萌芽@


 昔から本を読みきったことは一度もない。何ページか読んですぐに新しいものに手を伸ばす、その繰り返しだ。部屋の片隅にうず高く積もった本たちはカバーが掛けられていることもあってタイトルが分からない。そもそも、カバーが掛かっていなかったとしても黄瀬はそれらのタイトルなんて覚えていなかったが。
 読んでいた台本を放り出してぼんやりとテレビを見つめる。番組のつなぎに放映されているニュース番組は有名な女優が離婚しただのどこの紫陽花が見頃だの、何の関連もないニュースをさもスクープのように放映していて面白くない。溜め息を吐いて寝転がっていた床から起き上がり、随分温くなってしまった缶ビールを喉に流し込んだ。
「……何だかなぁ」
 人気の俳優と謳われていても、この現状では信憑性も薄い。深夜番組の陽気な音が耳に響き、黄瀬はテレビの電源をオフにした。
 大学を卒業してから本格的に俳優の道に進んで三年、最近ではテレビに出ない日のほうが少ない。モデル出身ということもあって最初こそ周囲からの反応は冷たいものだったが、実力が伴っているとなれば文句という人はだんだんと減っていった。黄瀬自身そんな周囲の評価に満足しているし、好きで始めた仕事だ。しかし『俳優 黄瀬涼太』のイメージが先行していることに疲れているのも事実だった。
 本当の黄瀬はだらしなく酒だって飲むし、年相応に遊びたい。しかしスキャンダルを嫌う事務所の方針により、黄瀬が自由にできる時間は、自宅にいる数時間程度のみだった。今日だってこれからシャワーを浴びて迎えに来たマネージャーの車に乗り込んで、明日の早朝ロケの現場に行かなくてはならない。ちらりと時計を見上げ、黄瀬は空になった缶を握りつぶした。



「……やべ、迷ったかも」
 黄瀬は周囲を取り囲んでいる紫陽花を見回して溜め息を吐いた。しとしとと降っている雨に濡らされた前髪は、額にぺったりと貼り付いてしまっている。弱いからと傘を差さずに来たのは失敗かもしれない。ぽつりとまた当たった雨に眉を顰め、黄瀬は目に付いた軒下に身体を滑り込ませた。
 こんなことならマネージャーの車にさっさと乗り込んでしまえばよかった。何となく人のいる場所にいたくなくて逃げるように収録現場を出てしまったことを後悔する。撮影を終えた黄瀬が「一人で帰る」というと、マネージャーは困ったように眉を寄せたが、最後には了承して頷いてくれた。ここで濡れ鼠になっていると知ったらきっと怒られるだろうけども。
 ふるりと頭を振って水を飛ばす。まだ雨はやみそうにない。このままここにいたら風邪を引いてしまうかもしれないと考えたが、止むまで休ませてくれるような場所もなかった。ふと今雨宿りをしている場所を確かめるために視線を上げると、古い木の板で作った看板が目に入る。紫陽花古書店と書かれた看板は古めかしさを全面に押し出していた。
「……古書店?」
 紫陽花、と呟いて視線を下げる。引き戸になっているドアを見つけ、興味本位で引いてみた。雨宿りをさせてもらったお礼だ。冷やかし程度に一冊買ってみるのもいいかもしれない。
「ごめんくださーい……」
 店は案外広く、ドア一枚を隔てただけなのに雨がないだけで随分楽に感じた。薄暗い店内は営業しているのかしていないのかよく分からない。もう一度すいませんと言った瞬間、すぐ隣から声を掛けられた。
「何かお探しですか?」
「え、うわっ」
「気をつけてください、足元滑りま……あ」
「……ってぇー……」
「すみません、驚かせてしまいましたね。……ふ、ふふっ」
 くすくすと笑いながら差し出された手を取って立ち上がる。ばつが悪くなって頬を掻こうとしたところで、指先が汚れてしまっていることに気付いた。見れば転んだ拍子に服も汚れてしまっていてさすがに恥ずかしくなる。そんな黄瀬の様子に気付いた彼が申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ボクのせいですよね、すみません。よければ奥で休んでいってください。お風呂も用意しますから」
