初恋視感度 | ナノ
初恋視感度

 
 叩かれたり、方向が捻れたり、ボールが自在に飛び交う体育館で、日向は、慎重に一歩を踏み出した。自分の目の前に続く道を確かめるように、床を爪先が触れてから、そうっと踏みしめてみる。緊張が嫌な風に全身に染み渡り、胸の下の辺りから、くつくつと吐き気が込み上げてくるが、喉をきゅっと閉口し、ついでに、持っていていたバレーボールをきつく抱いて、それをしまいこんだ。外に出れない吐き気が腹部をぐるぐると迂回し、余計に嘔吐を催すけれど、この緊張を周りに悟られないよう、平静を繕うことが優先だ。
 日向は小さく意気込んで、チームメイトの影山を見やった。コートの脇でしなやかな黒髪が揺れている。影山は難しい顔をして、同じポジションの菅原と話をしていた。きっと、技術面とは違う側面で、先輩に学ぶことがあるのだろう。それが何なのか、日向にも少しだけ分かる気がする。
 しばらく、その姿を見つめていると、縄くらいの太さをした緊張の糸が日向を結い絡げ、激しい勢いで頬が火照っていく。不意に、火山が噴火する光景が頭をよぎった。

(や、やっぱ、今日はやめておこうかな!バレーに支障が出るかもしんないし!)

 大慌てで理屈を繕い、安堵している自分がいる。『今日も』の間違いだろ、と、どこかで冷静に物事を見つめている目があった。

(違うことに気を取られて、大好きなバレーを疎かにしたくないし!)

 そうやって自分に言い聞かせ、もう惑わされないぞというかたくなな決意を込めて、もう一度、影山を一瞥してみる。すると、彼は、森林の奥深くに潜む、危険を嗅ぎ分けた獣のような鋭い視線をこちらに向けた。日向は一瞬呼吸を忘れ、その瞳に見入った後、大急ぎで顔を逸らした。

(なな、なんでこっち見てんだ、アイツ)

 大仰に跳ねた心臓を押さえつけるように胸に手を当て、日向を見やる、切れ長の目尻が特徴的な瞳を思い出すと、雷に打たれたような衝撃が日向の神経を逆撫で、瞬く間に全身から嫌な汗が奔出した。

(じ、自分の臆病さを、バレーに責任転嫁しちゃ駄目だ!!)

 バレたら影山に殺される!と、理性と本能が栗毛立ちながら同時に訴え、脳内で叫ぶ。
 日向は気付かれないように、そろりと影山を窺い、初めてびっくり箱を見た子供のように、目を丸くした。影山は、眉を寄せ、ぎょっとして大きく開かれた目をあらぬ方向に投げていた。その表情は憔悴に溢れていて、やがてそれは、日向の方へ据えていく。日向が初めて見る、新しい影山だった。本当に、初めてびっくり箱を見た子供の気分だ。

「…?なんだ?」

 日向は顎に指を当てた。どうして、そんな焦ったような顔をしてこちらを見ているのだろう。その真意を探ろうとして、小首を傾げたとき。

「日向!!」

 焦慮を滲ませて自分を呼ぶ大きな声が、耳の奥までびりびりと切り込める。今日はみんな焦る日なのかな…、と、呑気に考えながら、声が聞こえた方向に沿って振り向くと、視界いっぱいに、影を差した茜色と橙色が回転していた。ヤバイ、と直感が騒ぐが、反応する間もなく、猛威を振るってボールの威力が日向のこめかみを打撃する。ぐらり、と、日向の足場が大幅に崩れた。
 何かが破損したような、とても大きな音が体育館に響き、一瞬にして、これまで聞こえていた音が止んだ。まるで、世界に沈黙が訪れたかのような静寂だった。いや、あるいは、日向を包囲する世界は、いくつかの変哲を繰り広げながらも、いつも通り忙しなく動いているのかもしれない。その中で、日向だけが音の世界を失ってしまったのかもしれない。
 的に命中し、弾けたボールは、宙で整った弧を描き、ゆっくりと降下した。床を小さく跳ねるボールの音がする。

「…あれ?」

 日向には、痛みはなく、倒れ込んだような衝撃もなかった。どうして自分は倒れていないのだろう、あんなにも大きくバランスを崩したのに。不思議に思っていると、日向は、自分の肩を支える硬い温度に気付き、痛みを覚悟して閉じていた瞼を、そうっと開いた。
 そして、日向を覗き込む黒い瞳に、肝を潰した。

「何ぼーっとしてんだよ、お前」

 先ほどまで、ここにはいなかった彼が、今、ここにいる。影山が、ここにいる。爪先を空に向け、倒れる間際だった日向の体を、支えてくれたんだ。

「打ったとこ、大丈夫かよ」

 どこか呆れたような様子を滲ませた剣幕で、影山が顔を詰め寄せてくる。日向は微かに頬を赤らめた。悔しいけれど、影山は端整な目鼻立ちをしている。

「ありがと、だいじょ…」

 大丈夫、と返答を続けようとしたが、不意に、影山が触れている肩から、背中から、彼を意識して萌芽した緊張が沸々と蘇ってきて、日向は、あっという間に、体中に隠された体温を引き出し、滑稽なほど面貌を真っ赤に染めた。

