侵食D


静かな部屋の中に小さな電子音が響く。初期設定から変えていない携帯の着信音に黒子は薄く目を開けた。数秒だけ鳴って止まったのはメールだからだろう。高校に入ってから携帯番号を教えたことはなかったし、海常に来る際に新しくしたメールアドレスを知っている人は殆どいない。迷惑メールだろうと考えたが、ちかちかと光るライトが眩しくて携帯に手を伸ばした。

「……?」

ぱかりと二つ折りの携帯を開くと見知らぬアドレスが並んでいた。件名も何もないメールを開き、添付ファイルが再生される。ぱっと画面に映し出された画面を見た瞬間、黒子の意識はブラックアウトした。

     ◆

パキンという音と、小さな痛みが足の裏に走った。眉をしかめて足の裏を見ると、プラスチックの欠片がある。幸い怪我には至らなかったが痛いものは痛い。黄瀬はしゃがみこんでその欠片を摘み上げた。つるりとした表面の反対側がぎざぎざに砕けている。だがどこか見たことのある色合いに首を傾げ、他にも何か落ちていないかと辺りを見回した。
少し離れたところに転がっていた何かの残骸を拾い、じっと見つめる。

「……携帯?」
「……う、ん」
「あ、やっべ時間! 黒子っち起きて」

黒子の声に差し迫った時間を思い出して彼の肩をゆする。黄瀬の声に薄く目を開けた黒子は、きらきらとした金髪に目を瞬いた。

「あれ……黄瀬君? どうして……」
「おはよ、黒子っち。ほら早く準備して」
「え、準備ですか?」
「遅刻するっスよ。ほら早く」
「……すみません、黄瀬君」

きゅっと袖を握って黄瀬を引き止める。黒子の声に足を止めた黄瀬は、しゃがみこんで顔を覗き込んだ。

「どうしたの、黒子っち」
「あの……」

黒子は言っていいものかと視線をさまよわせた後、こくりと喉を鳴らして顔を上げた。

「どうして、黄瀬君がここにいるんですか」

黒子の言葉に頭を殴られたように感じた。何かの冗談かと思って口に出した声は、面白いほどに乾いていた。

「はは……黒子っち、寝ぼけてるんスか?」
「ボクは真剣です。ここはどこですか?」
「ここは海常の寮っスよ。黒子っち朝から冗談キツイっスわ」
「海常……? それ、神奈川の高校ですよね?」

そんなの有り得ませんよ、と呟いた黒子に眩暈がする。何とか顔に貼り付けていた笑みも限界だ。

「だって、まだ中学三年じゃないですか」

手の中の残骸が、パキリと二つに割れた。

     ◆

結局学校は休んでしまった。
マグカップに入れたミルクに蜂蜜を垂らし、くるくると掻き混ぜる。ほかほかと湯気を立ち上らせているそれと黒い水面をくゆらせているカップを持ち、黄瀬は部屋に戻った。黒子にホットミルクの入ったマグカップを渡して自分は少し離れたところに座る。少し逡巡したが、黒子はふうふうとカップに息を吹きかけてゆっくりと口をつけた。ふんわりと甘い香りにほっと息を吐く。

「……大丈夫?」
「はい……」

そうは言うものの、黒子の表情は硬い。無理もない話だ。目が覚めたらいきなりここ一年間の記憶がなくなっているなんて、黒子も想像すらできなかっただろう。しかし黄瀬の携帯に表示されている今日の日付や、少し長くなった自分の髪、それから海常の生徒手帳まで見せられたら事実を受け入れるしかなかった。

(こうなるとは思ってなかったっスね……)

黄瀬はコーヒーを飲みながらじっと黒子を見つめていた。今の黒子には、全中三連覇をする前の記憶しかない。つまり、灰崎がバスケ部をやめる前までの記憶だ。

「あの……どうしてボクは海常にいるんでしょうか」
「それはオレが誘ったからっス! 黒子っちと同じところ行きたくて」

嘘は言っていない。黒子のことを海常に誘ったのも本当だし、同じ学校に通いたかったのも事実だ。そこに至るまでの経緯に関して、お互いの間に齟齬があることは目を瞑っておく。黄瀬の言葉を受けてふと考え込む仕草を見せた黒子は、ちらりと上目遣いで黄瀬を見上げてきた。