「え、いやそこまでは」
「何か急ぎの用事でもありますか?」
 首を傾げられて言葉に詰まる。幸か不幸か、今日このあとの予定はオフだ。マネージャーが気を利かせてくれたのかもしれない。黙ったままの黄瀬に顔を伏せ、彼はせめてタオルでもと呟いて踵を返した。
「よ、予定はないっス」
「そうですか。少し待っていてください。お風呂、すぐに沸きますから」
 ほっとしたように笑う彼に釣られ、黄瀬も曖昧な笑顔を返す。変な展開になってしまった。パタンと閉じた間続きの扉をじっと見つめ、ぐるりと店の中を見回す。天井近くまで伸びた本棚にはそれぞれぎっしりと本が詰まっている。物によっては背表紙の文字も掠れていて、顔を近づけてもよく分からなかった。
 ふわりと香った古い紙の匂いが鼻腔をくすぐる。様々な年代の空気を吸った紙が、そこにはあった。
「……すげ……」
「すみません、お待たせしました。着替えはこれを使ってください」
 ぱたぱたと戻ってきた彼に案内され、畳を踏みしめる。久しぶりに感じる畳の感触に目を輝かせる黄瀬に小さく笑い、すらりと扉を開いた。全体的な雰囲気は古いが、中は綺麗に整えられていて使いやすい。もしかしたら改装を繰り返しているのかと天井を仰いでいる黄瀬に、彼は淡い笑みを浮かべた。
「何だか変な感じですよね。つぎはぎというか、そんな感じで」
「えっと、そんなことは」
「でもこの方が家も長持ちするって言われて」
 つつ、と指先で柱を撫で、黄瀬を脱衣所に案内する。籠の中に着替えを入れ、汚れ物は洗濯機に入れてくれと告げた。
「大丈夫っスよ、そこまでしてくんなくても」
「でもそのままじゃ帰れないでしょう? 今日はお客さんもあまり来ませんし、よければ話し相手になってくれませんか?」
「……はぁ」
「ありがとうございます。それじゃあごゆっくり」
 閉じられた戸の向こうで足音が遠ざかっていく。黄瀬は溜め息を一つ吐いて、濡れた服に手を掛けた。肌に貼り付いてしまった服はブランド物の面影もない。全部脱いで洗濯機に放り込み、風呂場へのドアを開けた。
「あ、お帰りなさい。着替え大丈夫そうですね」
「……どもっス」
 濡れた頭を拭きながら戻ると、冷蔵庫から取り出した麦茶を渡された。促されるまま座布団に腰を下ろし、台所から戻ってきた彼を見る。店を空けていて大丈夫なのだろうか。黄瀬の視線からそんな意図を察したのか、ゆるりと笑って黄瀬の前に腰を下ろした。
「今日は閉店です」
「え、オレのせい?」
「いえ、元々雨の日はあまり長く店を開けていないんです。お客さんもあまり来ませんし、本が傷みますから」
「ふうん……それでやってけるんスか?」
 黄瀬の明け透けな質問にぱちりと目を瞬いた彼は、小さく噴出して笑った。
「さすがにここの売上だけでやってませんよ。一応本業があるので」
「本業?」
「恥ずかしながら、物書きをさせてもらっています」
 古風な物言いに今度は黄瀬が驚く番だった。そういえばこの家もそうだが、渡された着替えも浴衣で何となく時代錯誤なイメージを抱いてしまう。
「小説家なんスか? え、名前は?」
「そういえばまだ名乗ってませんでしたね。ボクは黒子といいます」
「あ、うん。黄瀬涼太っス」
「黄瀬さん、ですね。宜しくお願いします」
 ぺこりと下げられた頭に違和感を覚える。もしかして、彼は自分のことを知らないのだろうか。自意識過剰といわれるかもしれないが、黄瀬は今まで自分のことを知らない人間に会ったことがない。黄瀬の反応に首を傾げた黒子という青年は、紫陽花を薄めたような瞳をしていた。
「黄瀬さん?」
「え、あ、いや何でもないっス。黒子さんはいくつなんスか?」
「今年で24歳になりました」
「じゃあほとんどタメじゃないっスか。オレ今年で26歳だけど」
「あ、それなら一つ先輩ですね。ボク、誕生日一月なので」
 改めて宜しくお願いします。畳に手をついた黒子に、慌てて黄瀬も頭を下げる。その拍子に滑り落ちた携帯がぶるぶると着信を告げていた。
