「すんませんっス、笠松先輩」
図書室で大学の資料を見比べていた笠松は、深い溜め息を吐いた。黄瀬の後ろでびくりと肩を跳ねさせた黒子は、さっと彼の影に隠れるようにして身を縮めていた。
黒子が記憶をなくして一週間がたった。最初の三日は学校を休んでいたが、あまり長い間休んでもいられない。担任に事情を話し、課題を提出することで出席扱いにしてもらえるよう頼み込んだ際に、笠松に口ぞえを頼んだ。
「そこの透明少年、まだ記憶戻んねぇのか」
「はぁ……」
「で、勉強のほうは」
「な、何とか?」
へらっと笑う黄瀬に、笠松のこめかみに青筋が走った。げしっと黄瀬の座っている椅子の足を蹴り、深い溜め息を吐く。
「まぁいい。受験勉強も落ち着いたからな。一年時のノート貸してやるよ」
「マジで!? やーりぃ! さすが笠松先輩っス!」
「言っとくが、お前に貸すんじゃないからな。透明少年にだ」
「笠松先輩推薦っスもんね。期待してるっス」
話を全く聞いていないエースを無視し、黒子に向き直る。まだびくびくと怯えている黒子の頭に手を載せ、ぽんぽんと軽く叩いた。
「記憶喪失なんて不安だろうが、黄瀬もついてるし思う存分こき使ってやれ」
あいつ、パシられると喜ぶタチだから。
真顔で続けた冗談にぱちくりと目を瞬いたあと、小さく噴出す。横からはひどいっスよー、と己の不運を嘆く声が聞こえてきた。図書室をあとにする笠松を見送り、再び黄瀬は腰を下ろす。
この一週間、黄瀬は黒子の隣でずっと考えていた。ずっと黄瀬にぴったりとくっついている黒子は、不安なのか片時も彼から離れようとしなかった。少し席を立つだけで不安げな顔になり、戻ってくるときゅっと抱きついてくる。中学の頃からずっと彼に思慕を寄せていた身としては、今の状況は好ましいことこの上ない。ベッドに入ってきて抱きつかれたときなんかは、神様ありがとうとさえ思ったほどだ。
しかしそう考えた次の瞬間に、現実を思い出してどん底に突き落とされる。
朝目が覚めるたび、黄瀬の姿を見つけて戸惑う黒子の瞳に、まだ記憶が戻っていないのだと確信する。
その一方で、ずっと記憶なんて戻らなければいいと考える自分もいた。
だってそうじゃないか。
人生何十年だか知らないけど、その中の一年分くらい記憶がなくたって結構やってけるんじゃないっスか?
わざわざ辛いこと思い出させてぼろぼろになるまで壊れて、そんな状態に戻すのが黒子っちのため?
灰崎のことを思い出さなければ、黒子は黄瀬の隣にずっといるだろう。いつかその依存が行為に変わって、自分の告白にも頷いてくれるかもしれない。手繋いだり、キスしたり、セックスしたり。そんなことが当たり前にできるかもしれない。
「黄瀬君?」
そろりと伸ばした手で黄瀬の腕を掴み、大きな目で見上げてくる。真っ直ぐな瞳にごくりと生唾を飲み込んだ。
「どうしたの、黒子っち」
「いえ、黄瀬君の様子がおかしいので……って、困らせているのはボクですよね、すみません」
視線を外した黒子の手をぎゅっと握る。はっとしてあげた顔に優しく笑った。
「オレは黒子っちのこと迷惑なんて思ったことないっスよ」
「………」
「はは、黒子っちは泣き虫っスね」
はらはらと零れる涙を拭ってやる。ずずっと鼻を啜った黒子の目にハンカチを押し当て、背中を撫でた。
「どうして黄瀬君はそんなに優しいんですか」
「理由必要っスか? 黒子っちのこと好きだからだよ」
「ボクも、黄瀬君が好きでした」
「なーんで過去形なの」
めっ、と黒子の鼻を人差し指でつつく。かぁっと顔を赤くした黒子に笑い、彼が借りたいといった本を抱えてカウンターに向かう。貸し出し手続きを取っている間に黄瀬を盗み見たが、彼はいつもと同じ表情で何を考えているのか分からなかった。
「黄瀬君、バスケしませんか」
「え? バスケ?」
「はい。空いている場所とかどこかありませんか?」
こてんと首を傾げている黒子に、内心黄瀬は焦っていた。ウィンターカップのあと海常バスケ部に入部したはいいものの、黒子はまだバスケができるほど回復してはいなかった。高校に入ってからもバスケ部に所属していたらしいが、プレイしていたわけではないという。裏返せば灰崎の所有物であったことの証拠で、それゆえに黄瀬は黒子をバスケから遠ざけていた。
「や、でもほら、まだ黒子っち本調子じゃないし」
「何を言ってるんですか。すでに怠けすぎてるようなものですよ」
