また、冬がきた。 はらはらと、今にも涙に変わってしまいそうな、淡い粉雪と共に。 うすらと積もった雪が、山を穏やかに眠らせていた。裸の木々と、色を失い枯れたような葉をつけた梢と、その奥に潜む闇が、行く手を阻んでいる。さく、さくと真白い雪を踏み、足跡を刻みつけながら、俺は懐かしい山の香を嗅いだ。 不意に、風が鳴った。 骨か腕を連想させる枝に降り積もっていた雪が、煽りを受けて滑り落ちる。思わず俺は足を止めて、辺りを見回した。 一瞬の後に、騒ぎかけた山は、雪に宥められるようにして、もとの静寂を取り戻す。 白い息が、青を覆い隠す鈍色に消えていった。心なし、冷気が鋭さを増したような気がする。 四年ぶりに訪れた山は、あの頃と同じように、俺を招かれざる客と邪険にするかのようだ。 帰れ、此処はお前が足を踏み入れて良い場所ではない、と。 ざわりざわりと風が鳴る。雪を振るい落とさぬ程度のそれは、爪牙を隠して俺を威嚇する獣みたく、今か今かと俺の隙を窺っている。 (いとも簡単にあの日を忘れられたら、またこの山を訪れることも無かったろうに) そっと雪の結晶に触れるように差し出した指の先には、あの時を止めたように変わらぬ、美しい山茶花が咲き誇っていた。 ひたすら真白い世界に、ただ鮮やかに映える優しい紅は、死者にさした頬紅のようで。 容易く俺を捕らえた冬の獣が、あの日の記憶を呼び覚ました。 ───四年前。俺は此処で、ひとりの女を殺した。 今日と同じ、淡い粉雪が舞う日。まるで神域のように気高く静謐を保つこの場所で。 風が五月蝿く喚くなか、やけにはっきりとその声は耳に響いたのを覚えている。 「わたしをころしてくれますか」 雪に溶け込む、肌の白い女だった。烏羽色の艶やかな髪が、否応無しに印象に残っている。わずかに上気した柔らかそうな頬と、凪いだ湖面のように穏やかな黒曜石の瞳。 儚くも凛としたその美しさに、魅せられた。取り憑かれたかのように、虜になった。 ───朽ちる瞬間が見たい。 髪を切りたい衝動によく似た、純たる欲望に、抗える筈も無く。 手に馴染んだ刃の感触を覚える一秒の間に、二つの影の距離は零になった。 抱擁するように、接吻するように、 躊躇うことすら殺して、心臓を貫く。 震える女の躰。 冷えた刃に体温が宿る前に、執着してしまう前に、引き抜き、離れる。 受け入れるように、希うように、 広げられた女の腕(かいな)が、宙をさ迷って。 落花するように、ぽとりと倒れる。 瞼が、落ちる。 そうして新たに、紅の徒花が咲いた。 俺は事切れた美しい女の傍に跪いて、刃とは裏腹に未だ冷めやらぬ昂揚に震えながら、そっとその瞼にくちづけ、おやすみと囁いたのだった。 ───それが俺の犯した、最後の罪。 桜の樹の下には死体が埋まっていると言う。 だったら、この雪の下には何が埋まっているのだろう。 俗世間のことにあまり興味を持たない俺は、あの美しい女の死体がどうなったかを知らない。そもそも、名すら知らず、そしてどうしてあのようなことを初対面の俺に言ったのかも、今となっては解らないままだ。 わたしをころしてくれますか。 時折、あの美しい女の声が脳裏をよぎる。切なる響きでも、乞うような音でもない、ただ無表情に淡々と、殺されることを望む声。 わたしをころしてくれますか。 俺はおもむろに、指先の山茶花の花弁をぶちりと一枚千切った。淡い桃色を交えた白い花弁は、やはり死化粧の如き清廉さを孕んでいた。 ……この花も。 やがてはいつか、朽ちるのだろう。 それは何だか、とても、惜しいことのように、思えて。 手に入る筈も無い、永遠と刹那という矛盾した二つに、恋い焦がれた。 冬が。 冬が、すべてを凍らせてくれたら良いのに。 時間さえも。 (無い物ねだり、か) あの女を殺してから、俺は誰一人殺すことなく四年を過ごしてきた。きっともう、誰を殺しても、あの美しい女を殺した冬の日に舞い戻れはしないと、解っていたから。 胸を占める苦しさは、結局、瞼へくちづけた時に感じたものと同じで、その行為が意味するものなのだ。 目を閉じる。 そしてそっと、花弁に接吻した。 指を離せば、逃げてゆくそれが、あの日散らした女の命に重なった。 肩に積もった雪を軽く払うと、俺は消えた足跡をもう一度刻むように、山を下って行った。 粉雪はまだ、舞っている。 雪で葬る花瞼よ、 back |