A


「……黄瀬さん、泣いてるんですか?」
「な、泣いてないっス」
「鼻水垂れてますけど」
「うっそ」
「嘘です、どうぞ」
 差し出されたティッシュを受け取り、指摘された涙を拭う。手元の本には『ごんぎつね』と書かれていた。
「黒子っちがこんな本薦めるから!」
「……くろこっち?」
「オレ友達のことはそう呼んでるんス」
「友達ですか?」
「……だめ?」
 ちらりと黒子の表情を伺うと、彼はふるふると頭を振った。とりあえず不快ではなかったことにほっと胸を撫で下ろし、腕時計に視線を落とした。いつの間にか随分時間が経っていて、見れば窓の外は薄闇に包まれ始めていた。
「うわ、いつの間にこんな時間……! ごめん、すげぇ邪魔したよね?」
「大丈夫ですよ。というか、こんな時間です。よければ夕飯食べていきませんか?」
「え、でも……」
「あ、もしご家族がお待ちならあれですけど……」
「ない! ないっス! オレ一人暮らしだから!」
 身を乗り出してまくし立てる黄瀬に大きな目を瞬かせ、黒子は小さく肩を震わせた。それが笑いを我慢しているのだと分かって、今度は黄瀬の顔が赤くなる。板の間の木目をじっと見つめていると、黒子が立ち上がる気配がした。
「それなら是非。今作ってきますね」
「オレも何か手伝う?」
「大丈夫ですよ。人並みのものは作れるつもりです」
 部屋に上がった黄瀬の前につまみとビールを置き、黒子は台所に向かった。前掛けをつける姿が何となく気恥ずかしくて塩味の強い枝豆を口に放り込む。ふと庭先に視線を向けると、先日貰った紫陽花がまだ花を残しているのが目に入った。
「あれ、紫陽花ってまだ時期だっけ」
「え? ああ、そこの紫陽花だけ、何故か年中咲いてるんです」
「マジで?」
「はい。ボクも不思議なんですけど、もうずっとだったので慣れてしまいました」
「へぇ……」
 喉を鳴らしてビールを飲み込む。雨の気配など微塵も感じさせない中に咲いている紫陽花はどこか場違いな気がした。だが近寄ってみても葉は青々としているし、花も枯れる気配がない。つんつんと萼をつつくと、瑞々しい青色がぐんにゃりと歪んだ気がして慌てて手を離した。
「黄瀬さん? できましたよ」
「あ、うん! 今行く!」
 部屋に戻り、黒子の用意してくれた膳に手を合わせる。ほかほかと湯気を立ち上らせているおかずの数々に、黄瀬の腹が情けなく鳴いた。
「いただきます!」
「凝ったものじゃないですけど」
「そんなことないっスよ! むしろ和食なんて久しぶりだから嬉しいっス! ん、うまい」
「お口に合ったようで何よりです」
「あ、そういえば黒子っちさ」
 肉じゃがを口に放り込み、きちんと飲み込んでから口を開く。ほんわりとした味がビールで温まった胃にじわりと馴染んだ。
「黒子っちのペンネームって何なの?」
「え?」
「オレ最近ずっと黒子っちの本探してるんだけど見つからなくて。タイトルとか著者名だけでいいから教えてよ」
「秘密です」
「えー。ケチ」
 むすりと唇を歪めてから次のおかずに箸を伸ばす。文句を言っていてもおいしいものはおいしいのだ。いくら望みどおりの返答が得られなくても食べ物に罪はない。
「じゃあさ、電話番号教えてよ。携帯持ってる?」
「携帯……? ええと、店の番号しかありませんが」
「今時携帯もないとかマジで? ……逆にすごいっスわ」
 メモ帳に書かれた電話番号を受け取り、ポケットにしまう。このメモ用紙を貰うのは二回目だ。一度目の紙もまだ部屋に取って置いてあることを思い出して、黄瀬の頬がほのかに赤くなった。幸いにも黒子は気付いていなかったようだが、心臓の鼓動が少しばかり早くなる。
 出された食事を食べ終え、食後のお茶まで貰ってからようやく腰を上げたのは、時計の針が随分と進んでからだった。その間に何度聞いても黒子は小説家としての名前を明かさなかった。酒の力を借りても駄目なところをみると、なかなかに彼も頑固な面を持っているようだ。
「それじゃ、長々とすんませんっした」
「何のお構いもできませんで」
「黒子っち、それ定型文」
「社交辞令といってください」