「ほ、ほら。怪我したら一大事っスよ」
「そんな本気でやりませんよ。それに黄瀬君、海常のエースなんでしょう?」
じっと見上げてきた黒子に折れて肩を竦めた。あまり使われていない第三体育館に向かい、体育倉庫からバスケットボールを取り出す。バスケ部の面々はバスケ部専用となっている第一体育館だし、まだ新入生もいない今の時期なら見咎められることもない。ブレザーを脱いでステージに置き、シャツのボタンを一つ二つ外した。
「黒子っちとワンオンワンするなんて思わなかったっスわ」
「……ボクもです」
にっと笑った黒子にどこか安心した。バスケをしているときは、彼は昔のままだ。中学校時代に肩を並べていたときと何も変わっていない。
ボールの音が響き、きゅっと上履きが鳴る。バッシュではないから少し滑りやすくなっている足に力を込め、黒子のパスを受け取った。それをゴールに叩き込んで振り向くと、既に肩で息をしている黒子が目に入った。慌てて彼のところに戻り、ふらついている身体を支える。
「黒子っち! 大丈夫っスか!?」
「あ、す、すみません。少しふらっとしてしまって」
「やっぱりまだ無理だったんスよ。ほら、部屋戻ろう?」
黒子の前にしゃがみこんで背中を向ける。嫌がる彼を半ば無理やり背負い、体育館を後にした。部屋の鍵を回して中に入り、黒子の身体をベッドに横たえる。冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、ベッドの横に座った。
「大丈夫? いきなり運動したからっスかね」
「……黄瀬君。本当にボクはバスケ部でしたか?」
横になりながら、じっとこちらを見てくる視線に心臓が跳ねた。目を眇めて黄瀬を見ている黒子は、黄瀬の嘘を見抜いているようだった。
はく、と一度口を開閉し、きゅっと噤む。
「さすがに自分の身体のことは分かります。ボクはこの一年間、ほとんどバスケをしていなかったんじゃないんですか?」
「く、黒子っちはバスケ部っス」
「……黄瀬君?」
「……黒子っち、記憶……取り戻したいっスか?」
いきなりの黄瀬の言葉に目を瞬く。
何を、言っているんですか? 取り戻したいに決まってるじゃないですか。
すぐにそう思ったのに、声が言葉にならない。からからに乾いて喉に張り付いた言葉を、ひとつひとつ剥がしていく。
「は、い……それは、もちろん」
「そうっスよね。うん、普通はそうだよね」
「黄瀬、くん?」
一人うんうんと納得している黄瀬に嫌な予感が背中を伝う。はぁ、と溜め息を吐き出した黄瀬が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に暗い色が宿っているのを見て、さっと顔が青ざめる。
「やめ、黄瀬君やめてください」
「黒子っち、オレのこと好きって言ったよね。じゃあこれも大丈夫でしょ?」
「それとこれとは……っ」
がしっと黒子の手首をまとめて頭上に固定し、巻いていたネクタイで一つに縛る。結び目をベッドヘッドに固定すれば、自由にならない体勢に黒子の顔が引きつった。
「やだ、嫌です黄瀬君、やめてください」
「黒子っち、知ってた? オレの好きって意味はこういうこと」
「う、あ……っ」
「黒子っちに触りたいし、キスしたいしセックスだってしたい。黒子っちのここの穴に突っ込んで、オレの全部出したい」
つつ、と服の上から股間を辿り、その奥にある孔をつつく。びくりと跳ねた身体は、かたかたと小さく震えていた。シャツのボタンを外して、白い肌に手を這わせる。執拗に乳首を弄ってやれば、色濃くなったそこはぷっくりと勃ってしまっていた。
「黒子っち、見て見て。乳首勃ってる」
「あ、あ、や……っ」
「おっぱい揉まれて感じてんの? 女の子みてぇ」
手のひらを広げて黒子の胸全体を包むように被せる。女の子の胸を揉むときと同じように動かしても、手に触れる肉は硬い。それでも黒子の呼吸はだんだん浅いものになっていった。
胸への愛撫は左手で続け、右手をベルトのバックルにかける。カチャリと響いた金属音に、黒子はジタバタと足をばたつかせた。膝をもってぐっと横に開かせると、身体の硬い彼は苦痛の表情を浮かべて大人しくなる。
「そうそう、そうやっていい子にしててねー」
「どう、して……」
「んー?」
「どうして、こんなこと」
「あれぇ。黒子っち泣いちゃった? やっべ、そういうのマジ興奮する」
