すっかり明るくなった部屋で、ぼんやりと目を開ける。カーテンの隙間から差し込んでいる光は白く、もう朝なのだと分かった。ふと下半身に宿る不快感に眉を顰め、深い溜め息を吐く。
「あーぁ……」
やってしまった。
黄瀬はのろのろと着替えを取り出し、まだ誰も起きていないことを祈りながら洗面所へ向かった。健全な男子高校生としては当たり前の反応だが、その対象が問題だ。
同い年の、学校が違う、男子高校生。
黄瀬自身は黒子が男だろうが女だろうが関係ないのだが、世間はそうは思わないだろう。汚れた下着を洗い、そんなことをつらつらと考える。
「黒子っちにバレたらどーしよ……」
夜な夜な彼をオカズに自慰をしていることや、夢の中で好き勝手に抱いていること。海常との練習試合のあと、度々何かしらの理由をつけて誠凛に足を運んでいたが、そのときもピンク色をした頭の中は大忙しだった。
黒子の目に見つめられる度、そんな自分の脳内を見透かされているようでドキドキした。そしてまた家に帰れば、黒子に見つめられたときのことを思い出して右手で自身を慰める、そんな日々の繰り返しだった。
「どーにもままならないっスねぇ」
「何がだ?」
放課後の部活の最中、間に挟んだ休憩時間にスポーツドリンクを喉に流し込む。ひやりと冷えたスポーツドリンクに汗が引いていく感覚を感じてごろりと体育館の床に寝転がった。そうすると先ほど飲んだそれが胃に染み渡っていくようで心地いい。そのまま目を閉じていると、呆れた笠松がぺしりと黄瀬の頭を叩いた。
「いって、何するんスか」
「お前が変なこと言い出すからだろ。何がままならないってんだよ」
「あー……笠松先輩、好きな人とかいます?」
「はぁ!? ん、んなのいねーよ!!」
「じゃあいいっス」
「なんっかムカつくな、お前……」
ごろんと寝返りを打った黄瀬の背中を軽く蹴り、笠松は先に立ち上がる。遅れんなよ、といわれた言葉にひらりと手を振り、黄瀬は朝の夢のことを思い出していた。
「黒子っちに会いたいなぁ」
会いにいっちゃおうかなぁ。駄目かなぁ。
見透かされるみたいで嫌なのに、暫く会えないとまたすぐに会いたくなる。メールとか電話とか、他の通信手段だって勿論あるのに、電波越しだと余計に会いたくなってしまう。自宅の距離は互いにそう遠くないのだから、休日に待ち合わせることだって可能だ。
(あ、駄目だ。オレ今寮だし。んー、でも一時間掛からないし、全然いける)
もう一度寝返りを打ち、今度は体育館の天井を見上げる。高い天井にくくりつけられたライトがチカチカと反射して目に眩しい。
「よし、決めた」
「なーにが決めただ! 練習遅れんなって言っただろ! 再開するぞ!」
「いっつー……! ……すんませんっス」
「何不満そうな顔してんだよ」
「別に何でもないっス」
笠松に叩かれた頭を撫でながら、黄瀬もその後に続く。今日の練習はあと一時間だ。それが終わってから駅まで走って、何分の電車に乗って。
既に叩き込んである横浜駅の時刻表を頭の中で組み替え、黄瀬はこの後の予定をシミュレーションしていた。
ガタゴトと電車に揺られながら、すっかり夕闇に染まった町並みをぼんやりと見つめる。住宅地の間を走っている電車から見える景色は、ぽつぽつと人の灯りが灯っていてどこか懐かしい感じがした。今は寮生活で騒がしい日が続いているから、こうして一人でいる時間の静けさに、どこか違和感を抱く。
誠凛のある駅まではあと15分、そこからまた歩いて15分くらいのところに目的地はある。黒子はもう帰ってしまっただろうか。
腕時計に視線を落として時間を確認すると、まだギリギリ誠凛の練習時間が終わったか終わらないかくらいだった。
週末に迫った他校との試合を前に、攻略方法を考えていると黒子に聞いていてよかった。
―――駅に着いたら、タクシーに乗ろう。
ああでもホント、何してるんだろ。オレ。
今日はまだ月曜日で、明日だって朝練があって、放課後に撮影も控えてて。
本来なら、こんな時間にこんな場所に来ている暇なんてないくらいだ。
(でも、理性じゃないんスよね)
