とある先輩と新人君の話


「今日から新人が一人入ってくる。黒子、指導につけ」

朝のミーティングのあと呼び出した部長は、それだけを言ってばさりと資料を机に放った。ばらけた書類が封筒の口から覗いている。分かりました、とだけ返事をして封筒を受け取り、自分の席に戻る。
取り出した書類の一番上にあったのは、丁寧な字で書かれた履歴書だった。
黄瀬涼太。帝光大学経済学部卒業。就職経験はないが、年末の中途半端な時期の入社。経歴を見る限り特に変わったところもないし、昨今の就職難に巻き込まれていたのかもしれない。しかし趣味のところに堂々とカラオケと書くのはどうなのか。そしてそれを採用するうちの人事もどうなんだ。つきりと痛んだこめかみを押さえ、黒子は腕時計に視線を落とした。

「それじゃ、行ってきます」

総務部の他の面々に声を掛け、社員手帳や資料を携えて席を立つ。会社の総合受付に向かう途中、手に持った書類のことを思い出していた。顔が綺麗な後輩には、一つ言い聞かせておかないといけないことがある。
滑らかに開いた自動ドアの向こうで、ぴっと背筋を正して立っている青年がいる。目の前で足を止め、小さく頭を下げた。

「キミの指導に当たります。黒子テツヤです。宜しくお願いします」
「今日からお世話になります、黄瀬涼太です。よろしくお願いします!」

がばっと頭を下げた彼は、緊張しているのかまだ固い。最初からリラックスされてもそれはそれで問題だ、と考えて会議室へ促した。

「もう聞いていると思いますが、キミが配属されるのは総務部です。ボクが指導係になります」

黄瀬君の担当は庶務課です。ボクも同じ課ですから、何か分からないことがあれば遠慮なく聞いてください。
机の上に書類を広げ、淡々と説明を続けていく。黄瀬は小さく頷きながら、熱心にメモを取っていた。
態度は上々、問題はなさそうです。
規定などが書かれた社員手帳を渡し、社内を案内する。ぐるりと社内を回って、主だった部には黄瀬を紹介する。総務という関係上、他の部との交流も多いのだ。

「食堂は社員であれば割引価格で利用できます。社員証がIDカードになってますから……使い方は追って説明しますね」
「了解っス!」

言葉遣い、減点1。
すっと眇めた視線に気付いたのか、黄瀬は苦笑して「すみませんでした」と小さく呟いた。

「それと、最後に。キミはいかにも女性を惹きつけそうな感じなので言っておきます。社内恋愛は、禁止です」

言い聞かせるようにわざと言葉を切って告げる。ぱちぱちと目を瞬いた黄瀬は、こてんと首を傾げていた。

「以上です。何か質問はありますか?」

自分よりも頭一つ分高い場所にある顔を見上げる。くそ、最近の若者はどうしてこんなに大きいんだ。
黒子の問い掛けに対し、黄瀬はぎゅっと唇を引き結んだ。何か聞きたいことでもあるのかと待っていると、小さな声が聞こえた。

「……こ」
「こ?」
「こ、恋人はいますか」
「……は?」
「だから、付き合ってる人! いるっスか?」
「あの……それが質問ですか?」

まさかそんなことを聞かれるとは。プライバシーの侵害だが、目の前の黄瀬は思った以上に真剣な顔をしている。気圧されて、ぽろりと口が滑った。

「はぁ……いませんけど。それが業務と何か……」
「そっか! よかった! オレ頑張るっス!」
「はぁ……」

先ほどと同じ間の抜けた返事をしながら、一気にテンションの上がった黄瀬を眺める。
何がいいものか。馬鹿にされているのだろうか?
ちょっとくらい見目がいいからと調子に乗っているのかもしれない。この様子なら、学生時代はさぞかしモテたことだろう。