ぺろりと黒子の頬を舐めてベルトを外す。そのままホックも外し、下着と一緒にずり下ろした。当たり前のように勃起していない性器をじろじろと無遠慮に見つめる。黄瀬の視線に恥ずかしくなった彼は、そっと膝同士をすり合わせた。
「ほら、ここ。ここにオレのこれ、入れるの」
「ひっ……! 無理、無理です黄瀬君」
「無理じゃないっスよ。ちゃあんと慣らすから」
つんつんと指先で黒子の奥をつついてみる。当たり前だがきゅっと閉じた入り口は全然開く気配を見せない。しかしそれでも、一週間前に見たメールが頭を過ぎり無茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。それを何とか受け流し、黄瀬は自分の指を口に含んだ。たっぷりと唾液を絡ませてから、人差し指を埋めていく。
「やだ、やだやだ! やめてください!」
「だーめ。あとが辛いの、嫌でしょ?」
「やだ、助けて……! 助けて、黄瀬君……!」
「……黒子っち?」
「やめてください……っ! おね、お願いです、きせくん、きせくん……」
ぼろぼろと大きな目から涙を零し、壊れたオルゴールみたいに黄瀬の名前を呼び続ける黒子に身体を起こした。入れていた指も抜いて、毛布を黒子の身体に掛ける。急いでネクタイも外したが、ほんのりと赤くなっている手首に罪悪感が募る。
「助けてください、黄瀬君……っ」
「黒子っち、オレはここっスよ」
「う、うぅー……ひ、っく……」
嗚咽を漏らしてぼろぼろと泣いている姿はまるで子供のようだ。毛布ごと抱きしめてやり、何度も自分を呼ぶ声にぎゅっと胸を締め付けられる。
「……黒子っち、何でオレ呼んだの?」
「……え……?」
「オレにひどいことされて無理やり触られてたのに、何でオレのこと呼んだの?」
「それ、は……」
うろうろと黒子の視線が泳ぐ。あえて彼に触れることはせず、じっと思い当たるまで待った。暫くしてぎゅっと自分の身体を抱きしめた彼は、再びぼろぼろと目から涙を零した。
「う、ああ、ああああ!!」
「く、黒子っち……」
「ああ、あ……う、ぐ……っ」
ベッドの上に突っ伏してしまった黒子にはっとして、急いで浴室まで運ぶ。各部屋にシャワーがついていてよかったと遠くで思う。ざぁっと流した温かいお湯の中で、黒子は吐瀉物をぶちまけた。
口をすすがせ、軽く流したあとで乾いたバスタオルで黒子の身体を包む。ひっく、としゃくりあげてはいるがだいぶ落ち着いたらしい黒子は、黄瀬に促されるままベッドに腰を下ろした。差し出された着替えにのろのろと腕を通し、ぽすりと横になる。
「………」
「……きせ、くん」
「ん? 何? 何か飲む?」
「いえ……黄瀬君は、知ってたんですよね」
じっと自分を見つめている瞳に一つ頷く。ほうと息を吐いて、黒子はベッドの上に置かれていた黄瀬の手に自分の手を重ねた。
「……黒子っち?」
「ボクはずっと君を呼んでいました。中学のときからずっと」
「……思い出したんスか?」
「……はい」
ゆるりと目を伏せた黒子に胸が痛くなる。何故何度も彼にこんな辛い思いをさせなくてはならないのだろう。そのどれか一つでも代わってあげられたらいいのに。
「……何を泣いてるんですか、黄瀬君は泣き虫ですね」
「……く、黒子っちー……」
「はいはい。ありがとうございます、黄瀬君」
「オレ、黒子っちが大好きなんスよ。本気で一番好き。大好き」
「ボクもです」
黄瀬の涙でびしょびしょになってしまった指先に笑う。ぺろりと舐めてみると、しょっぱい味が胸に沁みた。そっと伸ばした腕を黄瀬の首に絡め、彼の首筋に鼻先をこすりつける。鼻腔いっぱいに吸い込んだ彼の匂いに、黒子はまた涙を流した。
本当に、ずっとずっと長い間君の名前を呼んでいました。
昏い夢から救ってくれる金色の光を待っていたんです。
『また一緒にバスケやろう?』
ああいわれてボクがどれだけ嬉しかったか、どうすれば君に伝えられるでしょう。
言葉なんかじゃ追いつかないほどに、ボクは。
「……黒子っち?」
「黄瀬君、大好きです」
「うん、オレも」
へにゃりと笑ったのが空気で分かる。
違う、違うんですよ黄瀬君。
ボクはそんな温かな気持ちじゃ満足できないんです。
お願いです、こんなボクを知っても引かないでくださいね。
自分の身体を引き裂いて叫びたいくらい、ボクは。
君のことを、愛しているんです。
20121226