ある日の出来事


まさかこんなに緊張するものだとは思っていなかった。
休日の早朝だと言うのに、自室のベッドの上でじっと携帯を見つめる黄瀬の姿があった。表示されている画面は既に真っ暗になっているが、画面は昨日からずっと変わっていない。

「あ、あと3時間っスね……」

ちらりと部屋の時計に目をやって、溜め息。昨日から何度こんなことを繰り返しているだろう。今日は体育館設備の点検で部活は休みだ。それなのに彼がこんな時間から起きているのは三時間後に控えた約束のため。

「普通に買い物に行くだけだっていうのに……」

ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回してじっとりと携帯を見つめる。女の子のデートでもこんなに緊張したことはない。むしろデートで緊張したことなどほぼ皆無だ。そう考えたところではたと思考が止まる。

(……デート?)

確かに二人で出掛けることをデートと呼ぶこともあるが、それは男女の場合が殆どで、友達と一緒に出掛ける場合はデートとは言わないはずだ。

(く、くくく黒子っちはチームメンバーッスから!)

ドキドキと跳ね上がった心臓を押さえ、誰に対してか分からない言い訳を繰り返した。しかし、しんと静まり返った部屋で我に返ると空しいことこの上ない。
ことの始まりはいつもと同じ部活動だった。

「黄瀬君、バッシュの紐替えたほうがいいと思います」
「え。マジッスか?」

ひょいと足を持ち上げてみると、言われたように随分傷んでしまっている。毎日の練習量が多いから仕方がないのだが、こうした維持費が地味にかかるのが悩みどころだった。

「あー……ストックももうないんスよね……どこかいいところとか知らないっスか?」
「ボクがよく行くお店なら安いですけど……ボクもそろそろバッシュ買い換えるので、案内しましょうか?」
「え、いいんスか?」
「明日ならちょうど部活も休みですし。黄瀬君さえよければ」

どうですか?と見上げてきた黒子に頷き、次の日の待ち合わせ場所を決めた。練習を終えて家に帰ってからも、ふわふわとした気持ちが落ち着かない。
ピリリ、とメールの着信を告げた携帯を開くと、黒子から明日の待ち合わせの確認だった。そのメールを見るだけでじわじわと顔が熱くなってくる。

「あ゛ー! こんなん反則っスよ!」

家族にうるさいなどと言われようが知ったことか。彼は今、人生の重大局面に立っていた。



待ち合わせの少し前に到着し、黒子の姿を探す。しかし三回確認してもまだ姿のないことから、来ていないのだと判断してベンチに腰を下ろした。普段待ち合わせには少し遅れるくらいの時間に行くことにしている。そうでもしないと、ファンだと言う女の子達に囲まれて身動きが取れなくなってしまうのだ。
現に今も、ちらちらとこちらに視線を送ってきている女性がいる。

(でも今日だけは遅刻したくなかったんスよねぇ……)

待ち合わせ時間を告げた腕時計に視線を落としてから、周囲を見回す。今日だけはどうしても黒子より先に来ていたかった。待ち合わせに遅れて、黒子に見つけられるのだけは避けたい。何が彼をそんな風に突き動かしているのかは分からないが、黄瀬はそのために普段はしない変装までしていた。といっても、あまり仰々しくやると却って怪しくなるのは学習済みだったため、帽子を被って雑誌とは真逆の地味な色合いの服を着ただけの簡単な変装だ。
中には先ほどのように見てくる女性もいたが、確信が持てないのか声を掛けてくる人がいないのは幸いだった。

「黄瀬君、おはようございます」
「え、あ! 黒子っち! おはようっス!」
「ボクの方が早いと思ったんですが……お待たせしましたか?」
「全然待ってないっス! オレもさっき来たところスから」
「それなら良かったです」

ここに来るまでに読んでいたのだろう文庫本を仕舞い、ちらりと黄瀬に視線を送る。
黄瀬の全身を物珍しげに眺めた後、ぽつりと口を開いた。

「……意外です」
「え、何がっスか?」
「黄瀬君が変装してくるとは思いませんでした。だからさっき一瞬分からなかったんです」
「ああこのカッコっスか。似合います?」
「全然似合ってません」