「?おい、ひな…」
「ふんぎゃあああーーー!!!」

 日向の胸内で、恥ずかしさが、日光浴をして元気を取り戻した小鳥のように、羽を広げて大きく飛翔する。それを影山に悟られたくなくて、ますます火照る頬や、どぎまぎする心臓の音を気付かれないように、日向は、影山の堅い胸に委ねていた頭を思い切り起こした。勢いあまって、彼の顎下を頭突きするくらい厳烈に。
 岩石が衝突し合ったような悲惨な音が体育館に響き、再び沈黙が訪れた。夏なら、蝉時雨さえ、しんと静まり返ってしまいそうなほど、気疎い沈黙。日向の心に嫌な予感がよぎった。

「日向…てんめえ……」
「ご、ごめん…」

 どこか遠くで、恥ずかしさが、恐怖に塗り替えられていく音がする。
 おじおじ影山を見れば、その顔に影を落としていた。いよいよ、日向の意識の内を霧が這っていく。恐怖のあまり卒倒してしまいそうだった。

「か、影山…、日向も悪気があったわけじゃ…」

 助け船を出してくれたのは、菅原だった。こういうとき、菅原はいつも助けてくれる。穏便に物事を片付けようとしてくれる、頼りになる先輩だ。

「そうだぞ影山!元はと言えば、日向にボールを当てたのはこの俺だしな!」

 そう言って、田中も後押しをしてくれた。日向が、何となしに田中を見やると、彼は日向に、仕草で謝っていた。少し口端が笑っている。
 気がつけば、いつの間にか、チームメイトのほとんどが、焦ったような顔をして、日向と影山を囲んでいた。その中に、大地の姿はない。顧問の武田もいなかったので、場所を変えて部活に関する摯実な話をしているのだろう、と思う。日向は少し驚いて、いつからこうなってたんだろう、と疑問に思った。
 菅原と田中を交互に一瞥し、日向に戻された影山の視線は、まだ憤懣を帯びている。
 影山が、こういうことを忌み嫌うことを、日向は身を以て知っている。けれど、その厭忌の部分に踏み込んでいくのは、決まって日向だった。

「…ぼーっとすんなよ、練習するぞ、日向」

 その一言に、菅原たちが安堵したのが分かった。月島だけが、嫌味っぽく笑って、命拾いしてよかったね、と声をかけた。そうして、みんなが自分の持ち場へ戻っていく。

(…影山?)

 体育館に陽の光が差し込み、不意に眩しくなって、日向は顔を顰める。これから、朝の颯爽とした空気が、どんどん白昼の暖かさへと塗り替えられていく合図だ。眩い陽の光が、踵を返して練習に戻る影山の背中を包み込み、普段からつかみどころのない影を、光で白く染めて、ますます見えにくくしている。
 きっと、乱暴に咎めようとしなかった影山に、日向だけが妙な違和感を抱いている。いつの間にか、影山は、日向を思いやり、憤懣を行動に転じなくなったのだろうか。影山らしくない、と、日向は思った。

「おい、日向!!サーブ打ってやるから、レシーブの練習すっぞ!!」
「お、おうっ!」

 影山の呼びかけに、日向は慌てて返事をして、コートへと駆け出した。

(しばらく、言うのはやめておこう)

 もしかしたら、一生、言わずじまいだったりして、と、冗談まじりに胸の中で呟くと、本当にそうなってしまいそうな気がして、日向は怖くなった。


 部活動の朝練習を終え、迎えた一限目の社会の授業。日向はすっかり自信喪失していた。先ほどの朝練の様子を思い出すと、大きさをどんどん増して、背中とパーカーの隙間にどっぷりと衰勢が募っていく。起床した段階では、いける気がすると思ったのにな…、と胸中で呟いた。

(人生はノリだけで生きない方が安全だな)

 自然と溢れる溜息をそのままに、日向は机の上に突き伏した。正確には、机の上に広げた教科書とノートの上に。
 どうしたらいいんだろう、と日向は改めて考えてみる。誰かを好きだと自覚したその先は、何をするのが適切なのだろう。考えれば考えるほど、納得できる答えから道が逸れていく気がして、日向は考えることを止めた。

(こういうの、よく分かんねえし、改善点を探した方が早そ…)

 教室の換気をするため、窓が微かに開いている。外で枝葉が靡いている音が、ゆるやかな風にのって、教室になだれ込んできた。葉を削ぎ落とすような乱暴な風の音ではなく、胸の中に息づく苦しい感情を、どこか遠くまで運んでいくような、心地いい風の音だった。
日向は、その空気を胸いっぱい吸い込んで、静かに吐き出した。気持ちが、少し和らいだ気がする。今なら、冷静に自分を見直すことができそうだ。
 日向の心は、深い洞のようになっている。ちょうど日向が入り込めるくらいの、小さな穴の入口から、淡い陽が微かに差し込み、洞の奥を照らしているのだ。そこには、日向が見たことのない花がいくつも綻んでいる。その中でも、日向は、柱頭を隠すようにして気弱そうに咲く、白い花に目を奪われた。本音を告白しようと勇気を絞るけれど、伝えたい感情の顔を思い通りに外に出せない、歯痒い自分とそっくりだと思った。この洞いっぱいに咲き誇る花たちは、日向の感情そのものなのだ。
 日向は、影山に好きと伝えたかった。起床したときの自分は、日向の頼りない背中を優しく押してくれているように聞こえた、鳥たちの鳴き声に鼓舞され、今日こそは言おう、と意気込んだけれど。いつも、本人を前にしてみると、いつでも言うことができる、という意識が、日向を、目には見えない緊張の糸できつく結い絡げてしまうのだ。そして、それを自分で解くことができずにいる。そうして、今日も失敗した。日向が明快に頭突きを繰り出し、少し赤くなっていた影山の顎を思い出す。

