今日は休日ですから


 休日の朝の、この時間が好きだ。
 黒子は薄っすらと目を開け、目の前に散らばる金の光に満足して目を閉じた。もぞもぞと身体を動かして黄瀬の胸に耳を寄せる。一定のリズムで打ち返す音にほわりと胸が満たされていった。
「黒子っち? 起きたの?」
「まだ寝てます」
「まーたそんなはっきりした寝言言って」
 くすくすと笑いながら方々に跳ねた黒子の髪を撫でる。手に柔らかく絡んだ髪を丁寧に撫で、自分の薬指に光る指輪が目に入った。
「黒子っち、手出して」
「手ですか?」
「ん、ありがと」
 ちゅ、と自分と同じデザインの指輪に唇を寄せ、小さなリップ音を立てる。頬を赤く染めた黒子が手を引き寄せるのと同時に、するりと彼の背中に手を滑らせた。
「……黄瀬君、こら」
「だーって昨日の黒子っち超可愛かったんスもん」
「もう起きますよ」
「えー。もうちょっと」
 ぐりぐりと頭をこすり付けてくる黄瀬に嘆息し、黒子も黄瀬の背中に手を回した。ふと眉を顰める黄瀬に、小さな声で謝罪する。
「すみません、痛かったですか?」
「平気っス。むしろもっとつけていいよ」
「……マゾヒストですか」
「黒子っち限定でね」
 額に一つキスを落とし、ぎゅうっと強く抱きしめる。指先で辿った背中には、昨夜つけてしまった傷が数本走っていた。最近仕事の忙しかった黄瀬は休日出勤も多く、先日やっとその山場を越えたと聞いた。大型の案件をものにしたと喜んでいて、お祝いと称してワインを開けた。久しぶりの休日となれば自然とそういう空気になるのも当たり前だ。酔いが回ってくたりとした黒子をゆっくりとベッドに押し倒し、彼は綺麗な笑みを浮かべていた。
「黒子っち、いい?」
 仄かに赤い頬と目尻に情欲の色を滲ませ、黒子の顔に手を添える。小さく頷くと、すぐに黄瀬の唇が降りてきた。啄ばむようなキスが深いものに変わり、咥内への刺激だけで黒子は目に涙を浮かべる。それを唇で吸い取りながら、黄瀬は自分のネクタイに指を差し入れた。
「黒子っちに触るの、久しぶり」
「……黄瀬君」
「ん? 何?」
「きせくん」
「へへ、黒子っちから甘えてくれるの嬉しいっス」
 自分でもびっくりするくらい甘えた声が出て、黄瀬の腕の中で顔を真っ赤に染める。まだ着たままだった黄瀬のシャツのボタンを外し、露わになった素肌に顔を寄せた。とくとくと聞こえる鼓動が耳に心地よい。じんわりとしみこんでくる体温にぐりぐりと頭をこすりつけると、黄瀬が小さく笑った気配がした。
「くすぐったいっスよ、黒子っち」
「甘えてるんです。文句ありますか」
「あるわけないじゃん」
 シャツを脱いだ黄瀬が黒子の背中に腕を回す。するするとシーツの中を進んでくる手に肩を揺らし、黒子も黄瀬の背中に手を回した。盛り上がった肩甲骨を撫で、筋肉を辿って背骨を一つずつ数える。もう何年も付き合ってきた身体は自分のものより分かりやすいと黒子は考えていた。
「何考えてんの?」
「黄瀬君に触ってると安心するんです」
「何それ、タッチセラピーみたいな?」
「触られるのもいいですけど、触るのも安心します」
「……何でそんな可愛いことばっか言うかなぁ……」
「分かりませんか?」
 黄瀬の頭を跨ぐように腕をついて身体を起こす。真正面から見下ろして、黒子は唇に妖艶な笑みを浮かべた。
「……誘ってるんですよ」
 そう言ってちゅっと鼻先にキスを落とす。ぶわりと顔を真っ赤にした黄瀬に小さく笑い、金髪に指を絡めた。だがその瞬間ぐいっと腰を引かれ、黄瀬の身体に倒れ込む。打ちつけた額をさするより早く、黄瀬の手が怪しく這い回った。
「可愛い奥さんのお誘いなら、乗らない話はないっスよね?」
「お手柔らかにお願いします、旦那様」
「……鋭意努力するっス」
 ―――結局黄瀬の努力は水の泡となったが。
 ベッドから降りた黄瀬を見送り、黒子はシーツに包まっていた。放り出していたスラックスを穿いてリビングに向かう黄瀬の背中には、幾筋か赤い痕がある。そういえば黄瀬と付き合い始めた頃は、絶対に傷をつけないようにしていたことを思い出した。
「黒子っち、好きっス」