「あの、注意事項ちゃんと……」
「わかってるわかってる! 社内恋愛禁止でしょ? 余裕っス!」

分かってますか、という確認の言葉は綺麗にスルーされた。本当に分かっているのか、黄瀬は上機嫌でくるりと振り向く。

「さ、事務手続きあるんスよね? 行こ、黒子っち先輩」
「……?」

は、と口を開けたところで黄瀬の言葉に思考が止まる。
『黒子っち』先輩?
自分の名前は黒子だ。断じて黒子っちなんてふざけた名前じゃない。

「あの、その呼び方はちょっと」
「あ、気にしないで! オレ、好きな相手はそうやって呼ぶんス」
「いえ、ですから」
「あ、緑間ブチョーが呼んでる! ホラホラ!早く」

黒子の背中をぐいぐいと押し、質問も一緒に押し流す。黒子に対する黄瀬の呼び方に最初は眉を寄せていた緑間も、そのうち気にならなくなったのか何も言わなくなった。黒子としてはもっと厳重に注意してもらいたいところだが、彼は木彫りの猫についた埃を熱心に払っている。
大体何ですか、木彫りの猫って。普通熊でしょう。激流から鮭を取る猫なんて怖すぎるじゃないですか。
むかむかした気持ちを彼のラッキーアイテムに向け、黒子は自分の椅子を引いた。

「……怒ってるんスか?」
「いえ、構いません。あとで食堂の説明をしますから、昼休みは空けておいてください」
「了解っス!」

ぱっと笑った顔にうっかりその呼び名を許しそうになってしまう。またも上機嫌になった黄瀬にこてんと首を傾げながら、黒子も山となった書類の一つに手を伸ばした。
黄瀬が配属されて一週間たった頃、黒子ははてと首を傾げていた。目の前でパソコンのキーボードを打っていた黄瀬は、手を止めて黒子を見上げる。

「どうしたんスか?」
「いえ、不思議だなぁと思って」
「何がっスか?」

黒子と同じ方向に首を傾げる黄瀬の手元を覗き込む。一時間ほど前に頼んだ書類は、綺麗に完成していた。

「黄瀬君は仕事が早いですね。ミスもありませんし……」

ぱらりと捲ってみてもミスが見当たらない。時々小さなミスはあるが、可愛いものだ。これならもう少し任せても大丈夫かなぁと考えていると、黄瀬がぱっと顔を輝かせた。

「マジっスか!? やった、黒子っち先輩に褒められた」

椅子に座ったまま小さくガッツポーズをしている黄瀬に、あーあ、という感想を持った。
これはなかなか厄介です。ほら、反対側にいる人事の女性、こっち見てるじゃないですか。
そんな他部門からの視線に全く気付いていない黄瀬は幻覚の尻尾をパタパタと振って黒子を見上げている。ひょいと肩を竦めて追加の書類を机に置いた。

「そんな優秀な黄瀬君にご褒美です。これ、15時前までに終わったらアイスを奢ってあげましょう」
「……マーゲンダッツ?」
「それも、新作です」

神妙な顔でこくりと頷く。それを聴いた瞬間一気に真剣な顔になった黄瀬は、ばっとパソコンに向き直った。ダカダカとキーボードを打つ音が総務部内に響く。カチリと長針を進めた時計を見て、少し楽しい気持ちになっていた。

(それにしても、どうして4月に入社しなかったのでしょう)

手元の書類とパソコンの画面を見比べている黄瀬を横目で見る。これだけ優秀だったら、就職活動中もうまく立ち回っていたに違いない。自分の後輩が優秀だという安心感と同時に、決して大企業とはいえない自社に入ったことを疑問に思う。

(いつか聞いてみましょうか)

温くなったコーヒーを喉に流し込み、空の紙コップをゴミ箱に捨てた。
さて、ご褒美のアイスクリームまであと15分です。頑張ってくださいね、後輩君。

     ◆

黄瀬という人物は少し不思議なところがあった。友達は多いようなのに私生活が見えない。黄瀬の歓迎会を兼ねた総務部全体の飲み会で、黒子は一番端に座って彼を観察していた。
総務部の飲み会だと言うのに何故か先日の人事のお姉さま方が混ざっている。部長である緑間が何も言わないのはおそらく隣にあるぬいぐるみが原因だろう。決して可愛いとは言えないそれを後生大事に持っているさまは、一種異様と言わざるを得ない。

