とあるココアさんとコーラ君の話


―――あ、今日も来た。

黄瀬はホーム上のベンチで伸ばしていた足を引っ込めて立ち上がった。ポケットの中にはあらかじめ忍ばせてあった120円。ちゃりちゃりと音を立てるそれをわざとゆっくり取り出し、目の前の自動販売機に入れる。
ピッといつものボタンを押し、出てくる缶を取り出す。振り向いて、すれ違う人物を目で追った。
黄瀬に続いて自動販売機に小銭を入れた彼もまた、いつもと同じボタンを押して出てきた缶を取り出す。黄瀬のものと違って熱い液体の入っているそれを袖越しに包み、白い息を吐き出していた。
次の電車が来るまでの五分間で飲み干して電車に乗る。反対方向に向かう電車の間にあるホームだけが、毎朝の楽しみだった。

彼のことで知っていることは少ない。

ちらりと見えた定期に書いてあった『クロコ』という苗字と、年上であること。毎日スーツを着ているから、たぶん社会人だ。
それと毎朝温かいココアを飲んでいること。それだけだ。
定期を見たときに下の名前までチェックしていなかったことが何度思い出しても悔やまれる。
それでも、毎朝すれ違う他人としては知っているほうなのかもしれない。黄瀬は深い溜め息を吐いて机に突っ伏した。

「朝から何なのだよ」
「あ、はよーっス緑間っち」
「どしたの、朝から潰れて。飲みすぎ?」

ぺしぺしと黄瀬の金髪を軽く叩いている高尾の手を払い、また一つ溜め息を吐いた。

「オレストーカーかも……」
「ああ。あの自販機の君?」
「まだ見ていたのか」

呆れながらいう緑間と高尾も席に着く。同じ大学に通う三人は、学部が同じ関係もあってよく一緒に授業を受けていた。
緑間と黄瀬は中学が同じだったし、高尾は高校で彼の同級生だったらしい。しかも三人ともバスケが趣味とあれば、仲良くなるのにそう時間は掛からなかった。

「で、どーすんの。もう冬だけど」
「……春夏秋冬……そろそろ怪しいやつだな」

ぽつりと呟いた緑間の声にがっくりと肩を落とす。確かに5月くらいに黒子を見かけて、それ以来彼の姿を探すようになっていたことは否定しない。顔が見れた日はテンションが上がるし、見れなければ風邪でも引いたのかと心配になる。
赤の他人というにはあまりにも気にしすぎているのは自覚している。
秋になったくらいから、彼は毎朝駅のホームで缶ジュースを買うようになった。並ぶ振りをしてちらりと手元を見ると、ホットココアがある。小さくて可愛らしい外見の彼らしいと考えながら、黄瀬は赤い炭酸飲料のボタンを押した。

「そんなに気になるなら声かけりゃいーのに」
「そんな簡単なことじゃないんスよー……」
「ふーん、変なとこ乙女だよな。黄瀬って」

たいした相談相手にもなってくれない二人に、黄瀬はまたがっくりと肩を落としていた。自分の手帳を見ていた緑間が、思い出したように口を開く。

「そういえば今日は仕事の日ではなかったか?」
「あ、うん。この授業終わったら出るっス」
「難儀だねぇ。二足のわらじってヤツ?」
「そんな大層なもんじゃないっス。ただのバイトだし」

ひょいと肩を竦める黄瀬に、そうかなぁと高尾は首を傾げる。現に今も、教室中のいたるところからちらちらと黄瀬に視線を送ってくる女子は絶えない。

「珍しいから見てるだけっスよ、あんなん」
「へーぇ。クールだねぇ」
「そのクールさを自販機の相手にも発揮したらどうだ」
「だからそれができたら苦労しないんだって!」

振り出しに戻った相談に突っ伏した瞬間、始業を告げるチャイムが響いていた。

「リョータくーん、雑誌見たよー!」
「あ、どもっスー! また次も見てねー」

駅に向かって走りながら掛けられた声に、ひらりと手を振って応える。モデルというバイトをしている関係上、こうして声をかけられることも多い。ファンサービスも仕事のうちと割り切っているが、正直声を掛けてくる女子の名前など覚えてはいなかった。

(大学の生徒なんて数万単位だし)

逆に言えば、それだけの人に知られているというのは幸運なのかもしれない。だがどうしても、静かに過ごす時間も欲しいと思ってしまうのだ。

(……あの人だったら、もしかして)

ふと脳裏に浮かんだ人物に淡い期待を寄せる。黄瀬の姿を見たことはあるだろうに、いつも無表情で隣を通り過ぎるその顔が好きだった。

(クロコ、さん)

唇の形だけで名前を呼んでみると予想以上に恥ずかしい。ぶわっと赤くなった顔を誤魔化すようにマフラーを巻きなおし、仕事場であるスタジオまで行く電車に乗り込んだ。

     ◆

冬の気温が突き刺さる中、黄瀬はコートの襟を掻き合わせた。この電車に乗り込んでしまえば、あとは地元まで一本だ。うとうとしかける瞼を無理やりこじ開け、電車の揺れに身を任せる。この仕事が嫌いじゃないし、どちらかというと見られるのも好きだ。それでも時々、どうしようもなく疲れてしまうのは仕方がない。

(最近、見てないし)

