くもみたいな、人だと思った。

「いいかい黒子、オレの言うことはよく聞くんだよ」

頬に触れる手はひんやりとしていて、指先が耳を撫でる。伏せられている瞼の向こう側にある赤い瞳は何度見ても慣れない。危険だと分かっていても近付いてしまう毒に、赤司は似ていた。危険なものほどとても綺麗だから。赤司の赤い瞳を思い出してゆるりと目を伏せる。

「はい、赤司君」
「……いい子だ」

ゆっくりと触れていた手が離れ、やっと呼吸が出来るようになった気がする。一つ深呼吸をして、黒子もまた目を開けた。愛しげにこちらをみている瞳は、しかし何の熱も孕んではいない。
―――赤司はいつもそうだった。
事実と結果のみを客観的に見て、そこに至るまでの経緯は重視しない。彼にとって結果が全てで、勝利以外の事実は存在しないことになっている。だからこそ帝光中学でも主将というポジションを任されているのだ。

「いい子だね」

先ほどと同じ台詞を繰り返し、赤司は部室を出るようにと促した。彼の横には、まだ勝負のついていない将棋盤がある。どちらにしても勝つのは赤司なのに、あの勝負に何の意味があるのだろう。黒子はそんなことを思いながら、ゆっくりとドアを閉めた。

「赤司っちとの話終わったんスか?」
「黄瀬君、まだ帰ってなかったんですか?」
「黒子っち待ってたんス! マジバ寄ろうって話になったんで」
「分かりました」

ずっしりと重いスポーツバッグを肩に掛けなおし、黄瀬と校門に向かう。ふと視線を感じた気がして振り向くと、昇降口のところに赤司の姿があった。黒子の視線から黄瀬も気付いたらしく、赤司に大きく手を振った。

「マジバ行くんスけど、赤司っちも来ないっスかー!」
「黄瀬君、赤司君は来ないと思いますよ」
「や、そうだとは思ったんスけど」

二人の予想通り、赤司はひらりと手を振っただけで校舎内に戻っていった。その背中を見送ってから改めて歩き出す。
黄瀬と共に向かったハンバーガーショップでいつものバニラシェイクを飲みながら、ぼんやりと先ほど見た背中を思い出していた。

「赤司っちも来ればいいのにな」
「赤司はこねぇだろ、こういうの」
「そーっスけど」

がじがじとストローを噛んでまだ残っているフライドポテトに手を伸ばす。既に自分のトレーが空になった青峰も同じポテトに手を伸ばし、自身の所有を訴える黄瀬の文句は聞かれないまま宙にぶら下がっていた。学校帰りによく寄るハンバーガーショップは、平日のこの時間になると大分空いてくる。日本人の平均身長をゆうに超えたメンバーは、遠慮することもなく店内のスペースを使っていた。そんな彼らを横目に見ながら、やはり思い出すのはさっきの赤司のことだ。

「そういえば、赤司っちからの話って何だったんスか?」
「次の試合のことです。ボクは出さないみたいで」
「あー……あそこのラフプレー厳しいっスからねー……うちはスタメンでいくんスかね?」
「どうだろうな。二軍のメンバーで行くかもしれないが」

紙ナプキンで手を拭った緑間が黄瀬の質問に答える。紫原は既にデザートを追加注文していて、バスケ以外のこととなるとてんでばらばらになってしまうメンバーに桃井がそっと溜め息を吐く。しかしこんな光景も毎日のことになれば慣れるようで、特に気にすることもなく会話を続けていた。
来週練習試合の予定が組まれている学校は都内でも強豪校に入る一つだが、評判はあまりよくない。黄瀬の言葉にあったように、試合中のラフプレーがひどいのだ。ファウルすれすれの試合をして、青峰を怒らせたこともある。

「峰ちんもスタメンじゃないんじゃない?」
「あぁ? 借り返さねぇでどうすんだよ」
「借り返す以上のことしそうだからっスよ……」
「でも、ボクだけ安全な場所にいるというのも納得できません」

空になったコップを置き、トレーの下に敷かれた広告をじっと見つめる。ところどころ水滴が垂れてしみになっている部分が、灰色に染まっていた。
真剣な表情の黒子に他のメンバーも一度言葉を切る。真面目な性格なのは理解しているが、同時に黒子のことを客観的に見ているのも彼らだった。実力はあるし、努力家なのももちろん知っている。それでも埋められないフィジカルの差というものがあるのだ。
男子としては華奢な体格の黒子をちらりと見て、どう伝えたものかと言葉を濁す。

「赤司っちは黒子っちのこと心配してるんスよ」
「……それは分かりますが」
「それに次の週に地区予選始まるじゃないっスか」
「……赤司君だって華奢です」
「赤司はテツとプレイの仕方ちげーだろ。いいから気にするなって」