 玄関で靴を履いた黄瀬に一冊の本を差し出した。紙袋で包まれたそれはずっしりとしていて手触りから上製本だと分かる。
「何? これ」
「誕生日プレゼントの本番です。家に帰ってから開けてください」
「今日絵本読みきった人にこれって、結構鬼畜じゃない?」
「そうですか?」
 涼しい顔で首を傾げる黒子に肩を竦め、黄瀬は受け取った本を鞄に入れた。本一冊だというのに急に重たくなったように感じる。
「あ、黄瀬さん」
「ん? なぁに」
「次はその本の感想を聞かせてください」
 玄関の扉に手を掛ける黄瀬にそう告げる。カラカラとどこか懐かしい音をさせて開いた扉から涼しくなった風が入り込んで、浴衣の裾を揺らした。
「それって読むまで来るなってこと?」
「違います。ここに来たければ早く読んでくださいってことです」
「同じじゃん」
「ふふ、またのご来店お待ちしております」
「はいはーいっと。じゃあまたね、黒子っち」
 前回と同じようにひらひらと手を振っている彼に応え、黄瀬は鞄を掛け直した。見上げた先にはちらちらと星が瞬いていて、頼りない街灯が道の先を照らしている。等間隔の街灯の間に潜む闇があまりにも濃厚で、ふとさっきみた庭先の紫陽花を思い出した。とても濃くて、鮮やかな青色。黒子の空色よりも濃厚な色は、まるで深海を思わせるものだ。
 家に帰って黒子からもらった本を取り出した。箔押しのタイトルは掠れてしまっているが、深海の蛍と判読できた。ソファーに腰掛け、ページを開く。話はオムニバス形式になっており、一匹の蛍が人の世界を渡る話だった。次の日が早いこともあり、一日に一話ずつ読んでいくことにした。その読み方でも、きっと前回より黒子の店に行くスパンは短くなるはずだ。仕事との兼ね合いもあるが、何とか時間を作るくらいの気概が黄瀬にはあった。
 人は蛍の姿に様々な感想を抱き、様々な結末を迎える。物心つきたての少年、高校生の女の子、厳格な老人、若い子を持つ母親。中には物語の中で人生の幕を閉じた登場人物もいて、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 10日目になるとついに最後の話を開き、文字を目で追っていった。
 彼が主役になるのはその本の中で二度目だった。最初に出てきた物心つきたての少年、彼が大人になりベッドに横になっているところから物語が始まる。白い肌に細くなった腕。そこには絶えず注射の針が刺さっていた。
 懐かしい蛍の姿に、青年はふらりと病院を抜け出す。よろめく足を叱咤しながら彼は生家に戻り、庭に通じる縁側に座り込んだ。視線の先、青々と咲き誇る紫陽花の字を見つけ、黄瀬の目が見開かれる。
『青い紫陽花』
 それ自体は全く不思議ではないが、彼に薦められた本にこの名称があるのは偶然じゃない。慌てて表紙に書かれた著者を確認したが、意図的なのかかすれていて全く読めない。そこから先を読み進めるのが怖くなり、黄瀬は黒子に貰ったメモ用紙を取り出した。
 そこには確かに東京局番から始まる電話番号が書かれていた。だが、実際にかけてみると無機質な声でお決まりの文句を告げられるだけだ。
『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上―――』
「黒子っち……!」
 電話を切るといよいよ不安が膨らんできて、いても立ってもいられず鞄を引っ付かんだ。タクシーを捕まえてあの古書店の近くの住所を告げる。本当は店の名前を言いたかったが、そんな店は知らないといわれるのが怖くて口を噤んだ。
 20分ほどで着いた先で金を支払い、もつれる足で店に向かう。次の角を曲がれば、時代錯誤で小ぢんまりとした古書店が姿を現すはずだ。そうすればきっと、この胸の焦燥も掻き消える。そう考えて角を曲がった黄瀬の目に飛び込んできたのはひっそりとした暗闇に包まれた紫陽花古書店の姿だった。
「……何だ、あるじゃん……」
 ぜえぜえと上がった息を静めながら店に近づく。しかしだんだんと膨らんだ違和感に、黄瀬の足は近づくのをやめてしまった。
 ―――この店は、こんなに古かっただろうか?