地元の一つ手前の駅で入り込んできた冷たい風に肩を震わせる。ここ最近、朝の日課となっていた彼の姿を見ていないことも、黄瀬のダメージの一つとなっていた。ふるふると頭を振って意識を覚醒させる。仕事が長引いてしまったが、明日も普通に学校があるのだ。家に帰って熱いシャワーを浴びて、さっさとベッドに入ってしまおう。
プシューという音と共に開いた電車の向かいでは、反対方向行きの電車も同時に到着していた。

『あ』

綺麗に声が重なった瞬間、しまったと思った。
あって何だよ、あって。ほら、変な顔してこっち見てるじゃん。
オレがあんたのこと知ってるって言っちゃったようなもので、でも、あれ? 今向こうも―――。

「コーラ君、ですよね。こんばんは」

黄瀬がぐるぐると考えている間に、ふっと笑った彼がぺこりと頭を下げる。
コーラ君? オレ? オレのこと? え、だって他にホームに人いないし。

「え、う、あ、あの」
「いつもコーラ買ってるから気になってたんです。良かったら少しお話しませんか」

そう言って自動販売機横のベンチに腰掛ける彼に、黄瀬はぱちぱちと瞬きをした。まさか彼の方から話しかけてくれるなんて。ふらふらとした足取りでベンチに腰かけ、冷たい指先をこすり合わせる。

「ちょっと待っててください」
「え、はい」

ピッという音に続いて聞きなれた音。それが二回繰り返されてから、彼は小さな声で「あ」と呟いた。

「どうぞ、コーラ君。ココアですみません、いつもの癖で押してしまいました」
「オレがコーラならあんたはココアさんっスね」

小さく笑いながら温かいココアを受け取る。ほんわりと指先を温めていくそれは、やっぱり彼に似ていた。黄瀬の言葉にきょとんと目を瞬いたあと、暫定ココアさんは小さく笑う。

「随分可愛らしい名前ですね。それでいいですよ」

ボクね、結構キミのこと見てましたよ。
彼の口から飛び出す話に、今度は黄瀬が目を瞬く番だった。てっきり自分だけが彼のことを見ているのかと思っていたのに、案外彼もこちらに気付いていたらしい。

「学生さん、ですよね。こんな時間までお仕事なんですか?」
「あ、うん。帝光大学っス。仕事は結構時間ばらばらで入ってて」
「大変ですね。ボクはこの沿線の会社に勤めているんです。まだ新人ですが」

そう言ってへらっと笑った顔に胸が苦しくなる。やっぱり彼の隣は居心地がいい。ゆっくり流れているような時間も温くなってしまったココアも、全部が柔らかく包んでくれている気がした。

「ココアさんはさ、何か趣味とかあんの?」
「趣味、というか学生時代はバスケをやっていました。今も時々集まったりしますよ」
「え、マジで? オレもバスケするする! ココアさん今度やろうよ!」
「キミの体格ならボクの友達とも張り合えそうです。身長いくつですか?」
「えーと、189、かな」
「……ボクも学生の間にそのくらいまで伸びる予定だったのですが」

おかしいです、と眉を寄せる表情に声を出して笑った。むーと不機嫌な色を滲ませる彼に空になったココアの缶を差し出す。黄瀬の意図を介して、コツンと缶をぶつけてきた。

「今度はコーラで乾杯しましょうか」
「それいいね、賛成」
「やっぱりコーラ君はコーラ君ですね」
「ココアさんだって」

二人で顔を見合わせて笑いあう。随分指先が冷えていることに気付き腕時計に目を落とすと、話し始めて30分が経とうとしていた。

「あ、そろそろ駅が閉まる時間ですね。出ましょうか」

すっとベンチを立った彼に何かいわなくてはと言葉を探す。すぐに出てこない役立たずの言葉たちにあうあうと口を開いたり閉じたりしていた。

「あ、あのっ」
「……?」
「ココアさん、名前なんていうの。オレは―――」

本当は彼の苗字を知っている。でも彼は自分の名前を知らない。もしかしたらモデルの自分を見て知っているかもしれないと思ったが、淡い期待に終わった。黄瀬がメインで露出している雑誌は女性向けのものが多いからそれも当たり前だ。
このままここで別れてしまったら、明日からまた毎朝コーラを買っている男になってしまう。
この時間がなかったことになってしまう。
毎日の時間の中で、今日の30分が希釈されてしまうことだけは何としても避けたかった。
そう思って立ち上がった黄瀬に、彼はふわりと笑ってみせた。

「秘密です」
「え……」

彼にとって、自分は毎日見かける学生の一人に過ぎなかったのか。
さっきまで話して、少しは彼の視界に入れたと思ってたのに。
しゅんと肩を落とした黄瀬に、更に言葉を重ねる。

「名前に縛られない友人なんて、素敵じゃないですか?」

続けられた言葉に黄瀬の思考が止まる。次の瞬間、ぐるぐると動き出す脳内にかぁっと顔が赤くなった。
友達? えっ 友達!? なの?! なってもらえたの!?
あわあわと中途半端に口を開けたままの黄瀬に、彼は眉を寄せて振り向いた。

「すみません、一方的でした。ボクと友達になってくれませんか? コーラ君」

そう言って差し出された右手と彼の顔を交互に見る。微かに傾げられた首に、小さく震える右手を上げる。自分より一回り小さな手を握り、ぱっと笑った。

「オレでよければ喜んで! 宜しくね、ココアっち」

寒空の下、到着する電車のないホームでできた少し変わった友達。
白い息を吐きながら、別々の出口への階段を下っていった。
空に瞬く星を見ながら明日からの通学に思いを馳せる。ココアっち、と小さく名前を呼んでくすぐったくなる胸にきゅっと目を閉じた。

20121227
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