犬小屋の鍵、貸します。
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その場から立ち退こうとした俺に、わんこから声が掛けられる。

「あ、待って。律先輩、俺の名前はね……」「大地だろ」

そんで、彼女の名前は美空。

それは、口にはしなかった。
ただ、俺のその一言にわんこは目を丸くする。

「なんで知ってるん?」
「さあな」

そう言い捨てて行こうとした俺の腕を再び引いて、

「ちょお待って!…また、ここに来る?」

小首を傾げて今にも泣きそうな顔でそう聞かれて、

「…気が向いたらな」

思わず、そう答えてしまった。

「あ。おまえ、名字は?」
「あ、え。米倉」

ワンコを『大地』と名前で呼ぶのに少しだけ抵抗があったから、名字を聞いてみた。

「じゃあな。米倉」

多分もう、ここには来ないだろうけど。
これからも廊下なんかで擦れ違うかも知れないけど、気配は消してしまうつもりだ。

「…………!」

踊り場でまだわんこが何か叫んでいたような気がするけど、構わず階段を下りる。
降り出した雨の音がここまで聞こえてくるようで、思わず溜め息を一つ。

太陽の光を背中に背負った、そんなビジョンが瞼の裏に浮かんだ。
米倉は俺には眩しすぎて、心が警報を鳴らしている。

『ごめん。俺、好きな子おるから』

それから、小さくて可愛い彼女も。
なんで米倉に名前を聞かれたのか、呼び止められたのかはわからないけど、俺と米倉には、そもそも共通点も何もない。

初めてわんこと向かい合って話をしたけど、話すのはきっと今のが最初で最後。
心の奥でぐじぐじくすぶる気持ちを持て余したまま、米倉と真っ向から向き合う自信はない。

それに、俺が惹かれた米倉はファインダー越しに見た幻想で、目の前のチャラ男の米倉じゃない。
そう心に言い聞かせてみるけど、ぐじぐじはなかなか消えそうになかった。


まだ少し貧血気味でふらつく足取りで階段を下り、教室へ向かう途中で予鈴が鳴る。
さっきもわんこが近くにいた時に感じた甘ったるいにおいはなんだったのか、そんなどうでもいいことを考えながら、俺は教室のドアを開けた。

その音を気にするやつも誰もいなくて、誰もこちらを振り返りもしない。
教室の自分の席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めた。



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