侵食B


「それじゃお先に失礼しまーす」

黄瀬は着替えを済ませてスポーツバッグを肩に掛けると、まだ着替えをしている先輩に向かって声を掛けた。本来ならこの後、試合のDVDを見て反省会を行なう予定だ。だが黄瀬の足の不調もあり、先に病院に向かうよう言ったのはキャプテンである笠松だった。
その裏に含まれた真意にぺこりと頭を下げ、黄瀬は控え室を後にした。廊下の先では黒子が黄瀬のジャージを着て立っている。

「お待たせしたっス!」
「………」
「どうしたんスか?」
「……足、大丈夫ですか」
「オレは全然平気っス! それより黒子っちの方が」

まだ赤い頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でる。試合前に殴ってしまったことは何度も謝ったが、それでも気が済むわけではなかった。黒子はそんな黄瀬にふるりと頭を振って小さく呟く。

「ボクは平気です。……もう大丈夫ですから」
「……うん」

黒子の表情にほっと息を吐き、二人で出口へ向かう。タクシーを捕まえて中に乗り込んで病院の名前を告げた。静かに走り出したタクシーに、ようやくゆっくり休めた気がした。後部座席に並んで腰掛け、深く息を吐く。

「黒子っちまで付き合う必要なかったのに」
「……あ、いえ……その」

もごもごと歯切れ悪い黒子に首を傾げる。黄瀬の顔をちらちらと窺っていたが、答えに辿りつく筈もないと溜め息を吐いた。

「帰る場所、ないんです」
「え?」
「うちの学校もホテル滞在でしたから」
「あ、あー……」

失念していた。がしがしと頭を掻いて、どうしたものかと考える。静かな車内にタクシーのエンジン音だけが響き、心地よい揺れが眠気を誘う。一つ答えは出たが、それを黒子に言っていいものか。だが暫く考えてもそれ以外のいい答えが出ず、黄瀬は思い切って黒子を見た。

「じゃあオレん家来るっスか?」
「黄瀬君の家、ですか?」
「さすがにオレが泊まってるホテルに連れてくのはまだ出来ないんで………あ、親は出張でいないんで安心していいっスよ」
「……あの、それじゃお願いできますか?」
「了解っス! 病院終わったら連れてくんで」

ちょうど角を曲がったタクシーがスピードを緩めて病院に入る。診察を終えてから再びタクシーに乗り込み、黄瀬の自宅へ向かう。中学の頃何度か行き来した記憶のときのままの道に胸が温かくなった。

「ちょっと散らかってるかもしれないんスけど」
「……お邪魔します」

律儀に玄関でぺこりと頭を下げ、靴を脱ぐ。締め切っていた家はしんと静かに冷えた空気だけがそこにあった。黄瀬がリビングの電気を点けるとぱっと部屋が明るくなり、促されてソファーに座る。キッチンから聞こえた物音に顔を上げると、食器棚を覗き込んでいる黄瀬の姿があった。

「あの、お構いなく。足も痛いんじゃないですか?」
「こんくらい平気っスよー。紅茶しかないけどいい?」
「はい……ありがとうございます」

ぽすんとソファーに腰を下ろすと、質のよい革が伸びる感触がした。深く沈みこんでいくソファーに慌てて姿勢を正すと、黄瀬が笑った声が聞こえる。カウンターキッチンの向こうからこちらを見ている黄瀬にバツが悪くなり、ふいと顔を逸らした。
ごめんごめん、と謝りながら戻ってきた黄瀬の手にはマグカップが二つある。その片方を黒子に渡し、黄瀬はラグの上に腰を下ろした。ヒーターから出る空気は暖かく、手の中の熱もゆっくりと冷えた体を温めていく。息を吹きかけて冷ましてから、マグカップに口をつけた。
ほんのりと甘い紅茶にはたっぷりとミルクが注がれている。柔らかな甘みに自然と緊張も解れていくようだった。