(あの後、腫れたりしなかったかな…)

 このままでは、告白するよりも、影山に嫌われることの方が早い気がする。それはまずい、と心が急くけれど、日課のように、ぐるぐると同じ道を辿ってばかりで、すっかり迷路に迷い込んでしまった日向の心は、まだ出口を見つけ出せずにいる。
 どうしたらいいんだろう、と、日向は、肺の底から息を吐き出した。緊張も、羞恥も、自分を邪魔する感情なら、溜息と共に吐き出すことができたらいいのに。
 もっと上手に生きたい…と口の中で呟いたとき、頭上から憤懣を被った大人の声が降ってきて、日向の額に汗が滲んだ。

「日向、さっきからノートを取っていないように見えるけど?」

 それは、授業中という時間が、自分の世界に潜伏した日向の意識に根を下ろすには、充分すぎる刺激だった。



 職員室に立ち篭める、コーヒーの苦い芳香が日向は苦手だ。それは大人の領域で、その匂いを嗅ぐたびに、大人になれそうにない、とさえ思う。
 日向は昼休みを迎えると、社会を担当する先生の言いつけ通り、クラス全員から集めた社会のノートを職員室にまで持っていき、先生は不在だったので、代わりに先生の机にそれらをどさりと置いた。すると、クラス全員分のノートがぐらぐらと揺れて、不安定だったので、日向はノートを二つの山に分けた。
 一つの仕事を終えると、心に余裕ができて、他のことにも注意が及ぶようになる。より強くコーヒーの芳香が鼻孔に散漫して、日向は眉を顰めた。早足でその場を後にすると、大きく息を吸って、新しい空気を体に取り入れ直す。すると、外の空気が欲しくなったので、渡り廊下を通って教室へ戻ることにした。
 渡り廊下は心地よかった。ほどよく陽が差し込み、颯爽とした風が、中庭の花壇に咲く花を優しく撫でている。

(花…)

 日向は胸に手を当てて、学校に沿うようにしてプランターの土から伸びている花を見つめた。たくさんの花があるが、日向の視界に留まったのは、たったの一種類だけだった。日向は、心の中にある洞を思い出し、もっと近くで花を見てみよう、と、上履きのまま中庭へと足を踏み入れた。地面が少し湿っている。
 その花は、プランターを飛び出すようにして咲いていて、一つのがく片から同じ花がいくつも伸びて、まとまりを作っている。

(一つの土台に一つの花だけが育つってわけでもないんだ…)

 同じように、心は一つきりだけど、そこから息づいていく感情は、決して一つだけではない。自分が抱える案件の足に、沢山の感情の腕がしがみついて、一歩を踏み出せずにいるように。

(そもそも、なんでオレ、影山に告白したいんだろー…)

 日向は花の前に屈み込み、ほのかに、花弁に触れてみた。とても軽く、淡々しい重みだった。

(影山のことは好きだけど、だからと言って、告白しなくちゃいけないって決まりがあるわけじゃないし…、多分)

 突然、風が騒めき、日向の心の、誰も触れたことがない部分を、淡く燻った。その時、急にそこが、じん、と痺れたけれど、どのような感情を隠し、気づけずにいるのか、自分のことなのに、日向にも分からなかった。ただ、その風の音は、日向に何か大切なことを伝えようとしている花たちの声のように聞こえた。

(どのみち、伝えられないんだったら、バレーに集中した方が絶対に良い。お互いのためにも)

 その答えに、日向は半分だけ納得した。もう半分は、まだ、迷路から抜け出せずにいる。
 日向は、そっと花弁から指を離すと、そろそろ教室に戻ろう、と腰を浮かした。まだお弁当を食べていないので、お腹が空いているのだ。
 ずっと、同じ思考の軌跡を追尾していた意識が、やっとひときりついて、日向は少しだけ胸内が軽くなった。肩にかけていた重たい荷物が一つなくなったような気分だ。

「だいたい、告白なんてガラじゃあないし…」
「誰が誰にだ?」
「誰ってそりゃあ、俺が影山に…」

 そこまで口を開いて、日向は小首を傾げた。今の声は、どこから聞こえてきたのだろう。ゆるゆると解したはずの緊張の糸が、また、はりつめていく。日向は、声がした背後をゆっくりと振り返ってみる。できるだけ、その姿を認めるまでの時間が遅くなるよう、慎重に。けれど、本当は知っている。大好きな人の声を、聞き違えるはずがないのだから。

「お前が、俺に、何の告白をするって?」

 振り返った先にいたのは、案の定、影山だった。心臓が大仰に跳ねて、胸が影山でいっぱいになる。
 しかし、その甘い疼きに浸っている余裕はない。気がつけば、日向は顔を真っ赤に染めて、何も考え及ばずに、唇を大きく開いていた。

「…かっ、勘違いすんなよ!こくはくっていうのは、『コンチキショー、黒髪のアイツは、吐くほど、臭い』の略だアホ!!誰がお前みたいな単細胞なんか好きになるか、バーカバーカ!!このうぬぼれ屋さんめ!!!」

 日向はパニックになって、とりなすように、そう言い残すと、教室へと急いだ。影山はどんな顔をしていたんだろうか、見ておけばよかった。何かから逃げるように教室に戻ると、先にお弁当を召していた友人がびっくりして日向に近寄ってきた。