理性とかそんなもので抑えられるなら、とっくに黒子のことなど諦めてる。それでも諦められないから、もういっそ開き直ることにした。
空気の抜ける音と共に開いたドアから外に出、黄瀬は鞄を肩に掛けなおした。
誠凛までは、あと五分。
「すみません、お先に失礼します」
手早く荷物をまとめ、制服のジッパーを上げる。スポーツバッグを肩に掛けて各々挨拶を返してくる部員に会釈をし、黒子は部室を後にした。普段であれば大体何人かで一緒に帰るのだが、今日はこの後に二年生は実力テストの勉強会をするらしい。
こんな時間まで練習をして、そこから勉強なんて考えるとつい重い溜め息が漏れてしまう。
自分も二年生になったらそのくらいの体力がつくのだろうか、と考えて即座に有り得ないと首を振った。
校門に差し掛かりかけたところで、誰かの影が見えた。部活帰りの誰かと待ち合わせでもしているのだろうか、とあまり深く考えなかったが、その人物が自分に向かって手を上げているように感じて眉を顰める。
暗さに慣れてきた目が拾った、誠凛の制服とは違う灰色のブレザー。それを認めた瞬間、黒子は小走りに校門に向かっていった。
「黄瀬君、どうしたんですか」
「えーと、撮影のついでっス」
「……嘘ですね、部活の後でしょう」
「ばれた?」
黄瀬が撮影のついでに誠凛に来ることが多々あったが、さすがに部活帰りかどうかは黒子にも分かる。へらっと表情を緩ませた黄瀬に溜め息を吐き、黒子はすたすたと彼の前を通り過ぎた。
「えー! 無視はないっス! 無視禁止!」
「無視じゃないです。ここで立ち話でもする気ですか」
黒子の言葉に、黄瀬も地面に置いていた鞄を持ち上げて寄りかかっていた校門から背を離した。二人で駅までの道を歩きながら、ぽつりぽつりと他愛もない会話をする。
例えば、今日授業中にあった抜き打ちテストの愚痴だとか、練習のときに聞いた面白い話だとか。そんな雑談がふと途切れ、二人の間に沈黙が流れる。白い街灯に伸びた影がぐるりと自分達の周囲を回り、また次の影が生まれる。時折重なる黒子と自分の影に満足し、隣を歩いている黒子を見た。
「今日は静かですね」
「そうッスか?」
「はい。変な感じです」
ちらりと目だけでこちらを伺ってきた黒子は、すぐに黄瀬から視線を外した。黄瀬の目線からは、黒子のつむじがよく見える。色素の薄い髪の毛と、頭のてっぺんでくるりと円を描いているつむじをぼんやりと見つめた。
(どうしよう、可愛い)
細い首筋と、男子にしては色白の肌を見ながら唾を飲み込む。ごくりと響いたその音に不埒な妄想が刺激され、それを振り払うためにぶんぶんと頭を振る。黄瀬がそんなことをしている間に先に歩いていた黒子は、曲がり角で足を止めた。
「……完全に変質者ですよ、君」
「黒子っちに言われると洒落になんねーっス」
「は?」
「こっちの話っス。そだ、夕飯どっかで食べていかないッスか?」
「黄瀬君明日も早いんでしょう。帰らなくていいんですか」
「平気平気! オレ体力余ってるっスから」
はぁ、と呆れた溜め息を残して、黒子は角を曲がった。慌てて黒子を追いかけると、肩越しに黄瀬を振り返っただけで更に足を進める。駅に行く途中にある公園に入った黒子に続いて、黄瀬も公園に足を踏み入れた。
この時間の公園は人通りもなくて、ひっそりと静まり返っている。遠くに見えるベンチに誰か座っているが、ポツリと数本立っているだけの外灯では座っている人物の表情までは分からなかった。
「どうしたんスか、こんなところで」
「黄瀬君に聞きたいことがあります」
「何スか? 何でも聞いていいよ」
ブランコを囲うようにある柵にもたれかかり、黒子の言葉を待つ。黄瀬を通り過ぎてブランコに腰掛けた彼は、ぎいと鎖を軋ませてブランコを前後に揺らした。
静かな公園にぎいぎいと耳障りな音が響く。だんだんと音の感覚が遠くなり、やがて完全に静かになると、やっと黒子が口を開いた。
「黄瀬君は好きな人いますか」
黒子からの突然の質問に目をぱちぱちと瞬く。耳から入ってきた言葉が頭の中で一度回り、意味を持って浸透していく。
好きな、人。