「落ち着いたっスか?」
「はい」
「お腹空いてない? 何か作るけど」
「あ、えっと」

立ち上がりかけた黄瀬のジャージを掴み、その場に引き止める。すぐに気付いた黄瀬は、黒子の前に腰を下ろした。下から見上げられて言葉を飲み込む。黒子が話し出すまで辛抱強く待ってくれる黄瀬に、目の奥が熱くなってじわりと涙が浮かんだ。
すぐに溢れた涙がぽろぽろと頬を伝い、どう止めればいいのか分からない。押し殺した声で泣く黒子を黄瀬はそっと撫でた。温かい手のひらが髪に触れ、ゆっくりと上下する。そうされる度に呼吸のタイミングを促されているようで、黒子は一つ深呼吸をした。

「……大丈夫、なわけないっスよね」
「黄瀬、く……」
「黒子っちが怖いならオレすぐに出てくから」
「……っ、う……」

手を伸ばして黄瀬に抱きつき、ふるふると頭を振る。黄瀬の背中に回した手をぎゅっと握り締めてしがみついてきた黒子に苦笑する。ぽんぽんと背中を叩いてやると、小さな嗚咽が聞こえた。

「もう大丈夫っスよ」
「……ふ、うぅ……、っく…」
「オレがそばにいるから」

大丈夫、大丈夫。
まるで呪文のように繰り返す黄瀬に、黒子はまた新しい涙を流した。



一週間後、黒子は海常の制服を着て校門の前に立っていた。その隣には黄瀬も並んでいて、少し緊張した顔の黒子を心配そうに見つめている。まだ登校時間には少し早く、生徒の姿は少ない。

「黒子っち、大丈夫?」
「……はい」
「……そーは見えないっスけど」

くしゃくしゃと黒子の髪を掻きまわし、黄瀬は一歩先に出た。むっとしながら髪を直している黒子を残して先に校舎に入る。黄瀬の後についてくる黒子を職員室まで案内して、自分はドアの外で待っていた。数分もしないうちに再び姿を現した黒子は、黄瀬の顔を見てほっと息を吐いた。
最近、黒子は黄瀬の隣にずっといる。そのことを不満に思うわけでもないし、黒子の精神状況を考えれば誰かが傍にいた方がいいのは当然だ。その相手に自分を選んでくれたことも素直に嬉しい。しかし両手を挙げて喜べるほど、単純なことではないと理解もしていた。
海常に転入する手続きは全て黄瀬が代理で行なった。勿論黒子の親に了承を取る必要があったが、中学時代のチームメイトだった自分の立場は有利に働いた。それに黒子の親としても、黄瀬と同じ学校ならと頷いてくれた部分もある。その間、黒子はずっと黄瀬の部屋にいた。
海常の寮は基本的に二人部屋だ。黄瀬は端数だったのか一人で部屋を使っていたが、黒子の編入に伴い同室になることになった。黒子の異常に気付いたのはその頃だ。
何をするにもぴったりと黄瀬に寄り添い、離れようとしない。最初は単なる不安から来るものなのかと思っていたが、どうやら無意識の行動らしい。どうした、と問いかけても返事はなく首を傾げて不思議そうな表情を浮かべるだけだった。
夜になって寝る段になると、黒子は黄瀬のベッドによく潜り込んできた。寮なのだから据付のベッドがあると言うのに気付くと隣にいる。そんな黒子に表情が緩んで撫でようとした瞬間、乾いた音がして手が払われた。

「え、黒子っち?」
「……い、やです……っ」
「オレだよ」
「やです、やめてくださいっ! 触らないでください……!」

ベッドの上で膝を抱え、カタカタと小さく震える目は黄瀬を見ていない。シーツの一点を見つめている黒子の前に手を振っても、彼はそれすら見えていなかった。仕方なくベッドから降り、床の上で眠る。次の日に起きると何事もない顔でまた黄瀬の隣に並んでいた。初めのころに一度か二度夜中のことを聞いてみたが、黒子は分からないといった風に首を振るだけだった。

(発作、っていうか怖いんスよね、たぶん)