「部長、それは……」
「愚問だな、今日のラッキーアイテムなのだよ」

くいっと眼鏡を上げて返事をする緑間に溜め息を零す。仕事に関しては有能なのに、別の意味でも有名なのはこの変な癖のせいだ。しかも酒に弱いのか既に出来上がっている。黒子は自分のグラスをそっと引き寄せ、人事のお姉さま方に囲まれている黄瀬に視線を移した。
変なぬいぐるみで買収された部長と、可哀想な人身御供。
生ビールの泡をちびりと舐め、黒子は心の中で黄瀬に対して合掌した。

「つ、疲れたっス……!」
「お疲れ様です」
「うわっ! く、黒子っち……セン、パイ」
「……あの方たちは大変だったでしょう? うわばみですからね」

ボクも昔洗礼を受けました、と緩く首を振ってお冷を渡す。ほっと息を漏らしてグラスに口をつけた黄瀬は、ほんのりと頬を赤くしている。

「失敗したなぁ、聞かれるとは思ってなかったっス」
「さっきのですか?」
「だって折角オレと話したいって思ってくれてた人にそんなこと言っちゃ、失礼じゃないっスか」
「……それに付き合うとああなりますけどね」

黄瀬より数ヶ月早く入っていた同年代の桜井は既に机に突っ伏している。人事の新人君まで引っ張ってきて殊勝なことだ。もはやこの飲み会の主旨は忘年会に変わってるんじゃないかと考えていた。

「でもまぁ、キミが潰れていなくて安心しました」
「何かあるんスか?」
「先輩からのお祝いです。キミは予想以上に頑張っていましたから」
「えっ、ホント?」
「はい。もう少しでお開きですから、そのあと少しいいですか?」

こくこくと何度も頷く黄瀬にふわりと笑う。やけに上機嫌な緑間に耳打ちし、締めの挨拶を貰う。

「……それでは、来年も宜しく。お疲れ様でした」

やっぱり忘年会じゃないか、と肩を竦めてコートを手に取った。ばらばらと駅に向かう同僚を見送り、最後に残った黄瀬に振り向く。

「……すみません、遅くなってしまいましたね。黄瀬君は家遠いんでしたっけ」
「ここから一時間くらいっス。あー……でも終電危ないかな……」
「神奈川でしたよね。……もしよければ、ですけど」

ぽつりと前置きしてから言葉を続ける。腕時計を見ていた黄瀬がこちらを見た。

「明日お休みですし、予定がなければボクの家泊まりますか?」

そう言って黄瀬の顔を見上げ、どうでしょう、と締めくくる。

「いいんスか? そうさせてもらえたら助かるっスけど……」
「ボクが無理に誘うようなものですし。あ、無理だったら全然」
「行きたいっス! 黒子っちの部屋!」
「……ボクの家はどうでもいいですけど」

黄瀬の勢いに負け小さく頷いた黒子の脳裏に、ぼんやりと一つの考えが浮かんでいた。

(ついに先輩もなくなりましたか)

ふう、と小さな溜め息を転がし、道路の先で待っている黄瀬の元へと足を進めていった。黒子の案内で着いたのは、小さな和風料理屋だった。個人で経営しているようで、小ぢんまりとした店内は品の良い調度品で統一されていた。こんな店ならさぞかし高いのだろうと黒子の顔色を窺うと、彼はすたすたと店の奥へと進んでいった。