まさか黒子からそんな言葉が出るとは思わず、うろうろと視線を彷徨わせる。黄瀬の様子をじっと見ていた黒子は、ふうと小さな溜め息を吐き出した。
「すみません、変なことを聞きました」
「く、黒子っちはいるんスか?」
「んー……分かりません」
軽く地面を蹴ってブランコを後ろにグラインドさせ、そのまま前へ揺らす。とん、とブランコから降りて、黄瀬の前を通り過ぎる。次は滑り台へ向かう黒子を追いかけ、その背中に問いかける。
「分からないって?」
「自分の気持ちがよく分かりません。ただその人のことは気になるって言うか」
「ドキドキするとか?」
「どうなんでしょう? そこまではあまり」
「ふうん……」
淡白な黒子なら分からなくもない。足元の砂利を見つめている間に滑り台の階段を上った黒子は、黄瀬を見下ろして表情を綻ばせた。
「黄瀬君のつむじ、左回りですね」
「え、うっそ」
「ホントです」
慌てて頭を押さえて見上げると、口元に小さな笑みを浮かべたまま、黒子は黄瀬を見つめていた。
あ、駄目だ。やっぱオレ、黒子っちのこと好きだ。
「……黒子っち」
「はい」
「オレ、黒子っちのこと好きだよ」
「……男同士ですよ」
「理性じゃないんスわ」
へらっと笑って電車の中で考えていた言葉を繰り返す。滑り台の上にいた黒子がしゃがみこみ、黄瀬の頭に手を伸ばした。さらさらの髪を軽く撫でた後に、くしゃくしゃと犬にするのと同じ手つきで掻き回す。黒子の細い指が気持ちよく、黄瀬はされるがまま目を閉じていた。
「黄瀬君、犬みたいです」
「そーっスか?」
「はい」
「黒子っちは犬派っスか?」
「どちらかというと、そうですね」
「んじゃいいや」
まだ黄瀬の頭に乗っていた手を握り、指先にキスを落とす。慌てて手を引こうとした黒子をじっと見上げ、自分の方へ引き寄せる。肩に当たった滑り台の柵に黒子が眉を顰め、放してください、と小さく言った。
「ねぇ黒子っち、降りてきてよ」
「このままじゃ降りられません」
「違うよ、オレのところまで降りてきてほしいんス」
「だったら手を……」
「身体だけじゃなくて、心ごとオレに降りてきて」
黒子の手を自分の頬に添え、祈るように囁く。しんと静まった公園に、黄瀬の声が溶けた。
「―――黄瀬君、放してください」
黒子の言葉に、掴んでいた指をそろりと離す。何の余韻もなく引き抜かれた指に苦笑し、だらりと力を抜いた。
「ちゃんと受け止めてくださいね」
「え、」
黒子の言葉に上を見た瞬間、彼は既に滑り台の柵に足を掛けていた。まさか、と思ったときには既に飛び越えていて、慌てて両手を広げて受け止める。殺しきれなかった勢いを足を数歩避けることで逃がし、黒子を抱きかかえたまま止めていた息を吐き出す。
「ちょ、何してるんスか!」
「黄瀬君が受け止めてくれたじゃないですか」
「そうっスけど! 怪我したらどうしようかと……!」
「平気です。受け止めてくれると信じてました」
黒子の服を確認し、どこも怪我していないことを確かめてから、はあぁ、と脱力してその場にしゃがみこんだ。そんな黄瀬の隣に黒子もちょこんとしゃがみ、じっと黄瀬を見つめていた。
「何であんなことしたんスか」
「黄瀬君が受け止めてくれなかったら怪我をしてましたね」
「分かってるならもうしないでほしいっス……」
「返品不可ですよ」
「は?」
いきなり投げられた黒子の言葉に、思わず顔を上げる。見ると、普段より黒子の頬が赤いように感じるが、気のせいだろうか。ええと、あの、と馬鹿みたいにもごもご言っていたら、更に顔を赤くした黒子が呆れた顔で黄瀬の肩に頭を乗せた。
一気に近くなった距離にぶわっと顔が熱くなる。わたわたと両手を動かしかけたが、鳩尾に入り込んだ黒子の拳にぐうと一つ唸るだけに留めた。
「鈍感ですね、君」
「分かりにくすぎるんス……」
「でもボクはそろそろ帰りますよ」
「え、つれない!」
「嫌ですよ、まだ月曜です」
だからとりあえず、と立ち上がった黒子が黄瀬の耳に口を寄せた。
「……りょーかいっス!」
次の日曜日、デートをしましょう。
20120627