「……あの、何があったんですか?」
「え、何がって?」
「何もないのに記憶喪失になるなんて聞いたことがありません。何かありませんでしたか? 階段から落ちるとか車に撥ねられたとか」
「そんなんあったらさすがに病院に行くじゃないっスか……ホントにオレにも原因は分からないんスよ」

黒子の記憶喪失に関して、黄瀬はまったく心当たりがなかった。昨日の夜もいつもと同じようにベッドに入る黒子を見てから自分も寝た。そして今朝はこれだ。一つ変わった部分といえば朝の残骸だけだが、あれだけで記憶喪失になるとは到底思えなかった。うーんと首を傾げていると、突然自分の携帯が着信を告げた。慌ててポケットから取り出し、表示されている名前を確認する。

「はい、もしもし」
『涼太か? 今テツヤはそこにいるか』
「いるっスよ」

こちらを見ている黒子に視線を遣り、唇の動きだけで赤司からだと告げた。電話を耳に押し当て、赤司からの言葉を待つ。赤司は彼にしては珍しく、その先を言うべきか迷っているような空気だった。辛抱強く待っていると、一つのため息とともに黄瀬に問うた。

『……テツヤの様子に変わりはないか?』
「赤司っち、何か知ってるんスか!?」
『いや、ただもしかしてと思っただけだ。テツヤの様子は?』

黄瀬からの質問に答える前に、自分の質問に答えろと言外に告げる。ちらりと黒子を見て、それから唇を開いた。

「……原因は分からないんスけど、ちょっと……忘れてるみたいで」
『忘れてる? 記憶喪失か。どういった症状だ?』
「たぶん、ここ一年くらいの記憶がないみたいっス。全中が始まる前くらいから」
『……灰崎の件だな』

得心がいったと呟いた赤司に黄瀬も一つ頷く。何がきっかけになったかは分からないが、黒子の記憶喪失の原因が灰崎にあるのは明らかだ。あともう一つ気になっているのは、部屋の隅で粉々になっていた携帯電話の残骸だ。

『そういえばテツヤの携帯はどうした? 朝からずっと繋がらないが』
「あ、それが壊れたみたいなんス」
『……壊れた?』

電話の向こうの赤司が訝る声で言う。黄瀬は声を潜めて朝見た携帯の成れの果てを手短に話した。無言で聞いているだけだった赤司は、黄瀬の言葉を受けて深いため息を吐く。

『おそらく原因はそれだ』
「原因、スか?」
『灰崎がメールを送ったのだろう。大方内容も予想できるが……いや、憶測で話をするのはやめておこう』

ふつりと言葉を切った赤司に、眉をひそめる。彼が憶測で話をしたがらないのは元からだが、それでも言いかけてやめるなんて事はしない。赤司も口が滑ったと思っているのか、気まずい沈黙が広がった。

「……赤司っち、何か知ってるんスか?」
『憶測で話はしないと言った筈だが』
「言いかけてやめるなんてらしくないスよ。心当たりあるんスよね?」
『こういうときの涼太は厄介だな。……テツヤに聞かれたくない話だ』

小さく笑ってから低く声を潜める。そう言い出してくるだろうと予想していた黄瀬は、準備していた文句を唇に乗せた。

「あー了解っス。あとでオレから掛け直すっス。赤司っち授業頑張って」
『分かった』

通話を終え、隣でじっとこちらを見ている黒子に笑ってみせる。

「赤司っち、授業だって。黒子っちのことは勘で言ったみたいっスよ」

何なんスかねー、勘って。
わざと明るい声で言いながら黒子の髪をくしゃりと撫でる。緩慢な動作で黄瀬の手を払った黒子は、机に置かれた携帯電話をじっと見つめた。しんと静まり返っている携帯からは真意を読みとれず、再び黄瀬の顔を見上げ、きゅっと彼の服の裾を握る。。

「どうしたの、黒子っち。お腹空いた?」
「いえ、あの……黄瀬君」
「ん?」

黒子と視線を合わせるようにしゃがみこんだ黄瀬にぐっと言葉を飲み込んだ。小さな声で何でもないです、と呟きベッドに横になる。毛布を掛けてくれる黄瀬はどうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。ぽんぽんと毛布の上から与えられる刺激が心地いい。黄瀬が優しかったのは昔からだが、今はどうしてかその優しさが胸に刺さる。
黄瀬が自分に教えてくれた記憶は本当に正しいのか分からない。それでも、まだもう少しは彼の優しさに甘えていたいと思った。毛布の中で小さく丸まり、零れそうになる涙を押しとどめる。