「日向、そんな切羽つまった顔して、どうしたんだ?」
「……おれって、ほんとはバカなのかも」
「は?何をいまさら…」

 影山を見つけた自分の反応は、今朝と、何一つ変わっていなかった。少しふんぎりついたばかりのはずなのに変なの、と思いつつ、そんな自分を領解している、もう一人の自分がいる。
 気づいてしまったんだ。そして、無意識のうちにそれを認めてしまった。好きな人に告白しなければならないという決まりなんてない。伝える勇気がないのなら、バレーに没頭した方が、ずっと重宝となる。そうと分かっていながら、顔を真っ赤にして、告白したいと心が急くのは、好きな人と、今とは違う関係を築いていきたいと、望んでいるからだ。

(…っ、なのに、おれ、)

 日向は先ほどの自分の言動を思い出し、情けなさや悔しさをしまい込むように、固く拳を握った。
 影山に何の告白かと問われたとき、素直に打ち明けてしまえば良かったのに。

「放課後、どんな顔して部活に出れば…」
「部活?日向、忘れたんか?」
「え?何を?」

 何のことだろう、と日向は打たれたように顔をあげた。

「今日は職員会議があるから、どこも部活はないよ」

 そういえば、今朝の部活で、同じことを武田先生も言ってたっけ、と、他人ごとのように、日向は思い返した。



 下校の波に呑まれ、日向も校門を出る。空を仰げば、白昼が夕方に移り変わっていくような、淡い柑橘色が雲間を裂いていた。部活を終えた後の空模様にすっかり慣れているので、こうやって自転車をひきながら下校の時に見る、赤みが差した空は、日向の瞳に、目新しいもののように映った。
 いつもなら、部活のチームメイトと坂ノ下商店で買った肉まんを頬張ったりして、楽しい帰り道だけれど、今日は一人きりだから、少し両脇が寂しい。

(でも、ラッキーかも。影山と顔を合わせなくて済むし)

 明日は今日の続きで、昼休みのできごとが一晩で枯れることはないけれど、気休めくらいにはなる。
 影山のことだから、きっと、昼休みのことを根に持って、黒髪のアイツって誰のことだボゲェ、と、怒りまじりに言いながら、日向の頭を片手で鷲掴みして恐喝するに違いない。

「ははっ、影山らしいやー」

 けじめをつけなければならないのは自分のほうだ。できるだけ早く、しっかり、自分自身と向き合う必要がある。それはきっと今晩になるだろう。
 ふと、思案に没頭していた日向の意識に、楽しげな笑い声が紛れ込み、日向が顔を上げた。坂ノ下商店で男の子たちが賑わっている。ランドセルを背負っているので、すぐに小学生だと分かった。
 ガラス張りの戸口にうっすらとうつる、小学生の男の子たちの奥にいる自分を見て、日向はおどろいて、顔を真っ青にした。

「!?!?」

 ぴょんと跳ねた癖っ毛の短い髪、パーカーの上に羽織った詰め襟のランダ、足元が緩い制服のパンツ。それらは全て、見紛うことなく男の容姿で。

(オレ、男だったああああああーーーー!!!!)

 日向は心臓が凍りついたかのように、しばらく、そこから動くことができなかった。


   ◇ ◇ ◇



 「ははは」
 乾いた笑いが手洗い場に響く。鏡に映る自分の顔は酷く不健康で、気勢が宿っていなかった。日向はもう一度、口端を広げて笑ってみた。この状況を、笑い飛ばしてしまいたかった。
 昨日の放課後、日向は硝子にひかめく見慣れている自分の姿におどろきを隠せなかった。自分が男であることを改めて実感し、そのくせ、同性に恋心を抱いていることに、またパニックになった。

(なんで気づかなかったんだろう、俺…)

 自分が男で、影山に恋をしていることが、日向にとっては、あまりにも自然な思し召しのように思えて、改めて意識を向けたりはしなかった。

(でも、気づいたって、影山への『好き』はなくなったりしない)

 日向が怖いと思うのは、同じ性を持つチームメイトに恋をしてしまったことではなく、その感情を知ってしまったら、相手はどう思うのだろうか、ということだった。
 影山に、好きと伝える勇気がなくてよかった。と、日向は思わず安堵した。もしかしたら、心のどこかで、この恋の危険性を悟り、無意識のうちに抑制をしていたのかもしれない。
 日向は手洗い場を出て、体育館の時計を確認した。もうそろそろチームメイトたちがやって来る時間だった。
 本当なら、なるべく影山と顔を合わせないために、時間が許すかぎり家の布団にくるまっているつもりでいたけれど、身につけた習慣はすぐには変えられず、体が覚えているままに朝食を掻き込み、家を出てきてしまったのだ。
 日向は、手元にハンカチがないことに気づき、濡れた手のまま、更衣室へと戻った。

「あ」
「あ?」

 今、日向が最も恐れている人影を見つけて、思わず、日向は更衣室のドアを閉めてしまった。今のは少し感じが悪かったかもしれない、と日向は少し反省をして、深呼吸をすると、ふたたび更衣室のドアを開けた。