「く、黒子っち……オレ持ち合わせそんなにないっスけど……」
「キミに払わせるわけないじゃないですか。大丈夫です、知り合いがやってる店なので」

すっと引き戸を開けて黄瀬を促す。恐る恐る覗き込んだ先で、赤毛の店主はくるりと振り向いた。

「久しぶりだね、テツヤ」
「お久しぶりです、赤司君」
「ちょうど客も引いたところだから良かった。それが例の新人君かい?」

柔和な微笑みを浮かべている店主に会釈をする。勧められるまま椅子に腰掛け、差し出されたお茶を受け取った。赤司と呼ばれた店主は、着物をきっちりと着込んでいた。年は黒子と同じくらいか、もしかしたら少し年上かもしれない。顔つきは若いのにまとっている空気がとても落ち着いている。

「赤司君は大学の同級生なんです。サークルが同じだったので」
「サークル?」
「バスケットボールだよ。最近はあまりやっていないが」

そう言って黄瀬の前に小鉢を置く。中には綺麗に盛り付けられたおひたしが入っていた。隣の黒子からも進められ、箸を持って両手を合わせる。

「……うわ、オレこんなの食べたの初めてっス……!」
「おいしいかい?」
「すっごいうまいっス!」

ぱっと顔を上げた黄瀬に、赤司も驚いたように瞬く。そしてふっと唇を緩ませてから黒子の方を向いた。

「これは可愛がる気持ちも分かるな」
「……そんなんじゃありませんよ」
「テツヤは犬が好きだったからな」

くくっと笑って次の皿を黄瀬の前に出す。それにもおいしいおいしいと感想を述べて、黄瀬はほわりと表情を綻ばせていた。最後に特製だという湯豆腐を二人で食べ、ほろ酔いで店を後にする。財布を取り出した黒子に『僕からのお祝いだ』と手を振った赤司に揃って頭を下げた。

「すっごいうまかったっス! あーマジで感動してる」
「それは良かったです。結局赤司君にお祝いしてもらいましたけど」
「連れてってもらっただけで嬉しいんスよ!」

ぶんぶんと頭と手を同時に振る黄瀬に思わず笑いが漏れた。恥ずかしそうに顔を赤くした黄瀬とタクシーに乗り込む。住所を告げて背もたれに寄りかかると、ぼんやりと瞼が重くなってきた。

「……明日休みでよかったですね」

ずるずると互いに寄り添う形になりながら、ゆっくりと瞼を閉じる。そうして黄瀬と過ごす時間はだんだんと増えていった。

一ヶ月目で黒子の家に泊まりに来るようになった。
二ヶ月目には黄瀬の家に泊まりに行くようになった。
三ヶ月になる前には、休みのどちらかを一緒に過ごしていることのほうが多くなっていた。

どうしてだろう、彼の隣はどうにも居心地が良くていけない。
その日もまたお互いにごろごろして適当な話をして、適当に時間を潰す。決して有意義とは言えない時間が自分にとって何よりも大切なものになっていることに、黒子はわざと気付かないようにしていた。

「黒子っち! 今日飲みに行かないっスか!」

帰ろうと席を立ったところで黄瀬に話しかけられる。時計を見ればまだ18時前だ。小さく頷き、カバンを手に取った。

「黄瀬君もうちの会社に来てそろそろ三ヶ月ですね。慣れましたか?」
「ばっちり! とはまだ言えないんスけどね。でも黒子っちいるし、他の人も優しいし」
「ボクからしたらばっちりといっても良さそうなものですが」
「え、えっ! 黒子っちのお墨付き!? やべーそれは嬉しいかも」
「調子に乗るな、です」

腕を伸ばして反対側に座っている黄瀬にデコピンをする。大して痛くないそれに、うっと小さく呻き、また表情を崩す。

「そういえば、どうして黄瀬君はあんな中途半端な次期に入社したんですか?」

今更な疑問だが、今まで聞く機会のなかった質問をする。ぱちくりと目を瞬いたあと、黄瀬はテーブルの上で汗を掻いているグラスを一撫でした。
つつっと集合した雫が重力に従ってコースターに吸い込まれていく。じっとそれを見つめながら、黄瀬はポツリと唇を開いた。

