初めてこの屋敷で夕飯を共にしたあの日から、梓は渋々と承諾してくれる日もあったが、基本はやはり自身のアパートに帰って夕飯を済ませている。
変わらず面倒臭がるとインスタントで済ませるので、翡翠としてはコックリの作る料理を食べて帰りたい、というのが本音だ。コックリのご飯が食べたいのなら、気にせず翡翠だけでも食べて帰ってきてもいい、と梓に言われたのだが。


「…私だけ夕飯をいただいて帰るわけにもいかないので」

「梓の嬢ちゃんいないと花がないしなァ…」

「信楽、貴方の徳利に体に良い薬を入れてあげましょうか」

「お前さんのその笑みは昔っからおっかねェな…」

「童子殿も大変ですね、退魔師殿の気分に振り回されて。退魔師殿など気にせず、食べたいのなら貴殿だけでも食べて帰ればいいのでは?」


いつの間にやらマスコットの姿から男性の姿に戻った狗神の言葉に、静かに翡翠は黒へと視線を移す。黒い前髪に隠されていない、赤の片目と視線が合うと、その目は小馬鹿にしたように細められた。
彼の片手はしっかりと隣に座るこひなの体を撫でていたが、こひなが食べ終わったみたらし団子の串で、狗神の手を刺すというお仕置きでその動作は止まる。
見下したような、からかうような狗神の視線と言葉に、翡翠は主と違い冷静に返事をする。


「梓の気分に振り回されているわけではありませんよ。私は梓が決めたことに従っているだけです」

「決めたこと、でございますか?夕食のことなのにずいぶん大袈裟では?まぁ退魔師殿のことなど私には関係ありませんが」

「夕食のことではありません。あと、こひなが刺した片手をせめて止血なさい、狗神」

「私に指図しないでいただきたい。私はこひな様の言うことしか聞き入れません故」


あからさまに顔を歪める狗神に、翡翠は瞼を伏せやれやれと小さく肩を落とす。薄く伏せた瞼を開くと、ゆらゆらと揺れる湯呑の中の玉露を見つめた。


「…さすが若いだけあって、まだまだ小童ですね。ほら手を出しなさい、狗神。止血しないのなら沁みる塗り薬を塗りますよ?」

「童子殿に止血していただかなくとも、こひな様にしていただきます!我が君、どうかこの狗神めに手当てを…!」

「嬢ちゃんならさっきからどっか行っちまってるぜ?」

「我が君いぃ…!」

「狗神、さっさと止血しろよ。自分でやらないなら翡翠にやってもらえ」

「嫌でございます!我が君に手当てをしてもらいとうございます!「いいからさっさとしろ」がふぅっ!」


相変わらず騒がしいですね、と一言溢すと、後頭部を殴られちゃぶ台に顔面を強打した狗神に、翡翠は包帯を取り出す。強打した顔を上げ包帯を取り出した翡翠を見ると、狗神は翡翠の手から包帯を奪い乱暴にぐるぐると患部に巻きつけた。
ぐるぐると雑に包帯を巻きつける様子を見つめながら、翡翠は小さく息をついてこれ以上何もすまいと湯呑に再び手を伸ばす。


「…貴方たち物の怪の事情など、護法童子である私が知る由もありませんが…私が仕える人間(ひと)、とくに退魔の者は昔から様々な事情があるのですよ。それは我が主、梓も同じです」


そう言い冷めてきた玉露を飲み干す翡翠に、狗神が眉を寄せているとぽつりと、向かい側で煙草の紫煙を燻らせていた信楽が口を開いた。


「…そっちの人間は相変わらずってか」

「退魔師の血を絶やすわけにはいかないですからね」

「なぁ翡翠。思ってたんだけど、お前のとこの……門真のところには今、梓しかいないのか?」

「…いいえ。童子遣いである門真家には私と、もう一人、紫苑という護法童子がいます。紫苑は門真家の男子(おのこ)についています」

「それなら、「私を使役するほどの力を持っているのが梓です。現門真家のご当主様の気が変われば、あの子も…あの方のようにしなければなりません」……」

「昔から窮屈な世界だなァ、そっちの人間の世界ってのは」

「……」


三人の会話を一人理解できないで聞いていた狗神は、ますます眉間に皺を寄せた。翡翠とコックリたちが知り合いなのは、初めて出会った日から知っていたが、三人だけが知っていて自分だけついていけないのはなんだか気に食わなかった。
狗神はまだ物の怪として若い。犬として生きていたのが三年、狗神として過ごした時間はまだ二年ほどしかない。物の怪として過ごした時間だけで言えば、二年だけである狗神など、コックリや信楽からすればまだ生まれたばかりの物の怪同然だろう。
ましてやコックリや信楽よりも時間を過ごした翡翠からすれば、雛でもなく孵る前の卵、かもしれない。人間の世界とも物の怪の世界とも接した時間は短ければ、退魔の一族のことなど何一つ知らないに等しい。

だからと言って知りたいわけでもなかった。知っていたいことも、知りたいと思うことも、狗神にはただ一人に向けられていればいい事柄。
ただ自分が知らないことを三人だけが知っていて、自分がそれについていけないことが何故だかもやもやと、胸に突っかかった。興味などこれっぽっちもないのに。


(…やはり、私には我が君だけでございます)


そっと片手に乱暴に巻きつけた包帯を撫でた。


「…どうでもいいですが、貴殿たちの老人会に私を巻き込まないでいただきたい」

「これは失敬、狗神にはわからない昔話をしてしまいましたね」

「……年寄りの昔話ほど、退屈でつまらないものはないのでございます」

「おい狗神。その言い方はねーだろ?」

「…ふん。退屈過ぎるので私はこひな様に構ってもらいます」


気に食わず空気をぶち壊してやろうと口にした言葉に、翡翠があのギャンギャンうるさい小娘とは違って静かに、にこりと余裕を持って返事を返してきたことがなおさら気に食わなかった。
「わからない昔話」と言葉にして言われたことが、なんだかふつふつとよくわからない感情が胸に、だんだんと積もっていくのを自覚させた。あのうるさい女と違って、翡翠には嫌味や挑発が通じない。そこもまた、癪だった。
みたらし団子を食べ終えてから姿が見えないこひなを探そうと立ち上がり、狗神はコックリの制止の声も聞かずに居間を出て襖を閉めた。


「…本当に、小童ですね」


閉めた襖の向こうで、翡翠が苦笑を漏らしながらそんなことを呟いていたのを、狗神が聞くこともなかった。




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