「おはよう!」
「…………はよ」

 影山は着替えながら、横目にこちらを見やり、挨拶を返すと、すぐに視線の位置を元に戻した。覚悟を決めたものの、こうして二人きりになると、日向の気は重かった。
 男なのに好きになって申し訳ないという罪悪感と、この気持ちを知られたらどうしようという恐怖心が交錯して、日向の頭の中が混乱している。けれど、それ以上に、心臓がどぎまぎして、勢いよく体内に血液を送っている音が、耳の奥から聞こえてきそうなほどだった。
 影山へと馳せる感情が、不安や恐怖を被覆し、日向が恋をしている実感へと塗り潰していく。『好き』と伝えられないことが、歯痒いくらいに。
 日向は、自分のロッカーからハンカチを取り出し、手を拭きながら、影山を一瞥した。すると、こちらを見ていた影山と目が合って、日向は顔を赤らめ、思わず目を背けた。
 また、あの目だ。森林に迷い込んだ獲物を捕獲するタイミングを、木陰から全ての神経を集中させて、ひっそりと見計らっているような、獣の目。影山はいつも、あの目をして日向を見ている。そこに隠伏する感情が何なのか、日向には分からないけれど。

「あのさ――…」

 不意に影山が口を開き、日向の肩がびくりと震えた時。
「はよおぉーーーす!!」
 勢いよくドアが開く音と共に、元気いっぱいな挨拶の声が部屋になだれ込み、影山が紡ぐ言葉の続きを遮った。田中と西谷が満面の笑みを浮かべて、肩を抱き合い、更衣室に入ってくる。
 さっき、潔子さんに挨拶してもらったんだぜー、と上機嫌に自慢する田中の声を聞きながら、日向はほうっと安堵の溜息を吐いた。影山に、何を言われ、どうやって返答をすればいいのか、答えが見つからない。一歩を踏み出そうとしているのに、その足は地に着かないままだ。
 ほどなくして、更衣室のドアの向こう側から、複数の靴音が聞こえてきた。部活が、始まる。



 俺は今、人生の岐路に立っている、と思う。真南にまで昇った太陽が少し傾いた昼頃、日向は腰を下ろして、昨日の昼休みに見つけた花を睨んでいた。沢山の芽吹いた花の命が、今日も、プランターから飛び出している。
 この花は知っている。日向が誰を好きで、その相手に、この気持ちをどうやって誤魔化したのかを。

「だいたい、お前が悪いんだぞ。オレの心と似てたから、思わず感傷に浸っちまっただろおー…」

 そう不満を垂らしながらも、その花に触れる手つきは、生まれたばかりの赤子を撫でるように、とても優しい。

「分かんねえなあ…」

 初めての恋は誰でも漂着する障壁だ。そして、その感情の鋒は、本来なら異性に向くものなのだ。同性に傾いた自分の恋の形に、日向本人が動揺しているのに、それを知った影山が平然としていられる筈がないじゃないか。

「困らせたくないし」

 いや、あるいは、影山は、周囲に悟られたときに困惑するのは日向の方だ、と脅迫にも似た冷静さを立ち振る舞うかもしれない。日向は、念のために、もう一つの可能性についても考えてみた。
 授業で習ったことさえ朧げなのに、教わっていないことはもっと曖昧だ。なら、誰かに尋ねてみようか。

「けど、誰に?」

 そんなことできっこない…、とすぐに諦め、思考を切り替えようと試みたとき、不意に、日向を覆うように、影が降ってきて、日向は少し身構えて振り返ってみた。

「あ」
「日向、こんな所で何してるんだ?」
 日向は肩の力を抜いて、そっと微笑んだ。誰かが傍にいると、とても安心する。
「菅原さん」

 菅原は、学生服の襟元をはためかせ、扇いでいた。日向は肌を触れる気温に意識を澄ましてみたが、それほど暑くはない。肩で息をして、微かに頬を赤らめている菅原の様子を見やり、日向は合点した。

「もしかして、走ってたんですか?」
「ん、ああ。日向を探してたんだ」
「?オレを?」

 部活の緊急連絡だろうか。日向は、わざわざ探させてしまってすみません!と頭を下げて謝り、菅原が、あまりにも暑そうにしていたので、上着を脱ぐように促した。

「でも、用件ならメールでも良かったんじゃあ…」
「メールねえ…」

 含みがある言い草で囁くように言うと、菅原は胸のポケットから携帯電話を取り出した。それは、日向にとって、とても身近に感じ、見覚えのある携帯電話だ。

「ああっ!」

 日向は短く叫んで、慌てて自分のポケットに手をつっこんだ。そこには、あるべきはずのものがない。

「携帯を持っていないのに、どうやってメールを知るつもり?」
「………ごもっともです」

 日向は腰を低くしてお礼を告げると、菅原に携帯電話を返してもらった。どこで拾ったのかと尋ねてみると、更衣室のロッカーの前で、寂しそうにしてたよ、と答えてくれた。日向は今度こそ携帯電話をポケットにつっこみ、そこから小さな重みに感じた。どうして、ポケットに根付く違和感に気づかなかったのだろう、と不思議に思いつつ、日向は菅原を見上げた。

「昼休みに教室まで届けて、いなかったらクラスの人に預けようって思ってたんだけど、ちょうど入れ違いだったんだ。教室から出てく日向が切羽詰まってるみたいだったから、追っかけてきたんだけど…、途中で見失っちゃってさあ…」

 そうだ、菅原はそういう人だ。他人の情調に敏感で、いつもアンテナを張り巡らせている。
 しかし、今回ばかりは、いくら甲斐性が優れているとは言えども、菅原を頼るわけにはいかない由縁がある。絶対に悩みの種は打ち明かさないぞ、とかたくなな決意を持って、日向は唇を開いた。

