あの、と呼び止められるのは初めてじゃない。下駄箱を開ければぱらぱらと手紙が降ってくるし、調理実習なんかあった日には糖尿病になるんじゃないかってくらいお菓子を貰う。幸い中学のときは紫原が同じクラスだったからいいものの、高校になると煩わしくてたまらなかった。それでも今日も仮面をつけ、愛想のいい笑みを浮かべてプレゼントを受け取る。何だかんだ、このやり方が一番スムーズに事が進むのだ。苦手だからとか理由をつけて納得してくれるほど、彼女達は物分りがよくない。
「ごめん、今は誰とも付き合う気ないんだ」
定番の場所に呼び出されて定番の告白を受ける。いつもと同じ言葉で断り、眉を寄せて少し困った表情を浮かべればそれでいい。目に涙を浮かべて走り去った彼女の名前が何だったか、それすらも思い出せないまま黄瀬は置いていたカバンを拾い上げて校門を出た。
ああうるさい、煩わしい。
何だってこんな派手な顔に産んでくれたのかと両親をつらりと恨む。しかしこの顔だからこそ得をしたことの方が多く、黄瀬は恨みを飲み込んで小さく笑った。
―――そう、得もしたのだ。
黄瀬は校門を出てから寮とは反対の方向へ足を進め、程なくして到着したマンションのエレベーターに乗り込む。迷いなく目的の階を押して開いた先の廊下を奥に進んだ。角を曲がったところにある一番奥の部屋の前で立ち止まり、カードキーで解錠する。ピーッと音がして赤いランプが緑に変わった。
「ただいま」
薄暗い玄関から声を掛けるが、もちろん返事はない。靴を脱いで廊下を進む途中にはドアの閉まった部屋がいくつかあるが、黄瀬はそれらには見向きもせずに一直線にリビングへ通じるドアを開けた。先ほどまでのゆったりとした足取りなどではなく軽く足がもつれるほど急いでいるのは、このドアの向こうに大好きな大好きなあの人がいるからだ。
「ただいま、黒子っち」
「………」
「ねぇ、お帰りくらい言ってよ」
「……どう、して」
「まーだそんなこと言ってるんスか? もうあれから一ヶ月っスよ?」
「いっか、げつ……」
「そう、一ヶ月。黒子っちが」
オレのものになってから。
黒子の耳に唇を寄せて低い声で囁く。その言葉にびくりと肩を震わせた黒子は、カタカタと歯を鳴らして黄瀬から視線を外した。その態度に口端を下げ、ふわふわとして柔らかい髪の毛を乱暴に掴んだ。頭皮を引っ張られる感覚に黒子が小さく呻き、そろりと視線を上げて黄瀬を見る。
「やだなぁ、もう忘れちゃったの?」
「黄瀬、く……」
「黒子っちがオレに告白してくれたじゃん。オレすっげぇ嬉しかったんスよ」
うっとりとした表情で語りだす黄瀬に、黒子はそっと目を伏せた。その目尻から流れる涙がぽつりとフローリングに散って、歪んだ形に広がる。
ことの始まりは一ヶ月前、黒子が黄瀬に告白した日のことだ。男同士で変だとも思ったし、学校が変わったのだからそのまま諦めてしまえばいいと思っていた。それでも時々黄瀬に会うたびに黒子の中で気持ちが膨らみ、抑え切れない思いを吐露してしまった。
黄瀬はきょとんと目を瞬いたあとに黒子を抱き締め、耳元で何度も確認の言葉を繰り返す。
『ねぇ、黒子っち。今の言葉ホント? 嘘とか冗談だったらオレどうすればいいか分からないんだけど』
『冗談じゃないです……』
『オレのこと好きって、もっかい言って』
『……好きです。黄瀬君のことが好きです』
『やべぇ、すっげぇ嬉しい』
そろりと持ち上げた手で黄瀬の制服を掴み、黒子も夢のような展開に酔っていた。そのまま黄瀬に手を引かれ、二人で黄瀬が所有しているというマンションに向かう。その途中で確か黄瀬は寮で生活していたはずだと思い出して軽く手を引いたが、寮は出たんだという黄瀬の言葉に頷いてまた足を進めた。思えばあの時点でおかしいと気付くべきだったのにふわふわとした自分の足取りは全く現実味を帯びておらず、黒子はエレベーターの中でされたキスの酩酊感に酔いしれていた。
壁に押し付けられて、足の間に膝を割り込ませられて。思わず力が抜けた膝が崩れ、黄瀬の膝に跨る形で支えられる。微かに黒子の反応を楽しむように揺らされる膝にかぁっと顔を熱くして黄瀬の制服を掴んだ。
『……こっち』
入った部屋は一人暮らしというには広すぎるほどで、家族と一緒に住んでいるのかと考えて足が竦んだ。そんな黒子に黄瀬は一人暮らしだと告げ、慣れた足取りで奥に進む。ぴっちりと閉じられたドアを二つほど通り過ぎたあたりで広いリビングに通された。
『何飲む? 紅茶? コーヒー? ジュースも一応あるけど』
『えっと……ジュースをお願いします』
『オッケー』
『あ、あの……お手洗い借りてもいいですか』
『ああ、廊下の奥っスよ』