「オレ、夢があったんスよ」
「夢?」
「馬鹿みたいにそれに突っ走って、就職活動もろくにしないで。でも周りがどんどん決まって先に行くの見てたら、オレこのまま取り残されるんじゃないかって怖くなって」
「………」
「で、結局諦めて必死で就職活動して、ここに入ったんス」

濡れた指先を見ながら静かな声で語る。きゅっと手を握りこんで苦笑した。

「カッコ悪いよね、オレ。中途半端で何にもできなくて、今も昔も変わってないんスよ」
「そうですね」
「はは、黒子っち辛辣!」
「本当の事を言ったまでです。無理やり自分を否定するなんて、キミらしくない。本当に諦めがつくまでやり切ったらいいじゃないですか。……会って三ヶ月のボクが言っていいことじゃないですね。すみません……」

話している途中からどれだけ偉そうなことを言っているのかと肩を落とす。黄瀬がどれだけその夢に真剣に向き合っていたかも知らないで、こんなことを言うのは失礼極まりない。しゅんと肩を落とした黒子に、ふわりと笑って見せた。
テーブルの上に投げ出されていた指先に軽く触れ、きゅっと握る。はっとして顔を上げると、黄瀬の長い睫の先に光るものがあった。

「……ありがと、黒子っち」
「い、いえ……」
「そろそろ帰ろっか。泊まっていくでしょ?」

すっと立ち上がった黄瀬に、先ほどの涙は幻だったのかもしれないとぼんやり考える。そのまま二人で並んで、黄瀬の家までを辿った。道路の両側に並んだ桜の街路樹を見上げたが、まだ咲く兆しは見えていない。

「ここの桜、すげぇ綺麗なんスよ。黒子っちと見たかったなぁ」

ふとそんな風に呟いた彼に、今日がこうして並んで歩くのが最後なのだと分かってしまった。ぎゅっと拳を握り締めて街灯と街灯の間で強く目を瞑った。一粒だけ零れた涙は、黄瀬に見られることもなく黒いアスファルトに吸い込まれていった。
もう何度も来た黄瀬の家に上がり、パチンと電気をつける。勝手知ったる他人の家とはよく言ったもので、この日もいつも借りている布団を取り出そうとクローゼットの扉に手を掛けた。

「あ、待って黒子っち」
「黄瀬君?」
「きょ、今日だけでいいんスけど……あの、」
「どうしたんですか?」

彼にしては珍しく言葉をにごらせる様子に、不思議に思って目の前に座ってみる。下から見上げてみれば、黄瀬はかぁっと頬を赤くしたあとに黒子の髪に手を伸ばした。

「今日だけ、黒子っちのことぎゅってしながら寝たい」
「……はぁ」

黒子の間の抜けた返事に、黄瀬は自分の言葉の恥ずかしさに両手をぶんぶんと振った。
やっぱなし、今の聞かなかったことにして! と早口で告げる黄瀬の頭にぽんと手を置く。そのままくしゃくしゃと掻き回して、黄瀬に視線を合わせた。

「いいですよ」
「ほ、ホント?」
「はい。お邪魔しますね」

こつんと額をぶつけ合い、一緒のベッドに潜り込む。恐る恐るといったように身体に回される腕に小さく笑った。背後から抱きしめられる形で腕を回され、ぎゅっと抱きしめられる。肩に触れる黄瀬の髪の毛が、まだ少し濡れていてくすぐったい。逃げようと身じろぎしたところで、小さな囁きが聞こえた。

「……ありがとう。オレ、頑張れそう」
「………」
「黒子っち、寝ちゃった?」
「………」
「……寝ちゃったんスか」

きゅ、と腹のあたりで手を組まれる。背中全体が黄瀬に包まれていて温かい。
自分はずるい人間だ。
黄瀬だって、黒子が起きていることには気付いているに違いない。それでも黒子は返事をしなかった。自分の胸の中をぐるぐる回っているこの感情が吐露してしまうことが怖かった。

