「死んだ」

 ひとつ音が消えた。どこの木に居座っていた蝉かはわからないけれども、ひとつだけ、一番大きかった音がパッタリ鳴らなくなった。額からも頬からも汗を流している雪村さんに俺はなにも言わなかったが正直どうでもいいと思った。蝉の死はいつも見ているし珍しいものではない。珍しいといえば雪村さんが汗だくになっている姿のほうが珍しくて目を丸くした。彼はいつも涼しげな人だった。北海道出身だからか、それとも暑がりでそこを好んでいなかったからか、汗が嫌いだったからか、理由はいくつも思いつく。ただ、汗にまみれている雪村さんはかっこいいとも思ったし、どこか俺の憧れの姿とは違うとも思った。俺にとっての雪村さんはこんな乱すような人ではなく、冷たくて、涼しくて、なにより触れてはいけない人だと思っている。ただ思っているだけで触れることなんて容易く、ぶつかることだって安易だ。

 大きな木だった。見上げるのにはだれもが首を上に向けなければてっぺんは見えない、いや、見上げてもてっぺんは見えないくらい大きな木だった。緑が生い茂る、とでもいえばいいんだろうか。緑と緑とそれからときどき空の青色。ほとんど緑。俺はこの木が結構好きかもしれない。小さいころに出会っていたら喜んでこの木に挑戦するだろう。それからきれいな色を見たあと、首をゆっくり下ろす。木の幹の茶色とはちがう、すこし薄い茶色、地面の色だ。たまに雑草の緑も生えてはいるがこの大木の緑には到底かなわないすこし淡い緑だった。地面の茶色にポツンと黒がおっこちてる。腹を見せて蝉がころがっていたのだ。うわあ、本当はそう口にしていまからトイレなり水道なりどこかへ消えてしまいたかったが隣の雪村さんがあまりにもこの蝉を切なそうに見つめるのでそんな言葉は漏らせなかった、顔が歪むのは隠せなかったけれども。

「お墓を作ろう」

 はあ馬鹿か。憧れている人に毒づくのは俺も正直やりたくないわけだが、馬鹿か。そうとしか思うことはできなかった。この人は、こいつは、この男は、なにを考えているのかよくわからない。いや、いつものことである。いつも雪村豹牙は何を考えているのかわからないのだ。蝉が死んでしまったのを自分の身内が死んでしまったように汗にまみれながらも俺に伝えてきてくれたり、お墓を作ろうって言ったり。その蝉だって今日初めて見た蝉だろう。もっといえば、その蝉の声も今日初めて聞いたかもしれない。それなのに、自分の手を汚して穴を掘るのだ。白い手を泥が汚したり、爪の中に泥が入ってたり。きったねえ。そんなことやってるんだったら自転車でちかくのコンビニまで行っておいしいアイスでも買って食べていたほうが時間の使い方的にも俺はいいと思うのに。こういう人の隣っていやなんだ。雪村さんは好き、けれどもいやなんだ。上から眺めているだけだったけれども、俺がどう媚びてもこの人はきっと一緒に自転車にのって涼しい風を感じながら冷たいアイスなんて買いに行ってはくれないだろう。頑固だし、何より今夢中になっているのが俺よりこの蝉だからだ。ああもうしょうがないな。半ばめんどくさげに俺も地面に膝をついた。前かがみになって雪村さんと同じように手で土を掻きだす。結局俺も同じように命が消えて知り合った蝉なんかのために爪を、手を汚すのだ。雪村さんの隣はいやだ。彼に流されてしまうから、自分の思い通りにならないからとてもとても居心地が悪い。

 てっきり、石にマジックペンで蝉の墓とでも書いておいてやるのかと思った。短い木の枝でも立ててやるのかと思った。蝉を埋めたところは気づけば平地で、穴を掘る前となにも変わってはいなかった。これならだれも何も分からず踏んでしまうだろう。ここに命が埋まっているなんて誰も気づかず、この大木を登っていってしまうだろう。埋める前までは木の下なんて見たくもなかったが、気づいたらこの大きな木でも汗くさい雪村さんでもなく蝉の死骸が埋まったなにもない土ばかりを見ていた。無性にさみしかった、知りもしない命のために涙がこぼれそうになった。さっきまでここに死んでいたんです。雪村さんに見つけてもらった蝉がさっきここで命を落したんです。そんなの、誰も誰も知らないだろう。だって俺も、腕で涙をぬぐったとたんに蝉をどこに埋めてしまったかわからなくなった。

「俺はずっとお前の憧れでありたいよ。だからこうやって死んでいくのはいやだな」
「意味がわかりません」
「いいよわかんなくて。俺もお前が何考えているかわかんないから」
「アイスが食べたい」
「じゃあ買いに行こうぜ」

 横目で見た雪村さんはまっすぐ大木を見ていた。先ほどまで、脱水症状にでもなるんじゃないかというほど汗をかいていたのに、今はそんなことがなかったかのように涼しげな顔をしていた。今何を考えているんだろう。やはり読み取ることはまったくできなかった。人の心が読める人がいてもこの人だけは読めないんじゃないかと思うほど、この人はわからないのだ。なんの前触れもなく雪村さんの左手が俺の右手に触れた。触れて、握られた。泥と汗で一段と気持ち悪い雪村さんの真っ白な手はあったかくなく、冷たくてすこし震えている。やっぱりこんなに簡単に触れてしまう。なのにやっぱり、彼の心には手は届いていないのだ。手を握っても言葉を交わしても、相変わらず雪村さんはなにを考えているかよくわからない。よくわかっているのは、俺と彼には深い関係はなく、彼はいつまでも俺の憧れであるということだけだった。


夏の死骸
雪村と狩屋/あむへ


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