識にストレスやらを溜め込んでいるのではないかと懸念しているのは否めない。幸い弟は友人に恵まれているようだから、彼ら彼女らと過ごすことによって適度な発散にはなるだろうが、やはり機嫌を窺うことなく無条件で甘えられる存在は必要だろう。恭介は自分がそれに適しているとは思えないのだが、啓介にとってはそうではないらしい。ゆえに恭介は時折、啓介に対してどのような態度を取ればいいのか、どのように接すればいいのか戸惑ってしまう。
 啓介は、そんな兄の心境など露知らず、わりと現状に満足していたりするのだが、それも恭介のあずかり知らぬことである。