「心配かけちゃってごめん、なさい…」
「いんや、ただの俺のお節介だべ。謝らんでいいよ」

 そう言うと、菅原は笑みを深めて、日向の髪を掬うように撫でた。日向の手よりも大きいそれを羨ましいと思いつつ、安寧を覚えていた。いつも頭の中に影山を思い浮かべ、はりつめていた神経が、じわりと溶かされていくような感覚があったのだ。

「やっぱ、影山?」

 その名前に、目を大きくして、ゆっくり菅原を見やると、図星だな、と彼は笑いながら言った。

「しかも、人にはあんまり言いたくないと見える」
「菅原さんってエスパー!?」

 また、菅原が笑った。その笑顔を見ると、まるで、悩まなくていい、と言われているような気がして、自分の悩みが、ちっぽけなもののように思えた。どれだけ悩んだところで、行き至る答えは同じなのだと、彼の笑顔が悟っている。
 石巌のない未来の展望だけを歩けるわけではない。苦労し、悩み、努力してこそ道は築きあげられていくのだ。そんな当然のことを、分かっているつもりだった。

「危険な橋と安全な橋の、どっちを渡ればいいか悩んでるんだろうけど…、いつも通りでいいと思うぞ」
「いつもどおり?」
「頭の中を空っぽにしてごらん。もともと、策を労するキャラじゃないだろー」

 策を労するとはどんな意味なのか、日向は知らなかったけれど、なんとなく、菅原の言っていることが伝わってきた。
 菅原に励まされると、苦悩に拘束されていた気持ちがじんわりと溶かされていき、徐々に軽くなっていく。

「ありがとうございます、菅原さん。…でも、すぐに答えは出せないや」
「そりゃそうだ」

 菅原は、目を伏して微笑した。
 どんな厄介な感情を相手取っていても、自分を捩じ伏せては意味がない。いつしか、使い捨てる恋となるのなら、深く心に残る思い出でありたい。そう願うのは、ただの我侭だろうか。
 やにわに、冷気を帯びた毅然たる風が吹き渡る。落葉が風に跨り、空中でくるくると旋回していた。木に実っていた堅果が地に落ちて、風に押され、北へと大移動していく。

(あれ…?)

 視線を下げると、渡り廊下へ通じるガラスドアの隅から微かに覗いている、黒い髪が見えた。それは、すぐにどこかへ去ってしまったけれど、その光景は、日向の印象に強く残った。
 間違いない、あれは影山だ。と、直感が騒ぎ始めた。
 しばらく、そちらをじっと見ていたが、ふと菅原の声が耳介を滑り、日向は慌てて菅原と向き直った。

「日向、騙してごめん、嘘」
「うそ?」

 何がだろう、と小首を傾げると、菅原は日向のポケットを指差した。菅原が届けてくれた携帯電話が収まっている、ポケットを。


 体育館に淡い光が差し込む方へ、日向は思いっきりボールを打ち上げた。降下するそれをレシーブで受け止め、床に落ちないように、持続する。バレーとは無縁の、余計なことを考えないよう、細心の注意を払いながら、ボールを追う。
 コートを使って練習をしている先輩たちの妨害をしないよう、端を使って丁寧にレシーブを打っていたが、まだコントロールがままならなくて、日向はうらめしそうにボールを睨んだ。

「あ!」

 集中力が切れ始めた頃、ボールが軌道を逸れ、コートの内側を目掛けて飛んでいった。コートに闖入する前にボールを回収しようと、一歩を踏み出した瞬間、ボールの軌跡の先で、影山がこちらを向きながら、片腕を滑らかに動かしていた。そして、日向の方へと、片手でボールを弾くと、それは空でふんわりと弧を描き、日向の胸元に行き着いた。
 お礼を言わなければ、と日向は小さく意気込み、影山を見やると、いつの間にか距離を切り詰めた影山が鼻の先にいて、思わず肩を震わせた。

(あ、また、あの目だ)

 獲物を捕獲し、蹂躙しようと企む、獣の目。日向は、お礼を言おうとする声を飲み込み、影山から目を背けた。

「……こくはく」

 ぼそりと、聞こえるか聞こえないかくらいの声の大きさで呟かれた影山の声を拾いあげると、日向は瞬く間に耳朶まで面貌を真っ赤に火照らせ、勢いよく影山の胸倉を掴んだ。今度は、影山が日向からふいと目を背けたが、その瞳は依然として確固としており、日向の頬はますます赤らみ、気がつけば叫んでいた。

「だから!それは!『この人、臭い、吐くほど、臭い』の略だって言ったろうがあぁあ!!」
「『コンチキショー、黒髪のアイツは、吐くほど、臭い』じゃなかったのかよ」
「うるひゃい!!どっちでも同じだろバカあ!!」

 息が切れるくらい、ひとしきり叫ぶと、昼休みに菅原と話したときよりも、心が軽やかになっていることに気づいた。まるで、羽が生えているかのように、清々しい気分だ。
 力いっぱい掴んでいた影山の胸倉をそっと離し、日向は控えめに彼を見上げた。

「普通だろうが」
「え?」
「俺も、お前も」

 胸先に作られた皺を伸ばしながら、影山が言う。日向は、昼休みに菅原が言っていたことを思い出して、体操着のポケットに手を当ててみた。もちろん、そこに、携帯電話はないけれど。



 『それさ、拾ったの、影山なんだ』

 介在していた予想外の人物に、日向はおどろいて、目を丸くした。しかし、驚愕に自分を持っていかれまいと、日向は気を引き締めて、菅原が言う次の言葉を大人しく待った。

『なんで自分で渡さないで、俺なのかって聞いたらさ、自分といると、日向が気まずそうにしてるからだ、って』

 引き締めた筈の胸内だけれど、ほんの小さな隙間から、驚愕がすり込まれていくようだった。日向は、込み上げてくる感情を悟られない為に、目線を伏して、菅原から顔を隠した。菅原は、何も言わない日向を一瞥してから、続けた。

