しばらくそれを眺めていたらしい翡翠は、ふるふると怒りに震えていたようだったけど、痺れを切らすとにこりと笑んであたしに近寄る。小屋へと逃げようとするあたしの頭に、鉄拳が落ちてきた。
「〜っいったぁ!」
「梓、いい加減にしなさい」
(護法童子が主にグーパン、ですか…)
「翡翠、毎回思うけど主の頭をふつうグーで殴る!?」
「殴られるようなことをしなければいいだけの話です。まだ何か口答えするつもりなら、口答えのできない薬を飲ませますよ」
「どっちも嫌!」
「梓…?」
にーっこりと、黒い何かを含んだ微笑を向けてくる翡翠。それが結構本気で怒っている笑みだと、長い付き合いで知っているあたしは、背筋にひやりと嫌な汗をかいた。 それに、薬の話まで出ている。長年の時間を過ごした時の護法童子である翡翠の調合する薬は、本当によく効く。…けど、良薬口に苦しとはよく言ったもので、効果がすごい分かなり苦い、のだ。苦いっていうか痛いっていうか痺れるっていうか…。 それこそ何か薬を飲まされたら、後味のおかげでしばらく口答えなんてできない。しぶしぶと小屋から離れた。
「退魔師殿と童子殿…どちらが保護者…というか、主人かわからなくなりますね」
「ああ見えても、あの子はまだ子供なのですよ」
「それは同感でございます」
「おや?それはわかっていたのですね」
「…どういうことで、ございましょう?」
「いいえ、深い意味はないのですよ」
居間へ戻ろうと歩いていると、コックリの手から逃れたのか、こひなちゃんが庭に座り込んで何やらじっと眺めている。 なんだろうと思って近寄ってみると、こひなちゃんの視線の先には長い列を作った蟻がいた。こひなちゃんの隣に座り込んで、いっしょに蟻を眺める。
「アリさんなのです」
「そうね」
「こひな、梓」
そんなあたしたちに、もっふりと小さな狐に化けたコックリが近寄ってきた。翡翠もあたしたちの傍に寄って、蟻を捉えたらしい。
「こんな小さなアリでも、自分より大きなエサを運んで毎日コツコツ頑張ってるんだ。だからこひなと梓も勉強を頑張…」
「知っているか?」
「…信楽のおっさん」
「働きアリの二割は仕事をサボっているんだぜ。そして、おじさんは…」
こひなちゃんやあたし、コックリと翡翠の視線を浴びながら、信楽のおっさんはここぞとばかりにキメ顔でこう言った。
「その、二割だ」
「――…虫ケラめ」
キメるところじゃなかったと、心底思う。
こひなちゃんが信楽のおっさんに「虫ケラ」と言い放ったところで、あたしとこひなちゃんはコックリに両脇に抱えられるようにして捕まった。馬鹿狗にしたように、僅かながらに抵抗を試みた。 「セクハラ」だとか「変態」だとか、暴れながら言えば、馬鹿狗とは違ってコックリにはそれなりにダメージになったようだったけど、下ろしてはくれなかった。
「こひな。勉強に限らない話だが、やらなきゃいけないとわかっていることは、忙しいとかやりたくないからとサボったりすると、たいがい後で後悔するんだぞ」
「やらないといけないこと…」
翡翠の監視の元、あたしはしぶしぶちゃぶ台に教科書とノートを広げていた。コックリがこひなちゃんに真剣に勉強が大事だということを伝えているのを、遠目に眺める。
「わかったのです、やはり勉強しなくて大丈夫なのです」
「は?」
「欠片も、やらなきゃいけないと思えぬからです」
(とてつもない、曇りなき眼をしてるわね)
コックリの必死の訴えも虚しく、こひなちゃんには欠片も勉強の大切さは伝わらなかったみたい。 言うなれば完全にアウトサイダー、社会からすでにこぼれ落ちてるって感じ。まるでそう…もうレールには戻れないはぐれ列車のような。
「もういい……あーあ、良い点取ったらカップ麺パーティしようと思ったのになぁ」
「!?」
コックリのその一言を聞くと、こひなちゃんは慌てて自室へと駆け込んで行った。…まさか、今の一言で勉強スイッチ、入ったとか…そんな馬鹿な。いや、でもあそこまでカプメニストなこひなちゃんなら…あり得る。 自室にこもったらしいこひなちゃんに、やれやれとコックリが肩を落とす。あたしも適当に勉強して(半分は流し読み程度だけど)アパートに帰ったらさっさと寝よう。
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