トン、トン、…トン、トン、……トン。不規則に動かしている自分の指を眺めて、臨也はそのままキーボードになまぬるい視線を送り続けていた。トン、トン。弾くように、強い力を持たないそれは、パソコンの画面上に何の文字を打ち出す事もない。何秒か続けて、臨也はそこでようやく指を持ち上げた。音を立てていた人差し指を何度か折り曲げる。そうしてからじっと見る。
「波江さん」
返事は無い。臨也が顔を上げると、女は書類を茶封筒に入れながらこちらを見ていた。背中に流れる長い髪は美しいけれど、昔の時代は垂れ流すのは惰性の象徴だったらしい。それをぼんやりと考えたままにしていたら、目の前の美しい顔がきりりと眉を上げたので、臨也はとりあえず口を開いた。
「それ終わったなら、何か飲み物欲しいな。何でもいい」
「…そう」
波江は短気だなあ。臨也は思った。矢霧製薬に勤めていた頃もこんなふうに不機嫌を隠す事もなかったのだろうか。部下になら構わないが、上司相手にそんな顔ができるだろうか。そこまで考えて、臨也は違うなと少し笑った。
折原臨也に対してのおべっかなんてもったいない。自分でそう考えて、自嘲的なものとはまた違う、少し楽しげな笑みを浮かべた。
波江が茶封筒をデスクの上に置いて、キッチンの方へ歩き去る。臨也は改めてそのデスクを見てから、部屋の景観を眺めた。落ち着いてはいるけれど、統一されたそれには生活観がない。統一されたもののなかに、ひとつ異色なものがあるだけで、部屋というのは変わってくる。派手な色のクッションやかわいらしいぬいぐるみや、アイドルの、野球選手のポスター。しかし臨也の部屋にはそういうものがない。モノトーンには、色が無いような気がする。黒色と名づけられたそれなのに。臨也は人の部屋というのも好きだったが、入り込むまでの親愛を得るというプロセスは面倒だなと思った。人の部屋から人間性は出る。社会性。自分の部屋を見て、つまらない人間だなあと考えた。意識してのモノトーンだったけれど。
波江が戻ってくる。盆には2つカップがあったので、休憩時間、と臨也は内心で呟いた。2人して休憩をとると言っても、彼女はそんな意識無いだろうけれど。彼女の意識の先に臨也はいない。
茶封筒を端に追いやって黒いソファに腰掛けると、向かいに彼女も腰を下ろして、デスクに小さな音を立てて盆を置いた。
「波江さんはさあ、男と女、どっちがより完璧だと思う」
「…はあ?」
眉を寄せた女に苦笑して、他意がない事を伝えた。けれどその表情は保たれたままだったので、臨也は誤魔化すようにカップを口に寄せた。紅茶の香り。それが匂って、ああ俺コーヒーより紅茶のが良かったな、今日。なんて臨也は思った。
「高校の生物の授業をふと思い出してさ。染色体の、46本目。いや、45と46かな、XXとXYの違い。波江さん製薬会社勤めだったし、理系だろ」
「それが何よ」
「男は不揃いな生き物だなあって」
薄れていきつつある昔の事に感慨はない。けれどあの時の黒板の上にあった大きな字。濃くて大きな字をかく教師だった。生物学ではちょっとした差別用語が使われるのを意識してか、しきりに差別ではなく遺伝の話で、そういう訳でこれは。気を配る人だなとちょっと面白かった。
「XYだから小さな頃は体が弱いんだろ、確か男って」
「そうね」
波江の相槌はひとつの音でしかない。話を広げる努力なんて彼女はたった1人にしかしない。だからといって会話に不満を抱かれている訳でもないと臨也はうっすらと感じていたので、そのまま続ける。視界の端には放っておかれたパソコンが画面を黒くしたのが分かった。臨也はまた指を折り曲げる動作をした。
「それに比べたら、全て揃ってる女っていうのは、完成されているね」
「……あなた、本当にそう思っているの」
「どうだろう。でもあの時は、確かにそう思っていた気がするな」
「今は」
「だからどうだろう、って」
波江が溜め息を吐いたので、ちょっと面白くなくなって臨也は目を眇めて紅茶を飲んだ。あんまりに甘いと匂いが薄れるような気がするから、苦くても砂糖は無い方が嬉しかった。波江の方には砂糖が入っている。今度はちみつでも買おうかな。そう考えてから、波江を伺うと、彼女は書類を手にしていた。仕事人間ってこういう人かなあ。
「君の世界は弟くんだね」
「当たり前じゃない」
目が合った。
「揃っているね。男と女だ」
肯定的な意見を述べると、表情は少し和らいだ。それが少し、わくわくするような、くすぐったいような気持ちを浮かばせる。恋をする人間っていうのは何ていうのだろうか、すこし、かわいらしい。まあこの女は怖いくらいなんだけれど。臨也はそれでも楽しかった。しかし楽しむ為には、弟くんの名前を口にするのはタブーだ。名前を口に出すだけで、独占しているはずの気持ちが、奪われるらしかった。
臨也にまったくの関心の無い波江が、なんとなく好きだった。
「どうだろうって言ったけど、やっぱり今は人間は不揃いだと思っている」
愛する弟にしか関心の無い波江が、なんとなく好ましかった。
「でも俺は思うよ。君の、そのせかいは、完成されているように見えて、ひどく美しい」
なんとなく口説いているような言葉に面白くなりながら、臨也は紅茶を飲み干して、礼と賛辞を述べた。ありがとう、おいしかったよ。少し気分がいい。仕事再開だ。ぐっと背中に力を込めて、パソコンに向き合うと、波江も飲み干したらしく盆に片付けてから立ち上がった。
「どうもありがとう」
どちらに向けての礼だったろう。
温度の無いその言葉を、なんとなく臨也は愛していた。





46のXとY、そのせかい

(120218)(120317)
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