―――傍にいたい。応援したい。

相反する気持ちを追い出す代わりにぎゅっと目を閉じ、ほんわりと包んでくれている体温に身を任せた。
次の月曜日、黒子が出勤すると黄瀬が緑間に頭を下げている光景が目に入った。緑間の手には、真っ白な封筒が握られている。中身の便箋は机の上に広げられていて、それを見た緑間は深い溜め息を吐いた。

「分かった。言っても聞かないのだろう?」
「すみません、この忙しい時期に」
「そう思うのなら少しは譲歩してほしいものだが?」
「へへ、それはちょっと」
「まったく、身勝手な部下を持つと苦労するのだよ」

中指で眼鏡のブリッジを押し上げてから立ち上がる。すっと差し出された右手に目を瞬いてから握手を交わした。わあわあと質問攻めにあっている黄瀬を遠くから見つめ、フロアの奥に設置された自動販売機に寄りかかる。ポケットに入っていた小銭を入れて適当なボタンを押し、プルトップを引いた。

「あ、黒子っち! いた!」
「黄瀬君」
「もー、さっき話そうと思ったのに黒子っちすぐいなくなるんスから!」
「……決めたんですか?」
「思い立ったが吉日って言うしね」
「頑張ってください、応援してます」
「相変わらずクールって……黒子っち」

さっきまで文句を言っていた黄瀬が、柔らかく表情を崩した。どうして、自分の頬に彼の手が触れているのだろう。笑うなんて簡単なことじゃないか。ほら、もう少し口角に力を入れて、上げればいいだけだ。
分かっているのにうまく笑うことができない。
顔を下げて、声だけは明るく告げた。

「短い間でしたけど、キミと過ごした時間、楽しかったです。寂しくなります」
「うん、オレも」
「え、黄瀬く……」

ちゅ、と小さなリップ音が響いた。両頬を包む大きな手のひらと、目の前に広がる綺麗な顔。それからさっき一瞬だけ触れた、彼の。

「ありがとう。オレ、黒子っちに離れても見つけてもらえるように頑張る。そんで、黒子っちにカッコいいって言ってもらえるように頑張るから。待ってて」
「た、大層な自信家ですね……」
「そうだよ、オレ自信家なの。知らなかった?」
「嫌ってくらい知ってます」
「失礼っスね……そこまでじゃないっスよ。……だから、泣かないで待ってて」
「……泣いてません」

ぐっと黄瀬の身体を押し返して真正面から見上げる。姿勢を正した黒子につられ、黄瀬も背中を伸ばした。

「言っときますけど、ボクの審査はなかなか厳しいですよ」
「望むところっス!」
「それじゃあ、頑張ってください。黄瀬君」

今度はちゃんと笑うことができた。黒子の笑顔に黄瀬もくしゃりと笑う。差し出された右手をぎゅっと握り、それ以上のことは何も話さなかった。
次の週にはがらんとなった机に少しの寂しさが宿る。だがきっとそこにも、他の人間がすぐに座るのだろう。ばたばたと過ぎていく毎日の中で、いつか綺麗な思い出となっていくのかもしれない。
それはそれでいいかもしれないと考え、黒子は仕事に没頭するようになっていった。



「ついに副部長とは。さすが僕の同級生だ」
「……赤司君、それは褒め言葉じゃありません」
「はは、そう怒るな。今日はお前のお祝いなんだから」

そう言って目の前に出された椀に口を噤む。鯛のつみれを具とした澄まし汁は、柚子の香りがとてもよくあっていた。

「相変わらずおいしいです」
「それはどうも」

その隣に置かれた緑茶を啜り、一つ息を吐いた。あれから二年経った。黄瀬と同期だった桜井も、後輩ができて随分変わったように思える。緑間のラッキーアイテム癖もいつものことだが、あれはもう慣れた。

