だましあいラブ・ミー! | ナノ
だましあいラブ・ミー!
 
 丁寧に整備された人工芝のピッチを黄色いユニフォームが駆け上がる。
 窮地に放逐された自陣のペナルティーエリアで、かろうじてカットしたボールを天城が前線へ切り込んでいく。ボールを持っている最中は、敵陣のプレイヤーがその細身の体を駆使して目一杯タックルを反復するが、天城はその攻撃を物ともせず、軽くいなしてボールをキープし続けた。
 遠くから、爆発的な叫び声が響いた。

 「霧野!」

 自ずと反応する神経を尖らせ、松風天馬はそちらを振り向いた。呼応した霧野がドリブルで前線へと駆け上がる。多くのプレイヤーが足を伸ばしてボールを取りにかかるが、霧野は自然な動作でひょいと躱し、神童にパスを流した。綺麗な弧を描く、正確なロングパスだ。
 天馬は体の内側から昂る熱を感じた。優れたプレイを見ると、単純に凄いと思う。天馬は胸元で拳を作り、熱く滾る心の中で霧野を声援した。と同時に、天馬の声が届いたのか、霧野が流し目にこちらを見た。

 「あっ!」

 目が合った途端、霧野の動きが鈍り、敵から逃れるように回帰するボールをトラップミスした。的を失ったボールが霧野をすり抜け力なく弾む。プレイヤーが一斉にボールを目指すが、それは間もなくサイドラインの向こう側へ超え、敵陣のスローインで試合が再開した。
 天馬はフィールドを見る目がいつになく情熱的な事を自覚する。五号球のサッカーボールの大きさや重さの感覚を視界に描き出し、天馬はその場でステップを踏み、熱っぽさが残る視線を足元に這わせた。それから、小躍りするようにリフティングをしたり、偶発的に爪先を使ってボールをこねてみたりと、それを何度も繰り返す。
 それから少しして、ピッチ場にホイッスルが鳴り響いた。天馬は鮮烈として前方を向くと、敵陣のゴールを割った転がるボールを、ゴールキーパーが目を丸くしながら呆然と見据えていた。
 その光景は、先週の自分を彷彿とさせる。天馬は面白いくらい頬を朱色に染め、『その時』を鮮明に想起した。


 部活が終了し、他の部員がタオルを首に下げながら引き上げる中、霧野は天馬を引き止めた。振り返った先では、きまりが悪そうな目顔を浮かべた霧野が手招きをして天馬を誘導しており、天馬は小走りで霧野に寄り合った。

 「ちょっと、練習に付き合ってくれないか」
 「…えっ、と、俺でいいなら、喜んで」

 どうして朋友の神童を誘引しないのか天馬には分からなかったが、霧野に頼まれることは珍しく、非常に嬉しかったので、何の探りも入れずに笑顔で受け入れた。
 霧野は露骨に天馬と目を合わせようとはせず、手に持っていたボールを芝生に置いて、それをちょんと蹴った。そして、ファーストタッチで天馬を抜いた。ああ、そういうことか。天馬は瞬時に霧野の行動を把握して、ボールの奪取に努めた。
 ピッチ上に立てば、マンツーマンの競り合いなんて常にやっているのに、今はまるで自分がとても厄介な難題に挑んでいるかのように、霧野のボール捌きに介入できない。霧野とボールが糸で繋がれているみたいだ、と天馬は思った。
 意識を研ぎ澄まし、全神経をボールに集中させる。そして、窮地のシチュエーションを想像する。目先に立ち塞がる背番号『3』のプレイヤーは敵陣のカリスマディフェンダー。残り僅かの延長戦で一点を決めなければ、皆で優勝を掲げる事は叶わない。どんな相手だって、手加減は許されないのだ。天馬は、自分に晒すように前方に転がるボールを見逃さず、ここぞとばかりに軽く地面を蹴り、柔らかなタッチでボールに触れた。やった!と一瞬喜んだものの、霧野は慌ててボールを引っ込め、かかとで空中に蹴り上げた。そして、「もう、おしまい」とでも言うように、足でトラップして浮いたボールをキャッチした。天馬は霧野の顔を正面から見据えた。