 俯けた顔を真っ赤にして、黄瀬は黒子に告白をした。それまでも何度となく黄瀬からその言葉を告げられていたが、そのときの彼が本気だと分かったのは握り締めた拳が小さく震えていたからだった。
 夕陽を背負った黄瀬の表情は分からない。でもどうしてか彼が泣きそうに思えてしまって、黒子は真正面から黄瀬を見つめながら自分の気持ちを告げた。
「ボクも、黄瀬君のことが好きです」
「……分かってないっスよ、黒子っちの好きとオレの好きは違う」
「どうしてそう決め付けるんですか」
「だって黒子っちがオレのこと好きになんてなるはずないから」
 ゆるりと振られる首に苛立ちが募る。つかつかと歩み寄り、灰色のブレザーを掴んだ。びっくりして目を丸くしている黄瀬に噛み付くようにキスをする。初めて触れた彼の唇はかさついていて、ガチンと歯がぶつかった音がした。その拍子に唇が切れたのか、じわりと口の中に血の味が広がる。
「……黄瀬君のせいでファーストキスが血の味になりました」
「え……あ、れ、今……」
「……まだ分からないんですか」
「だってそんなの、有り得ないって……」
 言葉の最後から声が震え、頬に透明な筋が出来る。伸ばした指先を濡らしていく涙に苦笑し、黒子は自分より高い位置にある頭をそっと引き寄せた。ちゅ、と唇に触れるだけのキスをして、涙を拭う。
「どうしてボクに関してはそんなに自信がないんですか」
「……黒子っち、ホント? ホントに?」
「本当ですよ。……というか、ボクってそんなに信用ないですか?」
「だって絶対に無理だって思ってたんだよ。ねぇ、本当にオレのこと好きになってくれたの?」
「根負け、です。ボクをあげますから、黄瀬君をボクにください」
 はらはらと上から温かい水が降る。髪を優しく濡らす感覚に目を細め、黒子は黄瀬の背中に手を回していた。
 黄瀬と付き合い始めて一年経つ頃、キスはしたけれどそこどまりの付き合いが続いていた。お互いに学生で部活が忙しいこともあったし、何より未知の領域に足を踏み入れるのが怖かった。それでも居心地のいい場所に変わりはなくて、時間の合うときは寄り添うように触れていたのを思い出す。今考えると、黄瀬は相当我慢していたのだろう。
 部活を引退して受験勉強シーズンの前にと黄瀬の家に泊まった夜、背中に感じたシーツの感触を思い出してぎゅっと唇を噛み締めた。
「黒子っち? どうしたの。コーヒーはいったっスよ」
「い、今行きます」
「大丈夫? 何か顔赤いっスけど」
「平気ですっ」
 ぱたぱたと自分の横を通りすぎようとする身体を抱きとめて腕の中に閉じ込める。相変わらず縮まらない身長差のせいで、今でも黒子の身体はすっぽりと収まってしまう。せめてもの抵抗に身体をよじってみても、黄瀬の腕から逃れられそうになかった。
「黄瀬君、放してください」
「だぁめ。何考えてたのか教えて?」
「……キミがまだモデルをしていたときのことを思い出してました」
 むう、と頬を膨らませて視線を逸らす。ふにりと柔らかな頬をつつき、黄瀬は黒子の髪を撫でた。
「まだ気にしてる?」
「……気にしていないと言えば嘘になります」
 初めて身体を重ねた日、翌日に撮影があると言う黄瀬の言葉を忘れて思うがまま彼の背中に傷を残してしまった。ファンデーションなどで隠し切れないそれに撮影は延期になり、それから先黒子は黄瀬の背中に腕を伸ばすことがなくなった。
 気にしなくていいという黄瀬の言葉が余計に辛かった。
 それに黄瀬と付き合うようになってから、彼の周囲を取り巻く環境に改めて気付かされた。綺麗な人に囲まれて、立っているだけで女性に声を掛けられる。その度に胸の中が黒いもので押しつぶされてどろどろに汚れていく。知りたくなかった自分を見せ付けられて苦しい。その苦しさに耐えかねて大学二年の冬、街路樹が裸になったある日黄瀬に『別れよう』と告げた。
「やだ」
「嫌って……黄瀬君」
「ぜってー別れない。黒子っち、オレと別れたいって顔してねぇもん」
「別れてください」
「嫌だ。つーか黒子っち、そんな顔で言っても嘘だって丸分かりだよ」
「なに、いって……」
「そんな泣きそうな顔しないでよ」
 くしゃりと表情を歪めて、泣き出す一歩手前の顔で黄瀬は黒子に腕を伸ばした。ぎゅう、と抱きしめられてその温かさに涙が滲む。でも駄目なのだ。自分と一緒にいたら彼は―――。
