坂道と公園


その日も黒子はバスケットボールを自転車の前籠に入れ、長い緩やかな坂道を登っていた。まだ朝の早い時間であれば太陽の光も弱く、坂道を登るのも苦ではない。それでもやはり額に汗を滲ませながら最後の一漕ぎを終えると、黒子は片足を地面についた。
振り向いて見た景色はすっきりとしていて気分がいい。

「黒子っちー」

呼ばれた声に振り向くと、坂道の先にある公園の入り口で黄瀬が大きく手を振っていた。Tシャツにハーフパンツと言うラフな格好で、彼もまた同じく脇にバスケットボールを抱えている。先に軽くプレイしていたのか肩で息をしているのが見て取れた。

「先に始めてたんですか?」
「え、ちょっとだけだって」
「酷いです」

しゅんと眉尻を下げて見せれば大袈裟なほどに慌てる黄瀬の姿があった。わたわたと両手を動かしてうろたえている様はおおよそモデルというにはふさわしくない。思わず小さく噴出すと、からかったのだと知った黄瀬が黒子の自転車のハンドルを取った。

「黒子っちの方が酷いじゃないっスか!」
「っ、ちょっと黄瀬君」
「さっさと始めるっスよ!」

自転車を入り口に停めて公園の奥へと進む。まだ新しい公園にはバスケットコートが併設されていた。
夏休みということもあり、黄瀬は仕事の都合も考えて東京の実家から部活へ通っていた。ちょうど誠凛の部活が休みの日と黄瀬のオフの日が重なり、こうして公園で待ち合わせるに至ったが、完全オフだというのにバスケをしている自分達にはもう笑うしかない。
黒子も着ていたパーカーをベンチにかけ、前籠からバスケットボールを取り出す。

「んじゃ、行くっスよ」
「こちらの台詞です。絶対に抜いてみせます」

体勢を低くして向かい合う。互いの間にピンと緊張感が張り詰める感覚は何度経験しても楽しくて仕方がない。バスケをもう一度楽しいと思えることを、黄瀬自身も嬉しく感じていた。しかも今日の練習は黒子と一緒だ。そうなればテンションが上がってしまうのも仕方のないことだった。
そう、仕方がない。
だがそんな言葉で片付けられない現状に黄瀬は溜め息を吐いた。黄瀬が今いるのは、公園から近い場所にあるドラッグストアだ。レジで袋を受け取り、急いで公園に戻る。ベンチに寝かせている黒子に走りよると、袋の中からペットボトルとタオルを取り出した。一緒に買ってきた冷却シートを黒子の額に貼り、タオルを水道の水で濡らす。ぐったりとしている黒子の隣に座り、濡れたタオルで汗を拭ってやる。

「黒子っち、大丈夫ッスか?」
「平気、です……」
「ごめん、休憩挟めばよかったっスね」

口元にペットボトルを運んでみたが、飲む気力もないのか口を開こうとしない。ただ冷やしたタオルは気持ちがいいのか、目の上に乗せてやるとほっと息を吐いた。だが水分補給をしなくてはよくなるものもよくならない。それに加えてだんだんと角度を変えた太陽が、ベンチの日陰を蝕んでいることも気になっていた。

「黒子っち、ちょっとごめん」
「え……」

黒子の返事を待たずに彼の膝裏に手を差し入れ、そっと持ち上げる。あまり振動を与えないように肩に手を回した黄瀬に、黒子は焦ったように目の上のタオルをどかした。しかしくらりと回った視界に大人しくなった黒子は、黄瀬の腕の中で力を抜いた。そんな黒子を心配そうに見つめながら、黄瀬は足早に木陰に移動して腰を下ろす。朝露の乾いた芝がかさりと小さな音を立てた。

「ごめん、大丈夫?」
「黄瀬君……次はないですよ……」
「また倒れられたらオレが困るんスけど」

そう小さく笑って黒子の口元にペットボトルを運ぶ。先ほどと違い、黄瀬の膝を背もたれ代わりにしている黒子はペットボトルを両手で受け取った。こくこくと小さく喉を鳴らしている黒子に安心し、生温くなってしまったタオルに苦笑する。