 しんと静かなのは眠っているからではない。全く人の手もはいっていないドアは鍵も錆付いていて、ちょっとやそっとでは動きそうではなかった。試しにガタガタと扉を揺らしてみても全く開きそうにない。混乱する頭の中で、黄瀬は紫陽花古書店の看板を見上げた。
「……どうなってるんスか……」
 以前より朽ちて見えるのは暗いせいだ。扉が開かないのも、黒子が鍵を掛けているから。そうに違いない。明日になればまたあの空色の瞳で、優しい声で黄瀬の名前を呼んでくれるはずだ。そう思い込もうとしても、目の前の現実はそれが嘘だと告げていた。
 掴んだ鞄の中に入っていた本を震える手で取り出す。再び表紙を撫でていると、玄関の戸に挟まれている古い手紙に気がついた。。
「……?」
 拾い上げた封筒の裏面には黒子の名前が記されており、黄瀬はごくりと唾を飲み込んでから封を開けた。今日が満月でよかった。古い紙と薄くなったインクを照らすには少し眩しい気もするが、慣れた目でようやく字を追えるようになる。
 黄瀬涼太様、という書き出しの手紙には黒子の言葉が綴られていた。
 黄瀬と黒子の過ごす時間軸に差があると、最初から気付いていたこと。一度きりだと思っていたのに、二度目の邂逅に喜んだ自分を恥じたこと。黄瀬に渡した本は、自分の処女作であったこと。
 それから庭先の紫陽花の話に移り、通年咲いていたそれがだんだんと花を散らすようになってきたこと。はっきりとは分からないが、花が散れば黄瀬に会うこともできなくなると黒子は考えていたらしい。その予想は当たり、黄瀬が黒子の本を読んでいる一週間の間に徐々に花はその数を減らしていった。黒子が慌てて手紙を書いたのは、黄瀬に会えなくなることを察していたからだという。
『ありがとうございます。許されない形ですが、ボクはキミのことが好きでした』
 特徴のある右上がりの文字にぽつりと涙が散った。薄くなったインクは滲むことはなかったが、紙に染み込んでそこだけ色を濃く変える。
「くろ、こっち……!」
 オレも、黒子っちのことが好きだったよ。
 伝えたいのに伝わらなかった思いが心の中でぐるぐると回る。情けないことに嗚咽も漏れて、みっともなく道の真ん中でうずくまった。こんなことなら帰らなければよかった。黒子の傍にいて、もっと多くの時間を過ごせばよかった。
「う、……っく……黒子っち……」
「あ、あの……」
「………っ!? え、あ、あの」
「す、すみません! こ、これ使ってください」
 ごしごしと服の裾で拭おうとした黄瀬に、水色のハンカチが差し出される。赤くなった顔を隠してそれを受け取り、まだ涙を零す目に押し付ける。まさかこんな時間に出歩いてる人がいるなんて。見られたことに対する恥ずかしさから相手の顔を見ることができない。
「ご、ごめんなさい……声掛けないほうがいいのかなと思ったんですけど、あまりに辛そうだったので……」
「そっスか……うん、ごめん。ありがと」
「はい……」
 ハンカチを返すついでに相手の顔を見上げる。満月のせいで逆光になって見えないが、髪が銀色に光って見えた。
「それで……うちに何か御用でしょうか」
「……うち?」
 耳を撫でる声が戸惑いと優しさを含んでいて、とても泣きたくなった。一週間前に聞いた彼の声と同じだったからかもしれない。だからいわれた言葉がなかなか頭の中で繋がらず、つい鸚鵡返しをしてしまった。
「はい、この書店ですが……うちの誰かと知り合いですか?」
「……え、あ、キミここの人?」
「正確には違いますが、祖父からここを受け継ぎました。もしかして祖父の知り合いですか?」
「……あの、名前」
「え?」
「名前、教えてもらってもいいっスか?」
 情けない、唇が震える。慣れた目で見上げた先にはあの懐かしい空色があった。少し幼く見える彼の背後に鮮やかな紫陽花が見えた気がした。
「ボクは黒子テツヤといいます」
「……黄瀬、涼太っス……」
「黄瀬さんですね、宜しくお願いします」
 差し出された手を強く引いて黒子の身体を抱きしめる。勿論、この黒子テツヤという少年が彼じゃないことは分かっている。それでもどうしても、手を伸ばさずにはいられなかった。一方の黒子はぱちくりと目を瞬いてから顔を真っ赤に染め上げた。腕を突っ張って離れようとしたが、自分を抱きしめる黄瀬の腕が震えていることに気付いて溜め息を零すだけにとどめる。