『だから、携帯を返すついでに、日向の話を聞いてやってください。って、言ってきたんだ。それは、自分には――影山には、できないことだから、って』

 そうだ、影山には言えないに決まっている。自分には、それを伝える勇気が欠損していることを、自覚しているつもりだ。けれど、伝えたいと思ってしまった。汲み取って欲しいと願ってしまった。伝える勇気なんて持っていないくせに、この気持ちを、誰よりも、影山に伝えたい、と。

『ほんっとーに、不器用だよなあ。影山も、日向もさ』

 笑っちゃうくらいに、と付け加えて、菅原は日向の頭を掴むようにして撫でた。


 日向は、下唇を噛み、眉を顰めたが、影山への恋心がとめどなく溢れ出して、変な顔になった。

「ほんと、バカ…」

 誰にともなく呟くと、影山の目尻がぴくりと動いたのが分かった。
 影山を見つめる自分は今、どんな顔をしているのだろう。きっと、情けない顔をしているんだろうなあ、とどこか遠くで思いつつ、日向は密かに、元の表情に戻すよう努めた。
 どうした弾みか、影山は目線を逸らすと、きまりが悪そうに頭を掻いた。

「あー…、だいたい、お前さ、この間から何か悩んでるっぽいけど、馬鹿が悩むようなことがあるのかよ。というか、悩むことがあるのに、どうしてお前は馬鹿なんだ」
「殴るぞアホ!!」

 日向は威嚇のつもりで、握った拳を振り翳したが、その掌よりも大きな影山のそれで、彼の目先に鎮座する小さな拳を包み込まれた。日向の肩がびくりと震え、頬に熱が寄り合っていく。指を介して、影山の熱まで吸収してしまっているのではないかと疑うほど、体が熱くなった。
 ずっと、この状態を保っているわけにはいかないと、必死で理性が訴えている。日向は、やっとの思いで唇を開き、本音を告げた。

「……馬鹿だから、どうしていいか分かんなくて、悩むんだよ。わからないなら仕方ない…って、割り切れない」

 意思表示なら、いつだって慣れて口にしている筈なのに、とてもどぎまぎして、声が震えている。

「俺だって、言えたら楽だなって…、思うけど、そうしたら、影山はきっと、困る」
 きっと、困惑して、悩んで、この関係がぎこちなくなってしまう。それは嫌だ、と、日向は強く思う。
「…困らないって言っても、お前はどうせ、絶対に俺が困るって決めつけて、言わないんだろ」
「だって、事実だし…」

 言いながら、日向は自分の本音の在り処を探している。まだ、迷路に入り込んだまま、出口が見つからなくて、いよいよ泣きたくなってきた。けれど、それだけではないような気がしている。それが何かは、日向自身でも分からないけれど、本音に触れようとする指を、意識して払い除けているような、妙な心象だ。
 影山は、不快そうに双眸を細めて言った。

「困るかどうかは俺が決めることだし、言ってみないと分からないだろうが」

 日向は心の内で頷いた。その通りだと思う。

「言いたくないからって、俺を言い訳にするな、ボゲ日向」

 その影山の言葉を聞いた途端、日向の中で何かが弾けた。迷路を作り出していた胸内を、明るい展望が溶かし、迷子になっていた感情たちが、本来の立所へと散っていく。
 その瞬間に、日向は実感した。好きな人に好きだと伝えることに抵抗があるのは、相手を思っての心咎めではなく、ただ、自分が大切だからだ。
 好きな人に拒まれてしまったら。気色悪がられてしまったら。この先ずっと話せなくなってしまったら。沢山の疑念と不安が渦巻き、日向の思考と行動を抑制していく。それでも、伝えたいと哀願する貪欲さは見失わずに、確かにそこに根ざしていたのだ。
 日向は、ようやく意を決した。

「…でも、やっぱり、お前、ちょー困るよ」
「だからそのときは…」
「………の?」
「あ?」

 日向は、震える喉から声を絞り出した。

「困らせても、いいの?」

 言葉を形取ると、これまで、封じ込めていた想いが胸内で横溢していった。じんわりと涙が沸いて、窓から差し込む夕陽が、日向の瞳に滲む透明の粒を淡い琥珀色に染めていく。影山は一瞬息を呑み、日向の問いかけに、返事を寄せた。

「むしろ、困らせろよ」

 その返事は、とても心強くて、溜めていた涙が一斉に溢れ出した。影山はぎょっとしたようだった。
 菅原が言った通り、日向は策を練ってから行動に転じるような、慎重な策略家ではない。どんな魅力的な文句も借りずに、自分だけの言葉だけで、好きと伝えたいと望んでも、それを叶える能才はない。それでも、理性から食み出した恋心が先走り、自覚せざるを得ないほどに、自分の世界が塗り替えられていく。