「あ、ごめん電話だ。ちょっと出るね」
「はい、ボクは向こうに行ってますからごゆっくりどうぞ」
 黒子が洗面所のほうへ消えたのを確認してから通話ボタンを押す。すぐに聞こえてきた声はマネージャーのものだった。
「あーもしもし? うん、平気っスよ。まだ家じゃないけど……え? いや、店とかじゃなくて一人。変なとこじゃないっスから」
 適当に相槌を返し、危惧する言葉を振り切った。電話の相手は納得していないながらも黄瀬を信用しているのか、渋々と言った様子で電話を切る。無機質な電子音を三回聞いて、黄瀬は溜め息を吐き出した。
 この家は静かで、降っている雨の音が心地よく耳に届く。ふと見た庭先にも紫陽花が咲いていて、先ほどの黒子の姿とだぶった。ここの店名も紫陽花だからかもしれない。
 そういえば黒子はどこにいったのだろう。着慣れない浴衣をだらしなく着崩し、黄瀬は黒子が消えたほうへ足を向けた。電気のついている洗面所を覗き込むと、仕事を終えた洗濯機から黄瀬の服を取り出している彼と目が合う。
「電話、終わったんですか?」
「うん。それ、ありがと」
「いえ、ボクも楽しい時間を過ごせました。乾くまで少しお話しませんか?」
 ゆったりと回る扇風機にひらりと服が揺れた。正直、これじゃ乾くまでどのくらい掛かるか分かったものじゃない。それでも黄瀬はこの時間が不快ではないことに一番驚いていた。ぽつりぽつり、取り留めのない話を一つ二つ繋げていく。
「……静かっスね」
「このあたりは住宅地ですから。特にこんな雨の日はもっと静かになります」
「ふうん……一人暮らし?」
「ええ。両親は早くに他界しまして」
 黒子の声は優しくて耳に心地いい。おまけに最近の多忙も手伝って、黄瀬の瞼はだんだんと重くなっていった。
「お疲れですか?」
「ん、んー……」
「黄瀬さん、子供みたいです」
 ふわりと髪に何かが触れた。それはいい子いい子と撫でるように前後に動き、その度にとろりとした眠気が黄瀬に圧し掛かってくる。ここで眠ったらどんなに気持ちいいだろう。そんな誘惑を振り払うこともできず、黄瀬は深い眠りに落ちていった。
 次に目を開けると、見慣れない天井が目に入った。桜の枝を使った天井を10秒見つめたところで、勢いよく起き上がる。左右を見回していると、微かに床を軋ませて黒子が姿を現した。
「おはようございます。気持ち良さそうだったので起こさなかったのですが……服、乾きましたよ」
「え、あぁ……ありがと。今何時?」
「6時を少し回ったくらいです。もしかして予定がありましたか?」
 眉を寄せて視線を落とす黒子にぶんぶんと手を振り、畳まれた服を受け取った。
「違うっス。迷惑掛けちゃったなって思って」
「そんなことはないですよ。着替えますよね、ここ閉めておきます」
 ぱたんと閉じた扉に溜め息を吐き出す。何故、起きた瞬間に黒子の姿がないことに焦ったのか分からない。何となく儚げで、少しでも目を離したら消えてしまうかも知れないと思ったからだろうか。
「……同い年の、それも男だってのに」
 数時間しか着ていなかった浴衣を畳み、見送りに来た黒子に渡す。そのまま店を出ようとしたところでもう一度店内を見回した。
「ねぇ、何か一冊見繕ってくれないっスか?」
「え?」
「オレ、本とか読まないんだけど、アンタが選んでくれた本なら読んでみようかなって」
「それなら、次に来たときにお渡ししますよ」
「……今日誕生日なんだけど」
「そうなんですか? おめでとうございます」
 にこりと笑った黒子に毒気を抜かれる。肩を竦めた黄瀬に黒子はこてんと首を傾げていた。おそらく彼は悪気も何もないのだろう。黄瀬の分かりやすいおねだりになびかなかった相手も初めてだ。それが新鮮でいっそ面白い。
「ま、いいや。ありがとね、黒子さん」
「どういたしまして。あ、ちょっと待っててください」
 黄瀬を店先に待たせて黒子は家の中へ戻っていった。少しして戻ってきた彼の手には、駅への地図と大き目のビニール傘、一振りの紫陽花が握られていた。