隣を歩く黒子をちらりと見て、また前を見る。教室に向かう途中、黒子が黄瀬の制服を引いた。

「あの、少し話があるんですけど」
「オレにスか? んー……まだ時間あるし、こっち」

ちょいちょいと手招きをする黄瀬に従い、黒子も屋上に続く階段に足を掛けた。屋上のドアにはダイヤル式のチェーンロックが掛かっているが、生徒には既に知られているらしい。黄瀬も慣れた様子で番号を合わせると、重い金属製の扉を開いた。

「寒いっスねー。あ、この時間眺めいい」

フェンスに走っていく黄瀬を見て、黒子も肩を震わせた。黄瀬の隣に並んで同じように登校してくる生徒を眺める。

「……黄瀬君、ごめんなさい」
「何がッスか?」
「ウィンターカップで、赤司君たちに負けてしまいました」
「あー……あれッスか」

くしゃりと表情を歪め、黄瀬は空を見上げた。冬の空は青と言うには色が薄く、筋のような雲が一つ二つ流れている。
ウィンターカップの決勝戦は、赤司率いる洛山高校と海常高校の一騎打ちだった。しかし足の怪我が原因で黄瀬は出場できず、洛山高校に惜敗を喫した。笠松たち三年に申し訳ないと頭を下げたが、逆に殴られたことを思い出して後頭部をさする。

『馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。お前みてぇな一年に頼らなきゃ勝てないのがうちのチームなのかよ』
『笠松先輩、でも』
『終わったことぐちぐち言うなら前向いて歩けってんだ。俺らが引退したらお前がこのチーム引っ張ってくんだぞ』

ぐりぐりと黄瀬の頭を押す笠松の目には涙が滲んでいた。海常高校のスタメンは、黄瀬と早川を除いて全員三年生だ。他学年の層が薄いと言うわけではないが、経験値という話からすれば早川や黄瀬が指揮を執るのは明らかだった。
どんな思いで先輩が引退するかを悟り、黄瀬はぐっと唇を噛み締めて深く頭を下げる。

『ありがとうございました!』
『おう、頑張れよ』

来年こそ優勝しなかったら承知しねぇからな!
そういって背中を向けた先輩の気持ちは慮って余りある。だからこそ、黄瀬は目に溜まった涙を流さないよう奥歯に力を入れていた。

「黒子っちのせいじゃないスよ」
「……でも、怪我が悪化したのはボクのせいです」
「だからそれも黒子っちのせいじゃないってば。それにもう練習にも参加できるし」
「………」
「黒子っちが平気になったらまたバスケやろ?」

黒子の前にしゃがみこみ、こてんと首を傾げる。まだ黒子はバスケが出来るまで精神的に回復したわけではない。元々好きなものだっただけに反動が大きいのだ。それに恐らく、一番犯された場所は体育館に違いない。ボールが弾む音に肩を震わせているのがその証拠だと、黄瀬は密かに思っていた。それでも黒子とまたいつか同じコートに立ちたい。それが自分の我侭だとしても、黄瀬は伝えることをやめなかった。今日もいつもと同じく黒子が頷くことはなかったが、黄瀬はしばらく待ってから立ち上がった。腕時計に目を落とすと、予鈴の時間が迫っていた。

「黒子っち、そろそろ行こ?」
「……赤司君にも同じこと言われました」
「え?」
「一緒にバスケをしようと」
「ウィンターカップのとき?」
「はい」

小さく頷いて、自分の手をじっと見つめる。それから黄瀬の手を取り、自分より大きな手のひらに視線を落とした。そこにもう片方の手を重ね、そっと目を伏せる。手のひらから直接流れ込んでくる温度がゆっくりと二人の間で溶けていく。

「黒子っち……?」
「……バスケ部に、入ろうと思います」
「え……ホントに?」
「はい。キミと並んでコートに立ちたいんです」

真っ直ぐに黄瀬の目を見つめ、強く頷いた。しかし手は小さく震えていて、このままバスケ部に迎えてしまっていいのかと不安がよぎる。そんな黄瀬の逡巡も黒子にはお見通しで、眉を寄せて苦笑した。