 都内では見ることの少なくなった蛍が一匹、路地裏の奥へ消えていった。



「落ち着きましたか?」
「………」
 目の前に置かれた湯飲みを見つめ、黄瀬は小さく頷いた。ふわふわとした湯気は少しだけ立ち上ってすぐに空気に溶ける。黒子は黄瀬の正面に腰を下ろし、ふうふうと自分の湯飲みに息を吹きかけた。
「あの、ありがと」
「いえ……まさかあの黄瀬さんだとは思わず、ボクも失礼しました」
 失礼でしたよね、ともごもご言っている黒子は尖らせた唇を湯飲みにつけた。冷ましたはずだがそれでも熱かったらしく、すぐに離してテーブルに戻す。
「それは全然いいんスけど。あの、おじいさんのこと聞いてもいいっスか?」
「はい。ボクで答えられることなら」
 ふわりと笑った顔はあの黒子と同じ表情だ。きゅっと胸を締め付けられながら、黄瀬は一番気になっていたことを聞くために唇を開いた。
「あの……いつ、亡くなったんスか」
「一ヶ月と少し前です。年齢的なものもありましたし、寿命だと思います」
「……そっか」
 はっきりした日付は聞いていないが、たぶん黄瀬が初めてこの店に訪れた頃だろう。何となく、あの日に全てが始まって終わっていたのだと予感していた。
「……よかった」
 彼があの本の青年と同じ運命を辿らなくて。小さく漏らした声に首を傾げた黒子は、黄瀬の鞄から覗いている本に目を見開いた。
「それ……祖父の本ですか?」
「え? うん。誕生日に貰ったんだ」
「少し見せてもらってもいいですか? ボク、見たことなくて」
「いいよ、はい」
「ありがとうございます!」
 ぱっと表情を輝かせた黒子は、大事そうに両手で本を受け取った。自分の膝に置いて、ゆっくりとページを捲る。その表情が本当に嬉しそうで、渡した黄瀬も知らず口元が緩むのを感じていた。
「祖父は恥ずかしがり屋だったんです。絶対にボクには本を見せてくれなくて」
「そうだったんスか」
「この話、黄瀬さんはもう読んだんですか?」
「あー……最後だけまだ。読み進めるの怖くて」
 あの青年がどうなるのか分からなくて読んでいない、と言った黄瀬に黒子は小さく笑った。
「じゃあボクも黄瀬さんが読むまでお預けにしておきます」
「え、いいよ。おじいさんの本なんでしょ?」
「でもこれは祖父から黄瀬さんへの本ですから」
 ぱたんと閉じた本を黄瀬に戻し、黒子は冷めた湯飲みに手を伸ばした。やっぱり彼の孫だ。同じ血を引いている。ぎゅっと心臓を握られた気がして、黄瀬は本を開いた。残りは数ページしか残っていない。指先はもうさっきみたいに震えていないし、何よりここには黒子がいる。黄瀬は軽く嘆息してから、先ほどの続きに目を滑らせた。
 青年は青い紫陽花を見ながらそっとそれに手を伸ばす。すると、触れた場所からはらりはらりと散っていき、最後に残ったのは寂しい枝だけだ。自分の命もそれと同じように枯れ果てていくのかと落胆する彼に、新しい黄緑色が目に留まった。枝だけになってしまった紫陽花の先、柔らかな黄緑色の芽が顔を出している。震える指先でそれに触れると、ほんわりと温かな温度が流れ込んでくる気がした。
 理由も分からない涙が目に浮かぶ。この胸を患っていた病は紫陽花がすべて吸い取ってくれたのだ。茶色に乾いてかさかさと音を立てるそれらが、幼い頃から一緒に育った自分を救ってくれた。
 はらりはらり、枯れた花の上に透明な涙が散る。この新しい萌芽を胸に抱いて生きていこう。彼はそっと柔らかな芽に触れ、小さな声でありがとうと呟いた。
 紫陽花の亡骸の下で、蛍もまたその儚い光を揺らめかせ、そっと闇に包まれていたことを知る者は誰もいなかった。
「……はぁ」
「読み終わったんですか?」
「うん、黒子君もどうぞ」
「ありがとうございます。ゆっくり読みたいので、お借りしてもいいですか?」
「いいっスよ、いつまででもどうぞ」
 黄瀬の言葉に笑顔になった黒子はすぐに頬を赤く染めて顔を俯けた。それから指先を膝の上で組んだり外したりを何度か繰り返し、ちらりと黄瀬を見上げる。首を傾げて問うてみると、彼は変なことを聞きますが、と前置きして言葉を続けた。
「あの、祖母から聞いていた話があるんです」
「何?」
「ええと、祖父にはずっと大切な人がいたと……。結婚する前に、それでもいいかと聞かれたそうなんです」