ばっさりと切り捨て、沈んでいる黄瀬を置いて踵を返す。まさか帰ってしまうのかと手を上げかけたところで、黒子が振り向いた。

「ボクは普段の黄瀬君のほうが似合っていると思います」
「普段ってジャージかユニフォームしかないじゃないっスか」
「はい。だからそれです」
「……?」
「ボクはバスケをしている黄瀬君を見るのが好きですから」

そのまますたすたと店に向かい始めた黒子の後ろで、長い溜め息と共に顔を隠す。

「……だからそういうの、反則っスよ……」

そんな顔で言われて、こんな風に赤くなって。気づかざるを得ないじゃないか、もうただのチームメイトだなんて言い訳がが通用しなくなることに。

「……覚悟してもらうっスよ」

ぶんぶんと頭を振って熱を散らし、黄瀬は先の交差点で待っている黒子の元へ走っていった。

「こんなのどうですか?」

ひょいと右手を持ち上げた黒子の手には色とりどりのシューレースが入った袋がある。それを受け取りながら中身を確認していると、黒子が腕を伸ばしているのが目に入った。どうやら棚の上にあるバッシュを取ろうとしているらしいが、平均的に見ても身長が小さめの黒子では手が届かないらしい。黒子の行きつけだという店は確かに彼らしく、スポーツ用品店としては静かな方だった。店員も必要以上に寄ってこないからゆっくり見るのに最適だという。

「これっスか? はい」

軽く腕を伸ばして取ってやると、きょとんと目を瞬いた黒子にじっと見つめられる。ぽす、と彼の手の平にバッシュを置いてみたが、じっとそれを見つめるばかりで試着しようとしない。もう一度声を掛けると、彼にしては珍しく少し慌てた様子で店内に設えられたベンチに腰を下ろしていた。

「……?」
「黄瀬君すみません、もうワンサイズ小さいの取ってもらえますか」
「ああ了解っスよー」
「……黄瀬君は大きくていいですね」
「へ? 何スかいきなり」

言われたサイズのものを渡し、黄瀬も黒子の隣に腰掛けた。黄瀬の靴をちらりと見て、新しいバッシュに足を入れる。一回り以上もサイズの違う靴に、黒子の肩が少し落ちているように感じた。きゅっとシューレースを軽く結び、感覚を確かめるために立ち上がる。
軽く屈伸したり歩き回ったりして満足したのか、再び黄瀬の隣に腰を下ろした黒子がぽつりと呟いた。

「身長も高いですし、才能にも恵まれています。そのポテンシャルはどうやっても得られるものではありませんから」
「な、何言ってるんスか! オレは黒子っちの方がすげぇっていつも思ってるんスよ!?」
「ボクは一人ではバスケができません。でも黄瀬君ならそれができます」
「嫌っスよ! オレは黒子っちとバスケがしたいんス!」

床に落ちたバッシュに気付いたのは、自分の手が大きな何かに包まれていると知ってからだった。鈍い音を響かせて床に転がったバッシュを見ることができない。それほどまでに、黄瀬の視線が真っ直ぐ自分に向けられていた。
黄瀬はいつも真っ直ぐに人を見ていると思っていた。コロコロと変わる表情も、それに反して雑誌では大人びた表情をすることも知っている。
女子に騒がれて困ったように笑う顔も、バスケをしているときの真剣な顔も。
彼の視線が今、全て自分に集まっている。
その事実に気づいた瞬間、かぁっと顔に熱が上った。赤くなった顔を隠そうにも、両手は黄瀬に掴まれていて動かすことも出来ない。

「黄瀬く……は、離して下さい」
「嫌っス。離しません」
「やめてください」
「……黒子っち、ねぇオレのこと見て?」
「嫌です」
「それまで離さないスよ」

すっと自分に影が落ち、観念して黄瀬の目を見ようと視線を上げた瞬間唇に柔らかなものが触れた。一瞬だけ触れて離れていったその熱に、今度は頭の中が真っ白になった。分かるのは、ただ少しだけ濡れた唇に彼の吐息を感じることだけだ。