まだ不満を残している黒子の頭をぐしゃぐしゃとかき回し、青峰はトレーを持って席を立った。それに続いて他のメンバーも店を後にする。
途中まで帰り道が同じである黄瀬と肩を並べ、黒子は自分の影を見つめていた。等間隔で立っている街灯と、それに照らされた影はくるりと自分たちの周りを回ってまた新しい影につながる。最初は短かった影がどんどんと伸び、自分の本当の身長を抜かした後に薄くなって消える。そうしてまた生まれた短くて濃い影を踏み、住宅地を進んでいった。

「……ボクは」
「……? 黒子っち?」
「ボクはやっぱり納得できません」
「え、さっきの話?」
「はい」

こくりと頷いて足を止める。ちょうど自分の下にある影は、自分の身長と同じくらいの長さだった。

「でも黒子っち、キャプテンの言うことは絶対っスよ?」
「ボクが出ないことで他の人たちが怪我をするのは我慢できません」
「怪我するって決まったわけじゃないっスよ」

黒子っちは心配性っスね、と肩を竦めた黄瀬に、黒子の眉間に皺が寄る。心配性だからとかそんな理由で流せないような不安がぐるぐると渦巻いていた。全中三連覇に向けた地区予選の前週に組まれたこの練習試合とその相手。赤司からの指示。脳裏に以前見た相手校の乱暴なプレイが思い出される。
ばらばらのカードが並べられて、後一歩でその答えを導き出せそうなのにまだ分からない。そんな嫌な気分のまま、黒子を納得させようとする黄瀬の言葉に小さく頷いた。



ピッと短い笛の音に従ってお互いに整列する。結局メンバーはほぼ二軍で、いつもの伝統にのっとってベンチには青峰と赤司が控えていた。青峰はともかく赤司がベンチにいるのは珍しく、黒子はやはり嫌な予感を抑えきれないまま二階で試合を観戦していた。
帝光中学のメンバーともなれば二軍の生徒でも他校を圧倒するのは簡単だ。しかしそれでも経験の差と相変わらずの乱暴なプレーで小さな点差が埋まらずに後半に雪崩れ込むこととなった。それまでずっとタオルを頭に乗せていた赤司がゆらりと立ち上がり、足首を回す。監督に小さく頷き、タオルをベンチに置く。

「赤司っちが出るんスか?」
「黄瀬君」
「あー……でも青峰っちは出せる状態じゃないっスね……」

見れば、ベンチに座っている青峰は遠目からでも分かるほどに苛立っていた。度重なるラフプレーと曖昧な審判に苛立った青峰を試合に出せば、すぐにでもファウルで退場させられそうだ。それだけでなく、来週に控えた地区予選にも当然悪い影響が出てくる。今日控えている選手の中では、赤司が出ることが最善のように思えた。

「……嫌な予感がします」
「だーいじょうぶだって! 何てったってオレらのキャプテンっスよ?」
「そう、なんですけど」

黄瀬の言葉に思わず頷きそうになるが、ゆらりと視線を外して赤司の背中を見る。コートの中に入っていく瞬間、赤司がこちらを見上げたような気がした。

「……っ」
「黒子っち?」
「……何でもありません」

ぎゅっと手を握り締めた瞬間、第3クォーターが始まった。じわじわと嫌な汗が手のひらに滲んでくるようで、時計が進むのがやけに遅い。ボールが赤司に周り、凛と通る声で周囲のメンバーに指示を出す。前半とは違って赤司がいることにより、チームの士気も上がっている。縮まらなかった点差を徐々に詰め、会場のボルテージもそれに応じて上がっていった。
メンバーがスリーポイントを決め、一気に逆転した時に、それは起こった。
一瞬、何が起きたか分からなかった。気付いたら誰かがコートの中に倒れていて、それが赤司だと気付いたのは隣にいる黄瀬が彼をそう呼んだからだ。

「―――え、」
「黒子っち、行くっスよ!」

ぼうっとしていた黒子の手を掴み、黄瀬はコートに向かった。ざわめいているギャラリーを抜け、コート内に入る。既にベンチに運ばれていた赤司は、濡れたタオルを額に乗せていた。それがじんわりと赤くなっているのを見て、黒子の顔が青ざめる。

「赤司っち、大丈夫なんスか」
「黄瀬か。黒子もいるんだろう?」
「……はい」
「試合には出さないよ。お前たち二人も、青峰も」
「おい……じゃあどうすんだってんだよ」
「オレが片付ける」

血が滲んだタオルを下ろし、赤司がゆっくりと起き上がる。何度か緩く頭を振ってから立ち上がると、制止しようとした桃井を鋭く睨んだ。

「オレのいうことは絶対だ。オレが出る」
「赤司君」
「黒子、お前までオレを止めようとするなよ?」

肩に載せられた手がひやりと熱を吸い取っていく。すれ違いざまに囁かれた言葉に、言いかけた文句をぐっと飲み込んだ。

『いい子だから』

コートに戻った赤司に、ちらちらと他のメンバーが視線を向ける。心配そうな視線にも片手を上げて応えただけで、赤司は人差し指を立てた。

「いいか、ここからは特攻だ。取ったボールは全てゴールに入れろ」
「は、はいっ!」
「よし。―――……残念だが」

メンバーがコート内に散ったのを見てから、赤司はゆっくりと振り返った。視線の先には、さっき赤司に対してラフプレーを行なった相手チームのキャプテンがいた。自分より20cm近くも身長の低い赤司に睨まれ、冷や汗が流れる。バスケットプレイヤーとしては華奢だし、ジャンプ力が取り立ててあるわけではない。正直さっきまでは、彼がキセキの世代のキャプテンだと言う話も半信半疑だったくらいだ。
それなのに、今ここにいる男は何だ。影が長い蛇になって巻き付いてくるように、じわりじわりと追い詰められていく。