「黄瀬君、放してください」
「別れない?」
「それは……」
「じゃあ駄目」
「……ボクはキミに成功してもらいたいんです」
「……黒子っち?」
 黄瀬の胸板を押して距離を取り、黒子は顔を伏せたまま手に力を込める。
「―――芸能事務所から話がきていると聞きました」
「………」
「そうなったらボクはキミの枷にしかなりません。ボクはキミに成功してもらいたい」
 先ほどと同じ台詞を繰り返して更に黄瀬から距離を取る。しかしその手をぎゅっと握り締められ、強く抱き寄せられた。
「その話断ったよ」
「……え……どうして……」
「だって黒子っちにそんな顔させるためにしてたわけじゃないし、それにオレサラリーマンになるの夢なんスもん」
「は……? サラリーマン……?」
「そうっス。そんでオレと黒子っちと、犬飼って暮らすの」
 そのためにはあんな不安定な仕事駄目っス。黒子っちに苦労かけらんない。
 ふるふると首を振り、それから柔らかく笑う。あと少しでも触れられれば決壊してしまう目尻に彼の指が触れた。見た目より少しかさついていて、温かい指先。ゆるりと目尻を撫でられ、乾いていた指先がたちまち涙に濡れていく。
「黒子っち泣き虫っスね」
「黄瀬君に言われたくありません」
「ははっ、確かに」
 きゅ、と腰で手を組まれる。もそりと黄瀬のコートの中に入り込み、薄手のセーターを涙で濡らした。
「モデルの仕事も大学卒業までって話してあるから」
「……ボクのせいですか?」
「違うよ、黒子っちのため」
 二人で並んでベンチに座り、その間で手を握り合う。時折緩急をつけて握られ、ほんのりと赤くなった頬をマフラーで隠した。
「……同じじゃないですか」
「黒子っちってオレより頭いいのに時々すっげぇ馬鹿っスよね」
「黄瀬君に言われるとむかつきます」
 むすりと頬を膨らませた黒子に笑い、こてんと寄りかかる。
「オレはね、黒子っちのためなら何でもできるんスよ」
「………」
「オレは黒子っちのもので、黒子っちはオレのものじゃないっスか」
 絡めた指先一つ一つに唇で触れる黄瀬に胸を締め付けられる。本当は黒子だって分かっていた。もう彼と離れることなんて出来ないほど、黄瀬に溺れていると言うことに。けれどそれを認めてしまったら、黄瀬の将来を縛ってしまうことになる。男同士なんてただでさえリスクが大きいのに、ましてや黄瀬は芸能人だ。
 自分と違ってもっと多くのものになれるのに、彼は自分のためにその可能性を捨てるという。
「オレの夢はずーっと黒子っちと一緒にいることなんスよ」
 ねぇ、叶えてくれないの?
 小さな声で囁かれる言葉はどこまでも優しい。ぎゅうっと絡めていた手を強く握り締め、黒子は聞こえるか聞こえないか位の声で黄瀬の名前を呼んだ。
「黄瀬君」
「ん?」
「きせ、くん」
「なぁに」
「大好きです」
「……知ってる」
 余裕のある言い方だったが、握った手の甲に涙が散る。そのことに小さく笑いあって、二人はまた唇を寄せていた。
 それから黄瀬に誘われて同棲を始めて、本格的な就職活動の前に黄瀬はモデルの仕事を辞めた。人気モデルの突然の引退に周囲はざわめいたが、黄瀬自身に戻るつもりが全くないと分かると引き止める手を渋々下ろしていた。
 休日に黒子を無理やり起こして連れて行った先がデパートだったこともある。思いっきりルームウェアの延長で出てきてしまった黒子は黄瀬の背中を殴ることで怒りを納めたが、へらりと笑った黄瀬が何やかんやと全身をプロデュースしだすものだから、怒る気も失せるというものだ。
「……楽しいんですか?」
「え、楽しいっスよ!」
「そうですか、それは何よりです」
 抑揚のない声で告げ、自分の前に傅いて靴を履かせてくるイケメンをぼんやりと見つめる。既に黄瀬の両脇にはたくさんの紙袋が並んでいて、もはやいくら使ったのかも覚えていない。まだ少し寝癖の残っている髪をつまんでいると、靴紐を結び終えた黄瀬が身体を起こした。
「でーきた! 黒子っち、サイズどう?」
「……いいみたいです、けど……靴まではいらないです」
