『…何か、呪いたいモノがあるならこの狗神めが呪って差し上げますよ?』
あの月夜の晩、馬鹿狗にそんなことを言われた。 馬鹿馬鹿しい、退魔の者であるあたしが、物の怪に自ら進んでそんなことを頼むわけがないじゃない。だいたい、物の怪のクセして変態だしキモいしストーカーだし、何よりいちいち癇に障る言い方をするアイツはホント気に食わない。 仮に、『もしも』仮に!何かを呪うとしても、あたしだったら他の狗神に頼むわ。アイツなんかの世話になったりなんかぜっっっったいに、しない。
「では、教科書43ページを開いて…」
先生の声をぼんやり聞きながら、あたしは自分の窓際の席で窓の向こうの空を見ていた。 馬鹿狗にからかわれた晩から、こひなちゃんの屋敷にお邪魔してはあたしとアイツは売り言葉に買い言葉、と言った感じのやりとりをするようになっていた。 先日もこひなちゃんと結ばれたあと、ハネムーンの夜明けに美味しいコーヒーを淹れるためだとか何とか、また馬鹿げた妄想を言ってた。結局こひなちゃんはコーヒーが苦手だから、アイツの淹れたコーヒーなんて飲むことは今後もないんだけど。 こひなちゃんがコーヒーが苦手だと知って、アイツはしばらく魂が抜けたみたいになっていた、らしい(コックリに聞いた話だから、どんな風に静かになっていたかはわからない)。
(…バカっぽい…勝手に妄想して勝手に盛り上がって、当たって砕けて落ち込んで……子供みたい)
っていうか、アイツ狗神としての本職を忘れているだろうとたまに思う。…それはコックリや信楽のおっさんにも言えたことだけど。 まぁ本職を忘れてもらっていた方が、あたしも無駄な体力気力を使わなくていいから、それはそれでいーんだけど。本職を思い出してあたしに何か呪ってやろうかってあの時言ったのなら、アンタ自身でも呪ってなさいよ、と思う。
(……ああ…でもアイツは狗神だから、自分を世を…呪って生まれたモノ、なのよね)
眺めている空に小鳥が自由に飛び回っていくのを見て、机に頬杖をつきながら当たり前のことを思い出す。
(…自分を世を、呪って…か…)
「こら、門真!教科書を出しなさい」
そんなことを考えていたから、先生があたしの席の近くに来ていたなんて気が付かなくて、注意された。 …あの馬鹿狗のせいってことにしておこう。翡翠に返事をするように、間延びした声で先生に答えると、先生は肩を竦めてあたしから離れて授業を再開した。 隣の席の女子友達が、教科書をパラパラ開くあたしに興味津々といったように小声で話しかけてくる。
「…梓、アンニュイな溜息なんてついて、どうしたの?」
「え?あたし溜息なんてついてた?」
「空をぼーっと眺めながら溜息なんてついて…さては恋のお悩みですかな?」
「……なにそれ。そんなわけないじゃない」
「ちがうの?じゃあ何ぼーっと考えてたの?」
友達の質問に、あたしは教科書を適当なページに開いてぶっきらぼうにこう答えた。
「馬鹿狗のこと」
「…梓、犬なんて飼ってたっけ?」
こそこそと友達に返事をしていたら、また先生から私語はやめなさいと注意された。二回もアイツのせいで先生から咎められるなんて、今日は厄日だ、とあたしは心底思った。
02.とある日の老人会
時計の短針が三の数字を差すのを見て、翡翠は手にしていた調合薬を軽く片付けた。
「…もうこんな時間ですか」
「翡翠ー、おやつにしようぜー」
「…市松はカップめ「ダメだ、こんな時間に食べたら夕飯食べられないだろ」…ぬーん…」
「帰ってきていたのですね、こひな。おかえりなさい」
「ただいまなのです、翡翠さん」
どうやら掃除を終えたらしいコックリが、お盆の上に湯呑をいくつかのせて居間に入ってきた。帰宅していたこの屋敷の家主、こひなもコックリの後ろをついて、コックリから注意されたことに僅かに不満そうな表情をする。 それに翡翠は苦笑して、湯呑と共に目の前に置かれたお皿の上にあるみたらし団子を見ると、座り込んだコックリに視線を移す。
「今日はみたらし団子ですか、玉露に合いますね」
「だろ?翡翠が喜びそうだと思ってさ」
にこにこと表情を緩めるコックリに、本当に随分丸くなったものだ、と翡翠は改めて思う。 こひなの頭に乗っていた、最近己の主とよく言い合いをしている見た目は可愛らしいマスコットに化けた狗神も、こひなの隣へ降りた。 おやつと聞きつけて縁側でだらしなく飲んだくれていた信楽も、のっそりのっそりと居間へと戻ってきた。湯気を立ち上らせている玉露に合わない酒気に、翡翠は少し眉を寄せたが、もう慣れたものだと小さく吐息する。 みんなそれぞれ自分の分のみたらし団子に手をつけていた時、ふとコックリが翡翠を見て訊ねた。
「そういや翡翠、今日は夕飯食べていくのか?」
ごく当たり前に、そう訊ねてくるコックリに、翡翠は湯呑を丁寧に持ちながら答える。
「…いえ、おそらく今日も帰ると思いますよ。せっかくのお誘いで悪いのですが…」
「そっか…まあ、また気が向いたら食べていけばいいし」
「私はインスタントになるくらいなら、コックリのご飯を食べて帰りたいのですけどね」
遠まわしにこの場にいない主の、楽ちん夕飯にケチをつけるかのように答えると、湯呑に口をつけ傾けた。
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