「そんなに不安そうな顔しないでください。黄瀬君がいれば大丈夫なんでしょう?」
「く、」

黒子を呼ぼうとした声は、ポケットで震えた携帯電話に遮られた。がっくりと肩を落として表示を確認すると、赤司の名前が表示されていた。黒子にもそれを見せてから通話ボタンをおすと、挨拶の言葉もなしに話を切り出される。

『涼太、いま少し大丈夫か。なるべくならテツヤに聞かれないように』
「あー……大丈夫っス」

ちょうど鳴った予鈴に軽い溜め息を吐き、黒子を教室へ促す。最初はその場にとどまろうとしていたが、転入初日から遅刻することと天秤にかけた結果黒子は教室へ向かった。閉まったドアを見て、フェンスに背を預ける。電話を持ち直して、大丈夫だと伝えた。

『……テツヤは大丈夫か?』
「表面上は、って感じっスかね……起きてる間は平気なんスけど」
『一応僕の方でも調べてみたんだ。PTSDだろう』
「トラウマ、スか……」

毎晩の黒子の様子を簡単に赤司に伝える。黙って聞いていた彼は、黄瀬の話が終わってから電話の向こうで溜め息を吐いた。パチン、と聞こえた音はいつもの将棋だろう。赤司の学校も始業の時間はそう変わらないはずなのに、授業はどうしたんだろうとぼんやり考えていた。

『まぁテツヤのことは涼太に任せることにしよう』
「え、そんだけっスか?」
『残念ながら僕は京都だからね』

もう一度パチンと音が聞こえ、小さな声で彼が投了だ、と呟いた。

『ああ、ウィンターカップは残念だったな。涼太とプレイしたかったが』
「それはいいんスよ、来年リベンジするっスから」
『テツヤと一緒にか?』
「当たり前っス!」
『返り討ちにしてあげるよ』

そう軽く笑って、赤司は電話を切った。将棋盤の横に置いた携帯には、先ほど受信したメールの画像が表示されている。既に暗くなった画面に軽く触れるとぱっと画面が明るくなり、それに反して赤司の表情は歪んだ。

「……下衆が」

さっきの黄瀬の様子ではまだ気付いていないだろう。もう一度画面を撫でてブラックアウトさせ、赤司は勝負のついた将棋盤をちらりと見た。何パターンもやった内のひとつに過ぎない。勝負なんてものは結局はパターン化できる。相手と自分のあらゆる情報を揃え、どう出るかを予測すれば大概の勝負は予知できるのだ。

「……投了だ」

決まりきった勝負に約束された勝利。しかし今日の勝負は、勝つと予想していなかった方が王手で、そのことが赤司に不機嫌を埋め込む。眉間に皺を寄せ、盤に残った駒を払い落とした。
黄瀬が教室に戻ると、既に紹介を終えた黒子がぱたぱたと近づいてきた。赤司との会話の内容を問うように顔を傾げ、黄瀬の制服を軽く引く。それには答えずにくしゃくしゃと髪を撫でて自分の席につく。

「やめてください。赤司君からの話は何だったんですか」
「来年また勝負しようってことっスよ」
「……それだけですか?」
「そんだけっスー」

ぐぐ、と伸びをしてカバンから教科書を取り出す。腑に落ちない顔をしていたが、授業まで時間がないと分かると黒子も自分の席に戻っていった。その背中を見送り、そっと溜め息を吐く。
黒子が自分に依存しているのは一時的なものだ。そう分かっていながら嬉しくなる自分にはほとほとあきれ果てるほかない。机に肘をつき、前髪をぐしゃりと握りこんだ。

(……こんなんじゃオレもあいつと同じじゃないっスか)

自分に素直に付き従われるたびに膨らんでいく黒い欲望には目を閉じて、黄瀬はひとつ首を振った。空にはまたひとつ、新しい雲が流れていく冬の日のことだった。


20120804
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