「これ、使ってください。まだ雨は止んでいませんから。あと、これ」
「……綺麗な青っスね、あんま見ない色だけど」
「うちの庭にしか咲かないんです。こんなんじゃ誕生日プレゼントにもなりませんけど」
「……ありがと、貰っとくっス」
「はい。それじゃあまた」
 ガラガラと扉を引き、まだ降っている雨に傘を差した。店の入り口で手を振っている黒子にひらりと振り返し、黄瀬は枝を握る手に力を込めた。ごつごつとした感触が心地いい。次のオフにはまたここに来てみようと考えながら、黒子に貰った地図に視線を落とす。貰ったメモ用紙には、紫陽花古書店の文字が薄く印刷されていた。

     ◆

【黒子 小説家   検索結果0件】
 黄瀬は手元のマウスを操作しながら0の数字を浮かび上がらせる液晶をじっとりと見つめた。自室に帰ってから貰った紫陽花を花瓶に挿し、普段あまり使わないパソコンを立ち上げたのに出てきた結果がこれだ。ぱらぱらと降っていた雨は帰る頃には本降りになっていて、せっかく洗ってもらった服にも泥が跳ねてしまった。ざあざあと窓を叩きつける音を遠くに聞き、新しい単語を検索欄に打ち込む。
【紫陽花古書店 東京   検索結果0件】
 どちらの言葉も検索に引っかからず、黄瀬の眉間に皺が寄った。先ほどポケットから取り出したメモ帳にはしっかりと店名が刻印されているし、白昼夢を見たつもりもない。現に目の前に咲いている紫陽花は変わらぬ青のまま、部屋の中にぽつりと色を落としていた。
「……何なんスかね?」
 次の日に立ち寄ってみた本屋でも各出版社の【く】の段を探したが黒子という小説家はいない。ならばペンネームは違うのかとも思ったが、この膨大な本の山から彼を探し出すのは砂漠の中から一粒のダイヤを見つけるようなものだった。次にあの店に立ち寄ったときにでも聞いてみよう。そう考えながら過ごす日々は何だか以前より楽しく感じた。
 ぱらりと紫陽花から最後の花びらが散って枝だけが残る。黒子に会ってから既に三週間経っていたが、いまだに黄瀬はあの店を訪れられないままでいた。
「……はぁ」
 溜め息を転がして残った枝を掴む。黒子はもう黄瀬のことなど忘れてしまっただろうか。黄瀬自身も、何故こんなに黒子が気になるのか分からない。それでもふとした瞬間に彼のことを考えていて、ふるふると頭を振った。携帯のスケジュール帳を開くと、三日後にようやく久しぶりの休みがある。本当なら一日中寝ていたいが、それよりもあの店にもう一度訪れたいという思いのほうが強かった。
「あと三日、頑張りますか」
 自分に言い聞かせるように呟き、黄瀬は三日後の日付を指で撫でた。
「お久しぶりです」
「……久しぶり」
「また来ていただけるとは思ってませんでした。いらっしゃいませ」
「何それ、オレって信用ない?」
「そういうつもりではなくて」
 困った表情を浮かべる黒子に笑い、黄瀬は借りていた傘を差し出す。ずっと借りている間にすっかり梅雨も明けてしまった。受け取った傘を傘立てにしまい、黒子は黄瀬の背中越しに外へ視線を向ける。
「外、暑かったでしょう? 今麦茶入れますから上がってください」
「え、いいよここで。少し店の中見たいし」
「そうですか? それじゃあここに座っていてください」
 家と店との境界になっている上がり框を指し示し、黒子は家の中へ戻っていった。言われるまま腰掛け、もう一度店内を見回す。まだ7月だというのにうるさい蝉の喧騒も、この店の中では随分静かに感じた。まるで本が音を吸い込んでいるみたいだ。すうっと深呼吸をすると、やはりどこか懐かしい古い紙の匂いがした。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがと、ってこれカルピス? うわ、懐かしい」
「ちょうど冷蔵庫にあったので。甘いの大丈夫でしたか?」
「平気平気。いただきまーす」
