※照美と一之瀬の国籍事情を捏造しています。微妙な表現を含みますが、差別表現等のつもりは一切ありません。気分を害される方がいらっしゃいましたら、撤去しますので、お知らせ下さい。
河川敷の鉄橋からは小さなグラウンドがよく見えて、それからずっと先の方に、少しだけ雷門中の校舎が見えた。
黄色と青の妙なかたちのエンブレム。
あれが稲妻を表しているのに気付いたのは、ごく最近のことだ。
「あれ?珍しい人を見かけたな」
それを眺めるのを遮ったのは、夕暮れには不釣り合いな気の抜けた声。
振り返ると見覚えのある人が、久しく見ないほど悪意のない顔でにこりと笑った。
「雷門町に何か用?アフロディ」
「……君は、雷門中の」
「ああ、名前わからない?一之瀬。ポジションはミッドフィルダー。背番号は16番」
わからない、なんて言っていない。
だけどそう言う前に一之瀬くんは勝手に名乗って、よろしくと笑った。
それから勝手に大きなトランクを置いて、勝手に隣の手摺りに寄り掛かる。
勝手にもなにも、それこそそんなの、彼の勝手なのだけど。
「あれ、気付かなかったな。ここから校舎が見えるんだ」
ほら、アフロディ、あれ雷門中だよ、と一之瀬くんが指を差す。
知っているさ、だからこうしてここにいたんだもの。
そう、とだけ彼に返して、また景色に目を戻した。
「……はあ。ねえ、君は、練習には行かないのかい?」
しばらく黙って並んでいたのだけど、不意に、すごく居づらいような気分になってしまって、仕方なく一之瀬くんに話し掛ける。
まったく、こんな気分は性に合わないんだけど。
そうしたら一之瀬くんは、そんな気まずさなんて微塵も感じさせないけろっとした顔をして、僕の方を見て言った。
「うん。ちょっと事情で、しばらく雷門を離れるんだ」
「え?」
「だから今日はこんな大荷物で、こんなところを歩いているわけ」
「……そう」
なんだか今、とんでもないことをさらっと言った気がするのだけど。
「海外にでも行くのかい?」
乗せられたわけじゃないけれど、つい必要のないことを口にしてしまう。
彼の纏うこの空気は何なんだろう。
こんなこと、彼に漏らしたって、意味はないのに。
「よくわかったね。あ、円堂たちには内緒だよ。驚かせたいからね」
「……本当に?」
「アメリカ代表に誘われてるんだ」
相変わらず一之瀬くんはけろっとしたままで、僕にはよくわからなくなる。
また、そう、としか返せなかった。
「あんまり驚いたりしないんだね」
「他人事だからね」
「何か身に覚えがあるとか?」
驚いて、隣の一之瀬くんの顔をじっと見てしまう。
一之瀬くんは長い睫毛をぱちくりさせて、あ、図星だった?と少し首を傾げた。
僕は、今日はじめてのため息をつく。
何で彼にはお見通しなんだろう。
「何でわかったの?ひょっとして君、魔法使いかなにか?」
今度は僕が呆れたように首を傾げて見せると、一之瀬くんはいたずらっこのような顔で言った。
「ふふ。本当は今日ね、雷門中のサッカー部は休みなんだ。グラウンドで日本代表の選抜会があるからって」
「……ああ。そうか、今日だったのか」
屈託ない顔で笑う。
彼に悪意なんかはこれっぽっちもないのだろう。
「君が呼ばれてないのはおかしいと思ったから……魔法使いじゃなくてごめんね」
「いいよ。それはそれで困るからね」
「どこか別の国から出るのかい?」
僕は一つ彼に言わなかったことがある。
僕にはそもそも、彼が言うような日本代表のオファーは来なかったんだ。
それは、全国大会であんな不祥事を起こしたせいでも、あれから僕がサッカー部をやめたせいでもない。
ただ、僕が日本人ではないというだけのこと。
それ以上の深い意味はない。
「……韓国から、代表にならないかと声をかけられた」
僕は韓国人なんだ。
手摺りに頬杖をついたまま、彼の顔を見ずに言った。
そうしたら、目の前で沈みかけた太陽が視界から消えて、代わりに一之瀬くんの顔が一面に飛び込んできて、少し面食らう。
「そうなんだ。道理で」
覗き込んだ彼の顔がまた引っ込むと、もう一度現れた太陽が眩しくて目を細めた。
「日本人離れした美人だと思ってたんだ」
「……君も、あんまり驚かないからつまらないな」
一之瀬くんは、ふふ、と笑う。
それから小さな声で話し出した。
「俺は日本人だけど、アメリカで生まれたから、今はまだどちらの国の代表にもなれるみたいなんだ」
「日本からのオファーはなかったの?」
「あったよ」
今度は僕が一之瀬くんの横顔を見る。
彼はしばらくしたら、少しこちらに顔を向けてにこりと笑った。
「……それは、君にとって大きな決断じゃなかったのかい?」
「どうだろう」
相変わらず掴めない彼の軽い態度に、少し心がざわついた。
「とにかく、雷門中に来たときと同じように、今度はアメリカに行ってみたいと思ったんだよね」
「ふうん」
「もしかしたら、円堂たちと戦ってみたいなんて興味がわいたのかも」
「……随分、あっさりと決めたんだね」
「そりゃそうさ」
僕は、サッカーなんてものからは足を洗うつもりだった。
たから部もやめた。
彼とは違う。
「だって、次またこんな代表戦があったとしたら、俺は今度は日本を選ぶかもしれないんだし」
君にとってはそんなこと?
覚悟もなにもないって言うの?
彼へのざわつきが、耳元で静かな電子音みたいな音を鳴らした。
それなのに、母国からのオファーに、未だに返事を出せずにいるのは、僕の方じゃないか。
「いいな、韓国代表。強いって聞くよ。そんなチャンスめったにないね」
「……日本に来ると決めたとき、捨てたつもりの国籍だったのに」
そりゃあ、軽く人生を狂わされはしたけれど、サッカーが嫌いなわけじゃなかったんだ。
僕がぼやくと、事情なんて何も知らないはずの彼は、だけど今日何度目かわからない、これでもかと言うくらい屈託のない顔で笑って、こう言った。
「だけどね、アフロディ。俺たちはまだそんな未来のことを決められるほど、長く生きてはいないんだもの」