「……黄瀬君」
「オレは冗談っていうほど臆病じゃないっスよ」
「な、」
「分かってもらえるまで何度でもするよ」
「……っ」

初めて触れた彼の唇は、予想以上に柔らかかった。両手を片手でまとめて押さえ込み、空いた手を後頭部に添える。酸素を取り込む吐息が熱い。

「黒子っち……可愛い」
「……ふっ、は……」
「もっとキスしていい?」
「駄目、です……」
「あともう一回だけ」
「黄瀬く……っ」

臆病じゃない、なんて嘘だ。
きっと今掴んでいるこの手を離したら、黒子とは今のままの関係でなどいられない。壊したのは自分だが、耐えられないほどの後悔が黄瀬を襲っていた。最後の一回といったキスを終えて唇を離し、目尻に浮かんだ涙を拭ってやる。呼吸が落ち着いた頃を見計らってそっと手を離すと、黄瀬はベンチから立ち上がった。

「……黒子っち、ごめん」
「………」
「殴っても嫌ってくれてもいいっス。でも一つだけお願いしていいスか」
「………?」
「オレの気持ちだけは、忘れないで」

ああもう、笑いたいのにうまく笑えない。最後になるかもしれないんだから泣きたくなんてないんスよ。
何とか彼に向かって笑えただろうか。多分歪んでしまったであろう笑顔が最後になるのは本意ではないが、これ以上我が儘を言っていられない。
床に落ちたバッシュを揃えて黒子の足元に置き、シューレースの袋を持ってレジに向かう。黒子の隣を通り抜けようとした瞬間、くんと服の裾が引っ張られた。

「え……」
「何勝手に自己完結しようとしてるんですか」
「いや、その……」
「押し付けがましい人ですね、本当に」

溜め息を吐いて黄瀬の顔を睨みあげる。その頬にまだ赤みが残っていることに、不謹慎にも心臓が跳ねた。

「……正直、黄瀬君がボクにあんなことをするとは思いませんでした」
「ごめん……」
「人の話は最後まで聞いてください。……嫌、では……ありませんでした。それだけです」

それだけ言った黒子の耳が真っ赤になっているのを見て、黄瀬は自分の頭の中で言われた言葉を反芻していた。
嫌ではないと、そう言っていた。それはつまり、黄瀬の行動に対してということだ。それの意図するところは―――。

「え、黒子っち……っていないし!」

ばっと振り向くと、既にレジで会計を終えて店外に向かう黒子の背中があった。慌てて追いかけて店を出ると、近くの公園に入って行く彼を見つけた。

「ちょっと待っ……こういう時だけ足早いんスから!」

公園の反対側に出ようとしていた背中を抱き締めて、腕の中に閉じ込める。すっぽりと腕の中に入ってしまう存在を確かめながら、黄瀬は長い溜め息を吐いた。もぞりと身動きした黒子が面白くなさそうにぶつぶつと呟く。

「ボクは別に足遅くないです。身長差のせいです」
「そういうことにしておくっス。はぁ……やっと捕まえた」

黒子を抱き締めたまま髪に頬を寄せると、びくりと小さく肩が跳ねた。髪の隙間から見える耳がまた赤く染まっているのは、夕日のせいだけではないだろう。

「ねぇ黒子っち。オレ自惚れてもいいんスか?」
「……勝手にしてください」
「はは、それ答えになってないっスよ」
「なってるじゃないですか」
「そういうことにしておきますか」

もう一度ぎゅっと抱き締め、耳元で小さく名前を呼ぶ。返事はなかったが、何度もそれを繰り返していると諦めたような返事があった。

「大好きっス」
「……そうですか」
「黒子っちは?」
「そこそこです」
「ひどいっスねぇ」
「……そこそこなのに喜ばないでください」
「いいっスよ、その内大好きって言わせてみせるし」
「絶対に言いません」

バスケ以外にも頑固な部分があったのか。新しい彼の一面と、少しだけ変わった自分たちの関係に小さく笑う。すると下からは『何笑ってるんですか、失礼な人ですね』と拗ねた顔と文句がぶつけられた。暫くはこの素直じゃない彼に想いを伝えるところから始めてみようか。
夕日が沈み始めた公園での、ある休日の出来事だった。



20120604
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