 その一回限りだけだと黒子は続ける。
『絶対に結ばれる相手ではないけれど、誰よりも大切な人がいる』
 地面に頭を擦り付けるほど下げ、彼は結婚相手である彼女にそう謝罪した。
『その人とは触れ合ったこともないですし、今後会うこともありません。それでも自分の心の一部は、どうしてもその人のものにしかなれません』
 それでもいいと言っていただけるなら、ボクはあなたのことをそれ以外のすべてで愛します。
 勿論、非常識な告白であることは重々承知している。断られるのも覚悟していたが、彼の祖母は宜しくお願いしますと指をついてお辞儀した。それにありがとうございますと答え、言葉どおり彼のすべてで祖母を愛していたという。これは祖母から聞いた話だが、彼が生涯愛していたのは男だったのではと薄々思っていたらしい。しかしそれを彼に確かめることも、問い詰めることもしなかったという祖母の話に、黄瀬はほろりと涙を零した。
「強い人だったんスね」
「はい。強くて可愛い人でした。一年前に祖母は亡くなりましたが、見送った祖父は少し安心したみたいです」
「安心した?」
「約束を果たせたかなって言ってました。多分祖母との約束のことだと思います」
 黒子から再びハンカチを受け取り、すっかり緩んでしまった涙腺に頬を赤くした。だが黒子はそんな黄瀬を気にした様子もなく、障子で閉ざされている庭に目を向ける。
 この家は遺言に従って祖父から譲り受けたものだ。黒子の両親は健在だが、祖父が自分に託した理由には何となく気付いていた。黒子もまた祖父と同じ道を志していたからだ。古い骨董品のようにこの店を思っていた両親は、自分がここを受け継ぐといったときいい顔をしなかった。しかし梃子でも動かない祖父譲りの頑固さと息子の夢を一番知っているのも彼らだった。そうしてようやく、この店に来ることができたのだ。
(まさか初日でこんなことになるとは思ってなかったですけど)
 家の前に誰かがうずくまっていて、それが芸能人だったなんて陳腐すぎて小説にもできない。しかもその彼がはらはらと泣いていた。それも演技ではなく本気で。家の前で見た、黄瀬の目を濡らす涙を思い出してぎゅうと胸が苦しくなる。
(……おじいさんもこんな気持ちだったんでしょうか)
 言葉にしたいのにいい表現が見つからない。あえて言うなら、切ないというものに近いのかもしれない。黒子はきゅっと唇を噛み締め、黄瀬に視線を戻す。
「ん? 何?」
「あの……黄瀬さんは綺麗に泣く人だなぁと……」
「……ふ、普段はこんなに泣かないっスよ」
「そういう意味じゃなくて。泣きたいときに泣ける人は本当に強い人だといわれたのを思い出して」
 ふっと目を伏せる。黒子は彼よりも年下だろうが、こうしたときに見せる表情は大人びていてどきどきする。黄瀬の言葉がないことに不安になったのか、そろりと上げた視線で黄瀬を見た。
「お、怒りましたか?」
「え、何で。全然っスよ」
「それならよかったです。祖父に言われた言葉で大好きなものです」
「うん、オレも覚えとく。ねぇ、線香上げていい?」
 今更だが、やはりけじめはつけたい。腰を上げた黄瀬に慌てて立ち上がり、黒子は奥の部屋にある仏壇へ案内した。ろうそくに火を灯し、線香の先を近づける。赤く染まったそれを灰に挿してから両手を合わせた。
「………」
(オレも、本当に大好きだったよ)
 また浮かびそうになる涙を押しとどめ、黒子の姿を思い描く。同時にふわりと頭に手が乗せられた気がした。いい子いい子と撫でる動きに、彼に伝わったのだと分かって嬉しくなる。
「……ありがと」
「はい、祖父も喜んでいると思います」
「ねぇ、またここに来てもいいっスか?」
「それは勿論。是非また来てください」
 ふっと消えたろうそくに彼の気配も消えてしまった。その代わりに胸に灯った感情は少しの苦味を孕んでいる。初恋の痛みと二度目の恋の訪れに、黄瀬は深い溜め息を吐き出した。隣の黒子はその意味がわからずに首を傾げている。
 たぶんこれは萌芽だ。芽生えたこの気持ちを大切に育てていこう。そんなことを考えながら、黄瀬は黒子の頬に手を伸ばした。

20130726
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