「これ少し濡らしてくるっス。黒子っちここに寄りかかってて」
「大丈夫です」
「え、でも暑いでしょ?」
「これがあるから平気です。それよりここにいてください」

これ、と冷却シートを指差して黄瀬の膝に体を預けた。本当なら横になった方がいいのだが、芝生にそのまま寝転ばせるのも気が引ける。結局黒子の体を支えることに専念した黄瀬は、甲斐甲斐しく飲み物やらタオルを差し出していた。
木の下から見上げた空はどこまでも青く、白とのコントラストが美しい。自分達に落ちていく影の隙間から見えるそれらに目を細め、黒子の髪をそっと撫でた。

「具合、どうっスか?」
「少し楽になりました」
「飲む?」

ペットボトルを傾けてスポーツドリンクを飲ませる。ふうと息を吐いた黒子がタオルの下から黄瀬を見上げてきた。

「……すみません、せっかくのオフなのに」
「そんなの気にしなくていいっスよ」

前髪の生え際に指を乗せて撫でると、気持ちよさそうに目を細める。ふと猫がごろごろと喉を鳴らしている様子を思い出して顔が綻んだ。

「黒子っち可愛い」
「……あのですね、ボクは男で……っ」
「―――……可愛い」
「……黄瀬君」
「何?」
「ちょ、っと……離れ……」
「いーや」

そういって再び黒子の唇を塞ぐ。濡れたタオルがTシャツに落ち、じわじわと色を濃く染めていた。時折唇を離して呼吸の時間を与えるが、すぐにそれすらも奪うほどに唇を押し付ける。黄瀬に支えられる形の黒子には彼を押し返す力もなく、酸欠と暑さでまた倒れてしまいそうだった。

「黄瀬、く……っ」
「は、はは……黒子っちやらしい顔してる」
「誰のせいですか……っ」
「オレっスね」
「んぅ……っ」

ずるりと剥がれた冷却シートが地面に落ちて汚れていく。すっかり意味を成さなくなったそれに、恨めしげな視線を向けた。

     ◆

「くーろこっちー……まだ怒ってるんスかぁ?」
「………」
「ごめんってー」

黒子の背中に向かって情けない声を上げているのは片付けを済ませた黄瀬だった。あの後も黒子の制止の言葉はことごとく無視され、結局黄瀬が満足するまで求められた。まだ熱の下がらない頬は熱中症のせいだけではない。
また新しい冷却シートを額に貼り、黒子はじろりと黄瀬を睨んだ。その視線にぴっと視線を正し、黒子の次の言葉を待っているのは悪戯をして飼い主に怒られるのを覚悟している子犬のようだ。そろりと様子を伺う視線に小さく笑い、黒子は人差し指を立てた。

「マジバのシェイクを、Mサイズで」
「了解っス!」

ぱぁっと明るくなった表情の黄瀬は入り口に停めていた黒子の自転車を引いてきた。前籠に二人分の荷物を放り込み、サドルに跨る。ぽんぽんとリアキャリアを叩く黄瀬に、黒子の眉間に皺が寄った。

「黄瀬君は走ってくるんですよ」
「嫌っスよ! 自転車っていったら二人乗りじゃないっスか!」
「二人乗りは犯罪です。荷物だけは持っていってあげます」

ぐいぐいと黄瀬をどかそうとするが、体格で敵わないのは見た目からも明らかだ。黄瀬もそれを知っていて、一瞬の隙をついて黒子の身体を持ち上げた。そして黒子が文句を言う前に地面を蹴った黄瀬は、滑るように走らせた自転車のペダルに力を込める。緩やかと言えど坂道に出てしまえば加速するばかりで、黒子は開きかけた口を噤んだ。それに正直なところ、風を切る感覚が心地いい。

「気持ちいいっスね!」
「……黄瀬君、Lサイズに変更です」

さっき貼ったばかりの冷却シートをはがし、黄瀬の背中に額を当てる。流れ込んでくる体温にどこか恥ずかしくなりながら、坂道の下に着くまでに顔の熱が下がりますようにと心の中で願っていた。

20120822
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