「……テツヤ、少し休んだらどうだ」
「そう、ですね。そうします」

日本酒のせいだけじゃない疲れにゆるりと目を伏せる。この二年間、仕事に没頭していたから少し疲れているのかもしれない。幸い明日からは三連休があるから、何の予定も入れずにゆっくり寝てしまおう。午後に起きて散歩に行くのもいいかもしれない。ちょうど桜も見頃かもしれないし、と考えたところでふっと寂しい風が吹いた。
それを頭を振ることで追い出し、黒子は席を立った。乗り込んだタクシーで自宅に帰り、そのままベッドに潜り込む。すぐに重くなった瞼に黒子は意識を手放した。

次の日、目覚ましも何もつけていない起床にぐっと体を伸ばす。昨日よりだいぶ軽くなった身体に熱いシャワーを叩きつけて目を覚まさせる。カーテンを開けると、太陽は既に天辺に昇っていた。

「……いい天気ですね」

本当は寝て過ごそうと思っていたが、こんなにいい天気ならもったいない。手早く着替えを済ませ、黒子は玄関を後にした。特にどこか目的があったわけではない。適当に山手線に揺られ、ぼんやりと窓の外を眺める。だがふと視界の端に映った色に、慌てて電車を降りた。
ホームに下りた瞬間、どっと押し寄せてくる人の濁流に流される。改札を出てからも人の流れがうねりのようで、ここで降りたのは失敗だったかもしれないとちらりと思った。
しかし目的地でもある交差点に着き、視線を上げる。

―――やっぱり。

あの色を見間違えるはずがない。
あんなに綺麗できらきらしていて眩しい金色を、ボクは彼以外に知らないんです。

じわりと目に涙が浮かんだ。これが彼の夢だったのだと直感で分かった。ふらりと入った本屋でも、雑誌のすべてに彼の顔があってどれを手に取ればいいのか判らなくなる。一番手近にあったものをぱらりと捲ると二年前から海外を拠点として活躍していたモデルが、このたび日本に拠点を移したという話で持ちきりだった。
誌面に踊る黄瀬の名前にぎゅっと心臓が掴まれたような気持ちになる。見かけた本屋で一冊ずつ雑誌を買い、帰ろうと思ったときには両手にずっしりと紙袋がぶら下がっていた。
それをもう一度持ち直そうとしたところで、重さに耐え切れなかった紐がぶつりと切れる。ばさばさと道路に散らばった雑誌を慌てて拾っていると、他の手が伸びてきた。

「あ、ありがとうございま……」
「久しぶり」

お礼の言葉が途中で切れ、代わりに大粒の涙が浮かんでくる。ほろりと頬を伝った涙を隠すように腕を上げ、雑誌をぎゅっと抱きしめた。

「ね、オレのこと見つけてくれた? カッコいいって思った?」
「ば、ばかじゃないですか」
「うん、オレばかだから言ってもらわなきゃ分かんないの」

黒子の持っていた雑誌を引き取り、上げていた腕を下ろさせる。涙で濡れた目が露わになって恥ずかしい。きゅっと唇を引き結び、高飛車に言い放つ。

「……言ったはずですよ、ボクの審査は厳しいって」
「黒子っち先輩の評価が聞きたいんスよ」
「……合格です。カッコいいですよ、黄瀬君」

そして黄瀬の頬を両手で挟み、鼻先にキスを落とす。ばさりと彼が落としてしまった雑誌は、彼自身に弁償させることにしよう。ゴホンと一つ咳払いをして、黄瀬は背筋を正した。それから黒子の手をそっと握り、ブルーグレイの瞳を覗き込む。

「ねぇ、黒子っち先輩。オレと社外レンアイ、しませんか」
「……望むところです」

そうして二人で小さく笑いあった。
幸いにも明日は休日。キミの家の近くに桜を見にいくのもいいかもしれません。
ああでもその前に、雑誌のキミを弁償してもらわないと。

「……雑誌の自分に嫉妬なんかしないでくださいよ?」
「それは分かんないっス。オレ黒子っちのこと大好きだから」

二年経って色々と強力になった黄瀬の背中にパンチを一つ。

痛い、なんて文句を言っている後輩君にはまだまだ教育的指導が必要なようです。

20121226
[*前] | [次#]

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -