「……おい、ジャン。別に待ってなくていいから、先に帰れ」
車体の下から顔だけ覗かせて、工具箱に座る幼なじみに声を掛ける。
ジャンはこっちを見ることなく携帯をカチカチいじりながら、くしゅんと一回くしゃみをした。
「……ほら。風邪ひくぞ」
車体の下とは違って、あそこはすきま風が吹くだろうし、夜は薄着じゃ寒い季節だ。
ジャンは鼻の頭を人差し指で擦って、それからまた携帯に視線を落とす。
「僕、花粉症だから」
それから近くに落ちていた小さなスパナを拾って、それで手持ち無沙汰に、軽くコンクリートの床をノックする。
「あと、別にアランを待ってるわけじゃなくて、僕は僕の用事があるからここに居るだけ」
「ガソリンの臭い、服につくぞ」
「……わかんないからいい。花粉症だし」
そこまで言って、もう一度くしゃみをして鼻をすする。
一体いつから一緒にいると思ってて、いつからお前は花粉症になったって言うんだ。
下手な嘘をすました顔でつく幼なじみに、呆れてため息が出た。
「……仕方ないな」
狭い車体から背中の台車を転がして這い出て、着ていた作業着のほこりを払う。
肩口の臭いを嗅いだ。
年季の入ったガソリンの臭いは、洗濯した程度じゃなかなか落ちない。
相変わらず猫背で携帯の画面とにらめっこする、綺麗にアイロンがけされた、白いシャツの背中を見下ろす。
その間にジャンは、もう一度くしゃみをした。
「……終わったの?」
作業がとまったのに気付いたのか、振り返ったジャンが携帯を閉じて見上げてくる。
それには答えずに作業着を脱いで、もう一度ぱたぱたと叩いたあと、それをジャンの肩にかけた。
「着てろ」
「……こんな臭いの、よく貸せるね」
「花粉症なんだろ」
そう返したら、ジャンはゆっくりそれに袖を通したあと、膝に頬杖をついて目を伏せた。
ジャンには大きすぎるカーキ色の作業着からは白い指先しか出ない。
細くて長い睫毛が頬まで影を引く。
「……おまけに、ダサいし」
「ここ片付けたら終わりにするから」
「ふぅん」
急かすわけでもなく、ただ油染みのついた作業着の襟を立てて、袖を何回か捲り上げるジャンを見ながら工具を磨く。
その間にジャンがまたくしゃみをするのを聞いて、少し、作業を早くした。
工具は帰ってまたきれいにすればいい。
「ジャン、終わったぞ」
動き回っていた俺は少し暑いくらいだけど、冷え症のジャンには長居は辛い。
何て声をかけるべきだろうか。
待たせたな、と言って素直に頷くやつじゃないのは、何年も繰り返してよく知っている。
それから声を掛けあぐねていると、ジャンが立ち上がって、携帯の光る液晶を差し出した。
「アラン」
「何だ?」
「鴨を焼いたから食べにおいでって、君のママから」
相変わらずすました顔で言うジャンに、少し笑いを堪えるのが大変だった。
「じゃあ、仕方ないから一緒に帰るか」
「まあ……行き先が一緒なら仕方ないよね」
素直に頷くことができないこいつのこと、俺と同じだけ一緒にいた、母親がどれだけわかっているのかは知らないが。
昔からいつも、シャンプーとガソリンの混じった臭いがする幼なじみと、家までの短い距離を、少しだけくっついて歩いた。