「ちょっと、来い」

 焦慮が見え隠れする口調で影山に言われ、掴まれていた手を強引に引っ張られた。どこに行くのかと影山の足先を見ていると、まず、影山は鳥養監督の元へ向かい、日向の目にデカいゴミが入ったらしいので、目を洗わせてきます、と断りを入れ、その場を後にした。日向は何も言わず、影山に掴まれていないほうの手で目をこすり、涙を拭った。
 空を仰ぐと、オレンジジュースをばら蒔いたような薄暮が広がっていて、地面を見下ろせば、二つの影が手を繋いでいるように、細長く伸びていた。
 影山は水道のほうには行かず、体育館裏に日向を連れ出した。バレーボールが床を叩く音が、くぐもって聞こえてくる。
 日向が、目を丸くして影山を見つめていると、彼は少し頬を赤らめて日向の手を離し、ぶっきらぼうに唇を開いた。

「泣くなら、ここで泣け」

 確かに、バレーの練習に真剣に取り組んでいるチームメイトの中で、泣くのはおかしい。日向は頷いたが、驚愕で引っ込んだ涙は、もう出てこなかった。それを見計らい、影山は早速本題に入った。

「言えよ、俺を困らせるようなこと」

 影山には遠慮というものがない。けれど、その横暴さは、日向に、言いたいことは言え、と激励しているような気がして、今は少しだけ、それが救いの役割を果たしていた。
 日向の覚悟が萎れてしまう前に、想いの丈を言葉にして吐き出してしまいたい。そして、叶うならば、好きな人に、この感情を汲み取って欲しい。
 もしも、拒まれてしまったならば、きっと、日向は落ち込むだろう。どんな説得であったとしても、影山の誘導のままに、同調するべきではなかった、と後悔をするかもしれない。しかし、どれだけの後悔を重ね、苦しむ結果を生んだとしても、影山を諦めることは、できそうにない、と思う。
 日向は、深呼吸をして、心を整えると、かたくなな意志を持った瞳で影山を見据えた。影山が、急かすことなく、日向の言葉を、じっとして待ってくれているのだと、すぐに分かった。
 外は、沢山の音が交錯している。日向は、それらに負けないように、大きく息を吸って、はっきりと気持ちが伝わるように、声を出した。自分が何て言っているのか、日向には分からなかった。
 驚愕を顔に漂わせ、見開かれた影山の双眸に、花が綻ぶように笑う日向がうつっている。そして、本音を言い終えたその唇は、こう形取っていた。

「困った?」

 しばらく、影山は、顎に指を当てたり、難しい顔を浮かべて足元を眺めたり、腕を組んだりして、思案する仕草をしていたが、やがて、日向が影山宛てに伝えた言葉に内含する感情を理解し、珍しく、思いきり頬を紅潮させた。
 日向はおもしろそうに笑った。

「返事はいらねーよ。だけど、忘れないで」



 部活を終え、体育館を後にすると、外はすっかり陰影に溶け込まれていた。夕方に影山に連れ出されたときは、夕闇に琥珀色の光が浮かんで見えていたけれど、今見えているのは、満天の星だ。
 日向は自転車を引きながら、影山の隣を歩いた。影山は歩幅が日向のそれよりも大きいので、日向は大股になって闊歩する。
 昨日の自分よりも、今日の自分の方が、清々しい気分で、好きだ。

(ちゃんと気持ちを伝えたのがよかったんかなー)

 ちらりと隣にいる影山を横目に見て、日向は昼休みのことを思い出し、影山に確認してみた。

「そういや、影山さ、今日の昼休み、渡り廊下ら辺にいたろ?」
「気付いてたのかよ。…昨日も今日も、近くの自販機に寄っただけだ」

 日向は、目を合わせないで答える影山に疑問を覚えた。なんだか言いわけ臭いな、と思いつつ、そう言ったら影山に憤慨されてしまう気がしたので、少し気になったけれど、詮索はしなかった。
 適当に相槌を打ち、日向は影山の顔を覗き込んだ。影山は、一瞬怯んだようだった。

「ていうか、菅原さんから聞いたぞ。日向の話を聞いてやって下さいって頼んだらしいじゃん。でも結局、オレ、影山に聞き出されたよな。なんで?意味ねえべ」
「それは…」

 影山は、言いづらそうに口ごもりながら、いつもよりも声を小さくして言葉を繋げた。

「それは、先輩には言うのに、俺には言わないとか、なんかムカつくだろ」
「?なんで?」

 そう聞くと、影山は眉を顰めて、難解な問題を解いている最中のような威圧感を含ませる面持ちになった。一呼吸置くと、影山は舌打ちをして、乱暴に自分の髪を掻き乱した。日向がおそるおそる影山を呼んでみると、影山に睨みつけられ、肩を竦めた。

「あーっ!めんどくせえ!」
「な、なんだよ!?」

 思わず身構えると、影山は日向に顔を寄せた。こんな近くで影山を見るのは、初めてかもしれない。

「日向、返事いらないっていうの撤回しろ!」
「はあ!?なに言って…」

 日向の主張を聞こうともせずに、心という器から零れ、外へ溢流する感情のままに、影山は、日向の肩を掴み、相手の意識が自分を捉えていることを確認してから、返事を送った。先ほど、薄暮の下で日向が告げた、告白の返事を。
 思いがけない影山の言動に、日向は肝を潰した。
 聞き終えると、日向は真っ赤になって、何か言わなければと、知っている言葉を、自分の知識から引きずり出そうとした。しかし、日向はパニックになって、声が出てこず、紛らわすようにして視線を空に投げることしかできなかった。その間も、影山が、食い入るような目をこちらに向けているのがよく分かる。
 そして、混乱の末に、暗闇の中で、いくつもの細かな光が瞬く空を仰ぎながら、日向は言い放った。

「月が綺麗だな、影山のアホ!」

 と。


end