「えー! 駄目っスよ! 今日はオレが全身プロデュースするの! そんでオレのも選んでもらう!」
「黄瀬君の? 何か買うんですか?」
「靴まで揃ったら教えてあげるー」
 思わず『じゃあいいです』と言いそうになって口を噤む。ここまでしてもらってはいさようなら、ではあまりに気分がよくない。諦めて一つ頷くと、黄瀬はぱっと表情を輝かせてレジに向かっていった。室内に置かれた椅子の一つに腰掛け、ずらりと並んだ紙袋を見る。
「買ってきたっスー! ……黒子っち、どうしよう」
「え、もしかしてすごく高かったんですか……!?」
「可愛すぎて死にそう……!」
 心配で立ち上がりかけた動きがそこで止まる。冷えた視線で黄瀬を睨み、並んだ紙袋を肩に掛けた。そのまますたすたと彼から離れれば、すぐに焦った声が追いかけてくる。
「あー! 嘘! いや嘘じゃないけど! 黒子っち待って!」
「……店内で騒がないで下さい」
「へへ、黒子っちの足止める作戦っス」
「……はぁ、分かりました。黄瀬君の買い物に付き合います」
 どんと来いです。
 ぐっと胸を逸らした黒子に噴出し、髪を撫でられる。荷物を半分引き取った黄瀬につれられ、デパートの上の階に移動する。フォーマルウェアがそこかしこに並んだフロアは、見るからに高級感が漂っている。
「ここですか?」
「うん、オレのスーツ選んでもらおうと思って」
「……黄瀬君、ばかですか」
「えっ!」
 黒子の言葉に、手に持っていた荷物がいくつかずり落ちる。慌ててそれを拾った黄瀬の前に人差し指を立て、子供に言い聞かせるような声音で告げる。
「いいですか? 就活生がブランド物のスーツなんか着ているわけないでしょう」
「え……っ」
「大体、そんな人がいたらどう思います?」
「……生意気」
「そうです。分かりましたか?」
 大きく頷いてピンッと黄瀬の額を人差し指で弾く。うっと小さく呻いた黄瀬が額をさすり、それならと言葉を続けた。
「ネクタイとかは駄目っスか」
「そこまで派手なものでなければいいんじゃないですか?」
「……じゃあそれ黒子っちに選んでほしいっス」
「え?」
「オレも黒子っちが選んでくれたもの欲しい」
 じいっと見つめてくる黄瀬は絶対に諦めることはない。長年の付き合いで十分にそれを知っている黒子は、溜め息を吐いて持っていた荷物を黄瀬に押し付けた。
「それじゃあ選んできますから、黄瀬君はそこに座っていてください」
「え、オレも行く!」
「黄瀬君? いい子ですから、ボクの言うこと聞けますよね?」
「……はい」
 じろりと睨まれておとなしく椅子に座る。最近はこうして一睨みで黙らされてしまうこともしばしばだ。結婚したら亭主関白を想定していたのに、このままでは尻に敷かれてしまうに違いない。
「……黒子っちの尻……」
 ボソッと一人呟き、変な方向へ考えをめぐらせる黄瀬は口元をだらしなく緩めていた。そんな黄瀬のことは露知らず、黒子はネクタイ売り場を見ながら気になったものを数点手にとってみた。さすが有名デパート、置いてある品物も一級品だ。つるりとした絹の感触が指先で滑り、複雑な色に光る。
「……あ」
 一瞬で目が留まったネクタイを取り上げ、指先で撫でてみる。物が呼ぶなんて表現が正しいか分からないが、黄瀬に似合うのはこれだと確信に近いものがあった。レジでプレゼント用に包んでもらい、新しい紙袋を提げる。
 そのときのネクタイは、まだ大事な宝物の一つだ。壁に掛かっているスーツに引っ掛ける形で掛かった鮮やかなブルーのネクタイにそっと目を細めた。
「……黄瀬君、コーヒーが冷めてしまいますよ」
「んー……あともうちょっと……」
 黒子の首筋に顔を埋める黄瀬に溜め息を一つ。年を重ねても中身は何も変わっていない。むしろ退化しているんじゃないかと考えた瞬間、ちくりと首を吸われる痛みがした。
「んっ」
「綺麗についたっスね」
 ぺろりと舐められる感触に、黒子は冷めたコーヒーを覚悟した。しかし今日は久しぶりの休日だ。たまにはこんな日があってもいいだろうと、黄瀬の背中に腕を回した。

20130514
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