気温30度、湿度68%


「どうしたの、黒子っち」

言われてはっとすると、隣に座っている黄瀬が首を傾げてこちらを見ていた。言われるほどじっと見ていたのだろうか。そう考えるとぽっと頬が熱くなる。黄瀬から視線を外して、読み終えてしまった本をもう一度開いた。

「何でもありません」
「そ? それならいいけど」

そう言って黄瀬も再び雑誌に目を落とす。暫く部屋の中にはページを捲る小さな音しか聞こえてこなかった。ここは黄瀬の部屋で、部活が終わった金曜日に電車に揺られてここに来た。それから二人でご飯を食べて、9時からの映画に備えてくつろいでいる。
特に映画が見たいというわけでもないが、何となく見るものもなくてそのチャンネルに合わせたテレビをちらりと見る。ちょうど番組の間に放送される天気予報では、明日の天気が崩れると告げていた。

「明日雨ッスか」
「……みたいですね」
「あ、マネージャーからメール来てる。明日の撮影中止だって」
「雨だからですか?」
「そう、外撮りだったっスから」

画面を操作してマネージャーにメールを返している黄瀬を見て、またテレビに視線を戻す。気温30度、湿度68%。今日も関東は熱帯夜になると可愛らしい服を着た女性キャスターが繰り返した。

「明日も蒸し暑そうですね」
「そうっスか?」

メールを送信し終わった黄瀬が携帯を置き、読んでいた雑誌を下ろす。フローリングに無造作に放られたそれは黄瀬が仕事場で貰ったものだという。映画のために準備したお菓子の袋を開け、ベッドに寝転んでいる黄瀬にずりずりと近寄った。

「ホラーじゃないっスよ」
「こちらの方が落ち着くので」
「そっスか」

くしゃくしゃと黒子の髪を撫で、黄瀬もベッドに座りなおした。黒子を自分の足の間に座らせ、背後から抱き締める形で腕を回す。触れ合った箇所から自分の心臓の音が伝わってしまいそうで、黒子は顔を俯けた。そうすることであらわになった項に黄瀬が唇で触れ、小さなリップ音が部屋に響く。

「ちょ、っと……あの……」
「ん? まだ駄目ッスか?」
「……恥ずかしいです」
「了解っス」

鼻先で黒子の首を辿り、すっと身体を離す。まだ残っている熱に顔を赤らめたまま、黒子もテレビに視線を向けた。
黄瀬と付き合い始めて結構経つ。告白したのは黒子だ。黄瀬は少し驚いた風だったが、すぐに破顔してくれたのを覚えている。
キスはした。軽いのも深いのも。しかしそれ以上の関係にはまだ進む勇気が出ない。黄瀬が何度かそういった行為を匂わせてくるのは感じていたが、先ほどと同じようにかわしてしまう。理由はさっき言ったとおり恥ずかしいからだ。その度にすぐに体を離す黄瀬に申し訳ないと思うと同時に、助かったと感じていた。

「ほら、始まったっスよ」
「あ、はい」

黄瀬の腕の中で見た映画は昔見たことがある洋画だった。内容は殆ど覚えていないが黒子が首を傾げていると黄瀬が説明してくれる。よく知ってるんですね、といったらこの前DVDで見たんスよと答えが返ってきた。

(誰とですか?)

聞けなかった言葉が胸の中に宿ってつきりと痛む。聞いてしまいたいが、そんな女々しい質問をしたくない。黄瀬がもてることは重々承知しているが、それを実際に目の当たりにするのとは別の問題だった。
黄瀬に言わせてしまえば、はっきりと黒子が好きだと告げてくれるのだろうが。
それに彼はモデルをしている。初体験だって昔に済ませていることも知っているし、このルックスなら周囲がほっとかないのも納得だ。そこに考えを至らせれば、どうして黄瀬が自分と付き合っているのか理由が分からなくなってしまう。

「どうしたんスか、さっきから黙ってばっかで」
「……いえ」
「何か悩みでもあるんスか? 熱はないみたいっスけど」

こつんと額をあわせてくる黄瀬にかぁっと頬が熱くなる。睫毛が触れそうなほど近く、吐息が唇を掠める。ゆっくりと瞼を開けた黄瀬は、悪戯っぽい笑みを浮かべて黒子を覗き込んだ。

「熱はないけど、黒子っち顔真っ赤」
「こ、れは……っ」
「かーわい」

ちゅっと軽いキスを頬にされ、続けようとした文句を押し込められる。これも黄瀬の常套手段と分かっていながら、毎回大人しくなってしまう自分にも呆れたものだ。頬からこめかみに唇が触れ、その度に吐息が髪をくすぐる。

「……っ、くすぐったい、です……」
「そうなるようにやってるんス。黒子っち耳弱い?」
「耳が強い人なんていません!」
「オレ結構平気っスよ、試してみる?」

そういって身体を起こした黄瀬にまた胸が軋んだ音を立てた。その経験がどこから来たものなのか考えたくなくて噛み付くように黄瀬の耳を食む。

「うわ、ちょ……黒子っち、勢いありすぎ」
「くすぐったくないんですか」
「このくらいなら平気っス」
「……ずるいです」

元来の負けず嫌いが顔を出し、黒子はちろりと伸ばした舌で黄瀬の耳を舐めた。さすがにそこまでは予想していなかったのか黄瀬の身体がびくりと震える。だがくすぐりに強いといったのは本当らしく、ぽんぽんと背中を撫でる手にはまだ余裕があった。
対して不安定な体勢で慣れないことをしていた黒子はだんだんと息が上がってくる。黄瀬の胸に手を乗せ、寄りかかって耳を舐めているなんてよくよく考えれば恥ずかしい体勢だ。しかし今更撤回するのも悔しくて必死に耳に舌を這わせる。

「何か猫に舐められてるみたいっス」
「……くすぐったいですか」
「ぜーんぜん?」
「負けません」
「だーめ。今度はオレの番っスよ」

ぐいっと腰を引かれ、かぷりと耳たぶに噛み付かれる。同時に耳を撫ぜた吐息にきゅっと目をつぶり、目尻に浮かんだ涙に黄瀬が笑う気配がした。

「黒子っち、かわいい」
「やめ、黄瀬く……」
「そんな顔、オレ以外の前で見せちゃ駄目っスよ?」

耳をくすぐる声にまた新しい涙が浮かぶ。それを唇で吸い取る黄瀬には、黒子の言葉は届かない。

『黄瀬君も、他の人の前でそんな顔しないでください』

これまでもこれからも。ずっとずっと自分だけの彼でいて欲しいと言葉にせずにそっと願う。きゅっと黄瀬の服を握り締め、黒子は額に当たる鎖骨にぐりぐりと頭を押し付けた。その仕草を甘えたがっていると受け取ったのか、黄瀬は背中を撫でる手でぽんぽんと軽く叩く。規則正しいリズムにとろりとした眠気が襲い掛かり、今日も黄瀬に勝てなかったと唇を噛み締めた。もちろん当の本人は何のことか分からないだろうが、黒子は黄瀬にずっと勝負を挑み続けていた。

(いつか絶対に、黄瀬君を振り回してみせます)

閉じた瞼の裏側でそんなことを考えながら、黒子は遠くから聞こえてきたエンドロールの音楽に耳を傾けていた。

20120905
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