シャワーでざっと汗を流し、水分を含んだ髪を雑にタオルドライすると、恭介はキッチンに戻った。レタスとブロッコリーが指示通りに処理され、炊飯器もセットされている。時間が無駄になっていないことに恭介は満足し、弟に目をやる。啓介は涙目になりながら玉ねぎをザクザクと刻んでおり、その姿が思いのほか愉快で恭介は失笑した。耳ざとくそれを聞きつけた啓介が、ナニ笑ってんだよと涙声で文句を垂れる。

「その調子だ啓介、玉ねぎの上に涙だとか鼻水だとか零すなよ」
「クソ兄貴が……言われなくとも気をつけてるっての。さりげなく一番辛いトコ押し付けやがって」
「気づかなかったお前が悪い。嫌だと言ってもやらせたがな」
「……このクソ兄貴!」
「罵倒のレパートリーがそれしかないのかお前は」

 弟の語彙力の貧相さが微妙に心配になったが、あまりじゃれあっている余裕はない。色違いのエプロンを身につけると、キッチン上部の備え付けの棚からボウルを取り出し、あらかじめ啓介が冷蔵庫から出しておいたらしい合い挽き肉のパックを開けた。気を利かせたのか、タネの材料はほとんど準備されていたが、ナツメグは置いてあるのにパン粉がないとはこれ如何に。
 恭介がボウルにタネの材料を混ぜ合わせて捏ねていると(パン粉もしっかり用意した)、ようやく任務を完遂した啓介が驚くべき速さでキッチンを抜けた。リビングから盛大に鼻をかむ音と力のない悪態が届き、恭介は苦笑する。

「追い討ちをかけて悪いが、炒めておいてくれ」
「わァってるよ。ああ畜生目が痛え」

 帰還した啓介はまだ目尻に透明な雫が滲んでいたが、兄の指示に大人しく従った。フライパンにサラダ油を引いて、手早く玉ねぎに火を通していく。恭介は肉まみれになった手を綺麗に洗うと、空いた手でまな板と包丁を受け取り、それらもサッと濯いだ。
 さて次はグラッセだ。流しで二本のにんじんの皮を包丁でてきぱきと剥く。二人分なら一本でも良いのだが、弟は食べ盛りな上、明日の弁当のおかずにもなるということで、作るときは常に二本分だった。皮剥きしたにんじんを、それなりに大きさが揃うように切り、適当に面取りをする。

「兄貴、できた」
「フライパンをどけろ。適当に冷ましたらボウルに入れておけ。全部入れるなよ」
「スープの分だろ。んじゃ、先にスープ作るわ」
「そうだな、頼めるか」
「任せとけって」
「ついでに別のフライパンを取ってくれ」
「ほらよ」

 手渡されたもう一つのフライパンをコンロに置き、その中ににんじんを重ならないように入れた。リビングのテーブルに置いてある浄水器を弟に持ってこさせ(人使いが荒いと文句を言われた)、にんじんがちょうど浸かる程度まで水を注ぐ。砂糖、塩、バターと必要なものを頭に浮かべているうちに、小鍋を携えた啓介が隣に立った。

「げ、水ないじゃん」

 浄水器が空っぽになってしまったのに気づいた啓介が、面倒そうに水を汲み始める。面倒「そう」ではあるが、面倒くさがっているわけではないらしい。その手間すらも楽しんでいる節があるのを恭介は訝しんだが、まあ自分もこうして二人で料理をするのは嫌いではないから、啓介も同じ気持ちなのだろうと納得した。
 啓介にしてみれば、兄と料理ができるのは久しぶりで願ってもない僥倖だった。恭介と共同で何かをするということがめっきり減ってからというもの、一緒に過ごせる時間はどんなものであっても貴重なのである。そして共にいられるなら、できれば兄のために何かをしたいのだ。苦手な玉ねぎのみじん切りを進んでやろうと思えるのも(不平を鳴らしはしたものの)そのためだ。そしてついでに欲を言えば、兄が自分のために何かをしてくれるのなら、これ以上のことはない。
 ゆえに二人で料理をすることは、啓介の密かな願望が一度に両方叶う、実に「美味しい」時間といえよう。
 食べる前から幸せでお腹いっぱいな啓介は、水が濾過できるのを待ちながらちらりと兄を窺った。水に浸かったにんじんの並ぶフライパンの中に、恭介は手際よく砂糖を計量スプーンで大さじ二杯入れ、さらに塩を適量振る。次第に恭介も面倒になってきたのか、いつもはきっちり量るバターも目分量でごそっと削って放り込んでいた。強火、そして落とし蓋。まだ水は濾過できない。玉ねぎを冷ましている間にスープを作ってしまうつもりだったが、間に合わなかったようだ。
 恭介はコンロから離れ、再びハンバーグに作業を移した。ボウル内のタネに炒めた玉ねぎを、スープに必要な量を残して加えると、大きめの皿を出してからまた肉を捏ね始める。それから手で掬い取り、丁寧にハンバーグの形に整えていく。

「手伝うか?」
「いらん。手が汚れるだろう。さっさとスープを作ってしまえ、コンロを空けないといつまでも焼けない」
「うっす」

 ようやく濾過できた水を小鍋に注いで強火に掛ける。沸騰を待つ際にグラッセの火加減も見つつ、啓介はコンソメを探してあちこち棚を開けた。

「どこやったっけなコンソメ。出てこーい」
「右から二番目の調味料の棚。上の方にあったはずだぞ」
「まじで?……うわ、あった。兄貴、記憶力すげえな」
「なぜ普段家にいない俺が覚えていて、そうじゃないお前は忘れているんだ……」

 心底呆れ果てたと言わんばかりの兄の声に聞こえないふりをし、ふつふつと煮え立ってきた湯にコンソメをぽちょんと落とす。溶けたのを見計らって火を少し弱めると、フライパンに残っていた玉ねぎを全部小鍋に移し、塩胡椒を振って軽く混ぜた。味見をしてみる。悪くないことを確認して火を止めた。