 「俺が一枚上手だったな、天馬」

 言いながら、霧野は誇らしげにボールを脇に抱いた。

 「でも、霧野先輩だって、俺がボールに触れたら、あからさまに慌ててましたよね」

 天馬は負けじと言い放った。威嚇する昆虫を網で捉えるように。霧野はとぼけたように視線を空に投げながら肩を竦めたが、弁解は一切しなかった。その様子が何となく可笑しくて、天馬は思わず吹き出してしまった。すると、天馬の笑顔に引き込まれたように、霧野も破顔した。

 「天馬、顔を近付けて、このボールを見てごらん」

 そう言って、霧野は脇に抱えるボールを手早く天馬の目先にまで押し出した。その向こう側にある霧野の顔は遮断されて見えない。天馬は小首を傾げつつ、言われた通りにした。ボールには芝生がちらほらと張り付いていた。視界から食み出すボールの部分が、いつもより一回りも二回りも大きく思える。ボールって、こんなに大きかったけ。

 「それから、目をつむって。」

 天馬は疑念を抱きつつも瞳を伏せた。視野が途絶えた途端、不安が大きく膨れ上がり、胸の内でその先端がつんのめる。今にも鼻先に触れそうなボールの威圧感が正面から凭れ、まるでプレッシャーに苦しみながら岩下を這う蟻になった気分だ。しかし、怖いのか、好奇心からなのか、視覚に頼らない暗い世界の新鮮さに、心臓がどぎまぎしていた。
 サッカーボールが重々しい音を地面に響かせながらリバウンドした。ボールが跳ねる度に、天馬の足にその振動が伝わる。
 そのとき、啄むような柔らかな感触が、電流のように天馬の唇を覆った。天馬はぎょっとして、自分の唇が熱くなっているのを感じた。そうして、長い一瞬がしばらく動かなかった。霧野が惜しむようにゆっくりと唇を離す感覚で我に返った。

 「騙されやすいのな、天馬って。まあ、何となく分かってたけど」

 天馬の心はにわかに落ち着かない。霧野は口にこそ出さないが、天馬が照れ臭さを催している事は分かっていた。

 「霧野先輩っ」

 天馬は短く叫んで霧野の胸元を掴もうとしたが、天馬よりも一回り大きい彼の掌がふんわりと包むように天馬の手を握り、それを遮った。どうした弾みでキスに及んだのか知りたいと訴求するその瞳が涙を湧かせて霧野を見上げる。しかし、彼はそれについては何にも触れなかった。

 「次に話すときは返事を聞かせて」

 息で囁いたそんな台詞を天馬の耳朶に添えて、霧野はグラウンドを後にした。


 霧野が残したそれは、まるでスコップだと天馬は思った。最奥の土をスコップで掬って天馬の心に深い洞を作っていき、その通り道を『初めてのキス』が駆け回る。それだけではない。誰かのことで胸が占領されることや、それによって体の芯から火照ることだって、天馬にとっては初めての経験だ。
 体を寄せられバランスを崩しながらもボールを爪先で保ち、パスを待つ味方へボールを任せるフィールド上の勇猛で颯然とした霧野を眺めていると、先週に天馬へ向けられた霧野の甘やかな言動が虚妄だったように思えてならない。すると、一瞬の不安が過ぎり、天馬は持っていたプランニングバインダーをきつく抱き締めた。

 「霧野先輩は、俺のこと」

 そのとき、天馬の小さな独り言に被さった試合終了のホイッスルが、フィールドで躍る選手達の動きを止めた。そして、自然な流れで今日の部活を締め、チームメイトが一斉に更衣室へ引き上げる。
 辺りの風景は原色に夕焼け色が滲み、昼間とは異なる冷たい風が夜の空気に変えていく。薄暗さを纏い始める夕闇を泳ぐ厚い雲は淵が燦爛として、その奥に咲く一番星を探し辛くさせていた。
 天馬は駒を書き加えたプランニングバインダーを監督に引き渡し、沈んでいく今日を仰いだ。それと併せて、視界の端が階段を介してグラウンドに下りる、ややふっくらした体躯の女生徒を捉えた。そして、その女生徒は髪を揺らしながら、掌を使って煽いでいる霧野に詰め寄り、談話を始めたようだった。天馬はその場で繭のようにじっと動かず、その場景を何となしに眺めていた。