ひらりと上げた手に会釈をして、黒子は先ほどの廊下に戻った。奥といわれてもドアが左右あわせて三つ並んでおり、左側に二つと右側にひとつある。奥というからには左側の手前の扉は違う。だが左右どちらの扉か分からず、黒子は右側のドアに手を掛けた。もし違ったらすぐにドアを閉めればいい。そう考えてドアの隙間からそっと中を覗き込むと、信じられない光景が広がっていた。
『……っ!』
夥しい数の写真が壁一面に貼られている。それは風景とかそういうものではなくて、黒子が最も見慣れているものだった。カーテンの閉められた部屋は薄暗く、デスクの上に灯ったライトがぼんやりと部屋を照らしているだけだ。それに浮かび上がる形で、黒子の写真が所狭しと貼られていた。大きな写真はそれこそ等身大くらいあるんじゃないかというほどで、その異様な光景に手が震える。
『あーあ、左って言わなかったっスか?』
背後から聞こえた黄瀬の声に心臓がぎゅっと握られる感じがした。どう見ても異常だ。足元から這い上がってくる寒気が服の下を通り、背中をゆっくりと駆け上がっていく。ひやりと冷たい液体が肩にかかり、びくりと身体を跳ねさせた。視線だけをそちらに向けると、ガラスのコップから垂れた液体が制服を通して肩に染み込んでいく。
『はい、ジュースお待たせ』
『黄瀬君……これ、は……』
『ああこれ? 凄いでしょ。こんだけ集めるの大変だったんスよ』
すいと入り込んできた指が制服を剥がし、床に放る。水を含んで肌に張り付いたシャツも脱がそうとする黄瀬の手を止めて震える唇で言葉を継いだ。
『何なんですか……!』
『何って、オレも黒子っちのこと好きだったから』
『でも、これは……っ』
『黒子っちだって、オレの顔撮ってたじゃない』
顔の横に掲げた黄瀬の手には、カバンに入れていたはずの自分の携帯があった。データフォルダには鍵を掛けてあったのに、何故か今黄瀬が持っているディスプレイには黄瀬自身の顔が映っている。パスワードのことなど愚問とでも言うように、黄瀬はディスプレイに視線を落とした。
『でも黒子っちに好かれるなら、この顔でもいいかな』
『………っ』
『ねぇ黒子っち、オレの顔のどこが好き? 嫌いなところでもいいよ、治すから』
ばさりと着ていたシャツを放られ、濡れたことで冷たい肌に黄瀬の舌が這う。するすると伸びた手がベルトのバックルを外す音を、どこか遠くで聞いていた。
それからいつの間にか一ヶ月も経っていたということを黄瀬の言葉で思い出して取り上げられた携帯電話やら何やらを恨めしく見つめる。部屋の隅に置かれているそれらには黒子の手は届かない。それどころかリビングを自由に動くことさえできないのだ。少しでも手を動かせばすぐに鎖の音がして、自分が拘束されている事実を思い出させる。同じく足につけられた枷も1メートルほどの長さしかない。トイレも食事も何もかも黄瀬に支配された生活をこの一ヶ月送っていた。最初の頃は逃げ出そうと色々画策もしたのだが、すべて徒労に終わった。それだけでない報復もあったことを思い出し、黒子はゆるりと頭を振る。いつか飽きるかもしれない、そう考えて黒子は黄瀬が用意していった食事に手を伸ばした。
「………」
本当は食欲などない。しかし食べなければ体力が持たない。今日もこれから来るだろう時間のことを思い出して無理矢理に咀嚼した。一緒においてあった水で食事を流し込み、寝床代わりのソファーに寄りかかった。
「黒子っち、ただいま」
ふわりと柔らかなキスで起こされ、黒子はぼんやりと目を開いた。目に入り込んできた金髪に切れ長の瞳は真っ直ぐに黒子を愛しそうに見つめている。キスされて濡れた唇で彼の名前を呼ぶと、蕩けそうな顔でもう一度覆い被さってくる。苦しくなる呼吸は黒子から思考能力をじわじわと奪っていくようだ。入り込んだ舌に蹂躙され、零れる唾液も構わないほどキスに没頭する。しばらくして、自分が黄瀬の首に腕を回していることに気付いた。
(……仕方がないです、気持ちいいんですから)
一瞬引きかけた手はそれ以上の快楽に飲み込まれ、小さな声を漏らしながら今日も行為に耽る。そうした後は黄瀬が風呂に入れてくれるから、黒子はいつの間にかあの行為を拒まなくなっていた。
それに、黄瀬の言ったことも正しいのだ。
黒子は黄瀬の顔が好きだった。どんな顔でも自分のものにしたいという欲求が膨らんで膨らんで、ふと零してしまった胸の内があれだ。黄瀬は言葉の表面しか受け取っていなかったようだが、もっと深い場所で黒子は黄瀬を欲していた。
(いつか、泣かせてみたいです)
自分の上に跨って腰を振る黄瀬を見ながら、黒子はそのときのことを想像して反応する自身に薄い笑みを浮かべていた。
20120813