 カランと涼やかな音と喉を通るほのかな甘さが心地いい。一気に半分ほど飲み干してから、隣にグラスを置いた。やはりここは心地がいい。ざわざわとした喧騒もないし、黄瀬が俳優である必要もない。この浮世離れした店主のお陰かと盗み見ると、予想に反してこちらを見ていた彼と視線がかち合った。
「ボク、黄瀬さんに用意した本があるんです」
「え、それって誕生日の?」
「はい。取ってきますね」
 すっと立ち上がって店の中を進む。一番奥に設えられた棚から一冊抜き取って戻ってくるまでをついじっと見てしまい、彼に小さく笑われた。
「そんな期待されるものじゃないですよ?」
「でも楽しみだし!」
「そう言ってもらえると嬉しいです。黄瀬さん、どうぞ」
 差し出された本を両手で受け取り、タイトルに目を落とす。幸福の王子、と書かれたタイトルは随分掠れてしまっているが、元は丁寧な装丁だったことをうかがわせるものだった。しかし渡されたのは絵本だ。試しに捲ってみても字はほとんどなく、黄瀬は眉間に皺を刻んで黒子を見上げた。
「どういうことっスか」
「だって黄瀬さん、本読みきったことないんでしょう? そんな人にいきなり小説なんて難易度が高すぎます」
「難易度とかそういう話じゃなくて、何で絵本なの」
「それも立派な本ですよ? それを読んだら次の本を差し上げます」
 すいと横を通り過ぎた黒子は置いていたコップを再び持ち上げた。小さく上下する喉仏を見ていた黄瀬は、はっとして視線を手元に戻す。何が悲しくて男の喉仏を凝視しなくてはならないのだ。貰った絵本の表紙を捲り、黄瀬は書かれた文字を目で追っていった。
 絵本の内容はどこかで聞いたことがあるものだった。街の中央にある豪華な銅像が、貧困に苦しむ人々のために自分を犠牲にする話だ。人々に宝石を届ける足となったツバメも、最後には力尽きて王子とともに眠りにつく。王子の像は壊されることとなったが、残った鉛の心臓とツバメは天国へ連れて行かれ、そこで平和な時間を過ごす。最後まで読みきって本を閉じると、隣から小さな寝息が聞こえた。
「……店主じゃないんスか」
 ふにりと柔らかい頬をつついてみる。黒子はふと眉を顰めて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。空色の瞳が黄瀬を捉え、何度か瞬きをする。
「あ、おはようございます」
「おはよ。っつか客放っておいて寝るとか何なの」
「すみません、昨日寝不足で」
「じゃあ店休めばよかったじゃん」
「でも、いつ黄瀬さんが来るか分かりませんでしたから」
 こしこしと自分の目を擦る姿にぐっと言葉に詰まった。それはつまり、黒子も黄瀬のことを待っていたということだ。会いたがっていたのが自分だけじゃないと分かり、黄瀬は緩みそうになる頬を必死に引き締めていた。
「どうでした? それ」
「あ、うん。読んだっス。何か懐かしい気がしたけど、前に読んだときとは違う風に感じるっスね」
「そうでしょう? 絵本もなかなかいいですよ」
 黄瀬の感想に表情を綻ばせ、黒子は新しい飲み物を入れるために席を立った。残された黄瀬はもう一度表紙を撫でながら溜め息を漏らす。
「……やべーだろ、オレ」
 変わらない表情で表紙を飾っている王子が酷く憎たらしくて、羨ましい。それに先ほどの黒子の顔が脳裏に蘇って仕方がない。ぱたぱたと小さな足音がして、盆を持った彼が姿を現した。ぐったりと項垂れている黄瀬を見て、具合が悪いのかと床に膝をつく。
「黄瀬さん? 大丈夫ですか?」
「ん、平気。ねぇ黒子さん」
「はい」
「もう一冊、何か見せてよ。今日休みだから時間あるし」
「いいですよ、今持ってきますね」
 ほっとした顔で本棚に向かう背中を、黄瀬はじっと見つめていた。
 気のせいだろう。そう思いたい。少し会話をするだけで手のひらが汗ばむのも、言葉を返されると嬉しいのも、全部気のせいだ。
 みんみんとうるさい蝉の声を遠くに聞き、黄瀬は黒子が差し出した絵本を手に取った。

     ◆
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