「お前達がオレに勝つことは、有り得ない」
「なっ……」
「今のスコアが89-87か。それなら134-94でいいだろう」
「お前、何いって……」

ピーッと言う笛の音に振り向くと、ちょうど帝光側のシュートが決まったところだった。赤司の指示が入ってからチームの士気が段違いに変わり、全てのシュートがゴールに吸い取られていく。二軍のメンバーで構成されているとは思えない猛攻で、あっという間にスコアは三桁を過ぎていた。

「……これで分かっただろう?」
「てめ……っ」
「お前達が勝つことは、有り得ない」

ブザービーターで試合が終わり、その瞬間に入ったゴールによってスコアは134を記録していた。対する相手校は第4クォーターに入ってからの失速により、94点で留まっていた。
赤司の予言どおりのスコアに、相手チームのキャプテンがコートに膝をつく。それを冷ややかな視線で見てから、赤司はベンチへ戻った。

「赤司っち! 大丈夫っスか」
「黄瀬、大袈裟に騒ぎすぎだ。問題ない」
「赤司君、病院に行ってください」
「黒子もか。うちのレギュラーは心配性な奴が多いな」

ベンチに置いていたジャージを肩に掛け、先に帰ると言い残して赤司は会場を後にした。その背中を追いかけ、廊下で赤司の名前を呼ぶ。ゆっくりと振り向いた顔は、口元に笑みを浮かべてはいるが、その形を象っているだけで笑っているわけではなかった。

「……赤司君」
「黒子か」
「どうしてメンバーを変えなかったんですか」
「理由は知っているだろう?」
「………」

赤い目が黒子をじっと見つめ、口元に弧を描く。黒子の傍まで歩いてくると、赤司は耳に口を寄せて小さく囁いた。

「――――」
「……あか、」
「じゃあな。もう追いかけてくるなよ」

呼びかけた名前は中途半端にぶら下がり、黒子は赤司を見送ることしか出来なかった。控え室に戻ると、黄瀬と青峰荷物をまとめて待っていた。緑間と紫原は病院の手配をして、赤司を連れて行くために先に出たらしい。

「おい、大丈夫かよ」
「意識もはっきりしていたので大丈夫だと思います」
「バァカ。赤司じゃなくてお前だよ」
「ボクは大丈夫ですよ」
「そーゆー顔には見えないスけど」
「……平気です」

青峰と黄瀬に頷き、黒子も自分の荷物を肩に掛ける。ずっしりと重みを伝えてくる荷物に、先ほど赤司に言われた一言が頭を回る。三人で長い廊下を歩きながら、二人の背中を見た。
二人は気付いているのだろうか、赤司の異常性に。

「黄瀬、青峰」
「あ? 赤司? まぁだ病院行ってなかったのか」
「これから行くよ。緑間と紫原がやかましくてね。タクシーが狭そうだ」
「どっちか降ろせばいいじゃないっスか」
「桃井がそれじゃ駄目だと言うんだ。オレはどれだけ信用がないんだろうな」

軽く肩を竦めた赤司が荷物を受け取って背中を見せる。静かに遠ざかる背中を見てから、一つ息を吐いた。

「赤司っちって掴みどころないっスよねぇ」
「何だよいきなり」
「何ていうか、雲みたいな」
「雲だぁ? 何変なこといってんだよ」
「物の例えっスよ!」

ぎゃいぎゃいと騒がしくしている二人の後ろで、黄瀬の言葉が頭を回る。

―――くもみたいな人だと思った。

それは黒子が赤司に対して持っている感想と同じだ。
しかし、根底の意味が違う。

蜘蛛みたいだと、そう思ったのだ。

知らないうちに透明な糸で絡め取られ、意のままに操られる。赤司はそれがとても上手い人間だった。

『オレのものに傷をつけられるのは、困るんだ』

耳元で囁かれた一言に背筋を冷たいものが流れる。メンバーを心配して、とか自己犠牲とかではなく純粋に自分のものが傷つけられるのは嫌だという我侭だ。
赤司にとって、自分達は所詮子供の玩具みたいなものかもしれない。
子供は赤司だ。壊すも遊ぶも、彼の手に握られている。

「テツ?」
「黒子っち? バス出ちゃうっスよ」
「あ、はい」

いつか断ち切らなくては。
糸を失った操り人形は崩れ落ちることしか出来ない。しかしいつまでも彼の糸に縋っているわけにも行かないのだ。

「……ボクは人形じゃないです」

一人小さく呟き、黒子は二人の背中を追いかけた。



20120719
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