「オレ、ちょっとコンビニ行ってくるね」
「……はい」
「鍵持ってくから寝てていいっスよ」

最後になでなでと肩のラインを往復され、ベッドのスプリングが軋んだ。さっきまでそこにあった気配が遠ざかっていくことに対する一抹の不安があったが、それ以上の眠気に負けて瞼を閉じる。毛布越しに玄関のドアが閉まる音が聞こえ、黒子はゆるりとした眠りの中に落ちていった。

     ◆

ちょうど黄瀬がエレベーターホールで下行きのボタンを押した瞬間、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。取り出すと赤司からのメールだった。すぐに開き、画面に浮かび上がっている文字に目を通す。
『涼太。このメールを送るのはどうすべきかと迷ったが、まずは落ち着いてくれ。
 おそらく原因はこの画像だと思う。いいか、下手な気は起こすな。
 それとテツヤを責めないでやってくれ』
赤司からのメールに首を傾げ、添付されている画像をクリックしようとして一瞬躊躇う。落ち着け、といった赤司の言葉に従って深呼吸をした。到着したエレベーターに乗り込み、1の数字を押す。静かに降下を始めた小さな箱の中で、携帯の画面に目を落とす。ごくりと生唾を飲み込み、微かに震える指先で開封のボタンを押した。

「……っ、!?」

ガタッという音と背中に痛みが走る。思わず携帯を落としそうになり、慌てて手に力を込めた。変な汗が流れ、指先から温度が消えていく。
―――そこに表示されているのは黒子の写真だった。
薄暗い部屋で撮ったのか、それともその写真の非常識さゆえか、最初は異常性に気付かなかった。もしかしたら脳が理解を拒否したのかと思うくらい、それは常軌を逸していた。
無表情ながら頬に差した赤みは隠せず、投げ出された髪はシーツに散らばっていた。服を剥ぎ取られた肌にはいくつもの赤い花が乱雑に咲いていて、何が原因か分かりきった液体も肌に乗っている。見るなと思うのに進む視線は画像の下に行き、まざまざと見せ付けるような結合部がはっきりと映っていた。

「……っ……」

ピリリ、と鳴った携帯に意識が覚醒し、すぐに携帯を耳に押し当てる。黄瀬の様子からメールを見たことを悟った相手は、慎重に言葉を選んで静かに話し出した。

『……涼太、大丈夫か?』
「……何、なんだよ……これ……」
『落ち着け』
「何なんだよ!」
『お前が取り乱してどうする! 落ち着け!』
「っ!」

赤司は一度恫喝すると、呼吸を落ち着けるように長く息を吐いた。一階に到着したエレベーターから降り、寮の裏手に回る。ここなら人通りもないし、誰かに話しを聞かれる心配もない。

『……平気か?』
「平気っス……この画像は何なんスか」
『灰崎が送ってきたものだ』

ウィンターカップ当日のことを思い出して目を伏せる。赤司に対して吐き出せなかった文句を、この写真を送ることで少しでも発散させたかったのだろう。本当に下衆なことをする、と呟いて黄瀬の声に耳を傾けた。

「……これ、黒子っちも見たんスか」
『恐らくな。テツヤの携帯は壊されていただろう?』
「たぶん、そうっス」
『……本当に余計なことをする。いいか涼太。お前はテツヤの傍についていろ。一人にさせるなよ』
「了解したっス」

赤司の言葉に頷いて電話を切る。ツーツーという無機質な音が耳に響き、だらりと手を下げた。
何が大丈夫だ。自分の無力さがほとほと嫌になる。吐き気を催すほどの嫌悪感に、握り締めた携帯を壊してしまいそうになる。それを寸でのところで押しとどめ、黄瀬は逆の拳で壁を殴った。鈍い音と、手が麻痺するほどの痛みに目を閉じ、触れた冷たい空気に血が流れたのだと知る。
ぽつぽつと地面に落ちる血に無感情な視線を向け、黄瀬はゆっくりと視線を上げた。

「……黒子っち」

守れなくてごめん。
無力でごめん。

ずるずるとその場に座り込み、黄瀬は声を殺して泣いていた。

20121009
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