 「天馬くん、追いてっちゃうよ」
 「…うん、行こっか」

 肩口から顔を覗かせる狩屋にそう切り返し、天馬は少し距離を挟んで先を歩く先輩達を追うようにして更衣室へ向かった。

 「もしかしてさ、天馬くんって好きな人でも出来た?」

 鼻につく言い方で質問を投げたのは、他でもない狩屋だ。天馬はその問いかけに強く衝撃を打たれ、思わず頭を振ってしまった。黙ったままでいると、狩屋は更に続けた。

 「本当に分かりやすいよね。最近、天馬くんの様子がいつもと違うから何かと思ってたけど、なんだ、ただの恋煩いか」

 確信に満ちた口調で淡々と言う狩屋に、自然と眉間に皺が寄っていく。天馬は歩幅を小さくして、狩屋との距離を僅かに開いた。それを怪訝に思った狩屋がふと足を止めて天馬を振り返る。唇を尖らせ不満そうな顔をする天馬は、かつて、ホーリーロードの舞台を借りて暗雲が絡むフィフスセクターの罠を踏み越え、雷門サッカー部を優勝へと先導したキャプテンだとは到底思えないような幼さを残していた。

 「……なんだとは何だよ。俺は真剣なのに」
 「そんなの知ってる、見れば一目瞭然だよ。分かりやすいって言ったでしょ?」

 狩屋が主張する通り、そう言っていた。しかし、天馬が稚拙な抗議をしているのは、断じてそこではない。そうして天馬は顔を顰めていたが、暫くすると、体中でうねる非議を手放すように肩を落とした。天馬の不満をものともしない狩屋の姿を見ていると、自分が酷く愚鈍に思える。それに、誰かに敵意を剥くと、いつにない疲労感がどっと押し寄せるものだ。
 心胆を緩めた天馬を見定めると、狩屋は顎でグラウンドの方を示唆しながら、

 「じゃあ、天馬くんもそのうちあんな風になるかもね」

 と言いながら腕白な笑顔を零した。狩屋の視線の先を天馬も見やり、驚愕した。
 男児と児女、たった二人ぽっちが残ったグラウンドの隅で、先程に天馬が捉えた女生徒の唇と、この前天馬のそれに重ねられたのとが落ち合っている瞬間を、天馬は見落とさなかった。
 これは自分が招いた仕儀なのかも知れない。躊躇なんてせず、もっと早くに霧野が望む返事を伝えていれば、少なくとも、こんな惨めな悔恨と悲しみが交錯することはなかったかも知れないのに。
 天馬は目溢しせずにグラウンドを凝視しつつ、心の底から黒雲のように陰湿な何かが湧き立つのを感じていた。その場から逃奔したいと黒雲を覆った心が喚くのに、足に目には見えない拒絶の渦が絡みついてるようで動けなかった。
 すると、呪いに魅入られたようにグラウンドに視線を這わせながらその場で佇む天馬の腕を狩屋が強引に引き込んだ。

 「行くよ」

 無愛想な顔をして短く言う狩屋に、天馬はできるだけ明るく声をかけた。見失いつつある自我を取り戻すように。

 「狩屋は驚かないの?」

 狩屋は一瞬視線だけで天馬を振り返り息を吐いた。

 「驚いてるよ、十分に。天馬くんの好きな人とやらが霧野先輩だったことにね」

 先程の光景を振り切り、天馬は間もなく紅潮した。

***

 足早に更衣室へ向かう途中、霧野は何度目かの嘆息をした。下手くそな無頓着さを撒いて天馬の返事を待っているが、慣れない告白の延長が一週間に渡って棚引くと、徐々に霧野の歯痒さが不安に被覆されていく。素知らぬ顔して何気なく告白の返事を促そうかと考えていた放課後も、第三者の思わぬ介入でそれは叶わなかった。
 余裕綽々、という風に次に会話する時まで天馬に猶予を与えたが、それは裏を返してみると、天馬の中で選択が固まるまでは二人の間ではどんなに些細な言葉でさえも交わしてはならない、という事だ。それは、霧野にとって非常に焦れったい。好きな人が視線の先にいて、腕を一路に翳せば触れられるのに、どうして幾度も巡るチャンスを逃さなければならないのだろう。ずっとこの恋に進展が望まれないようであれば、先程のように、好い人の影がある自分が『あんなこと』をされるが為に、グラウンドで足止めを食らい、みすみすチャンスを磨り減らしてしまう事がこの先もあるのではないだろうか。それも、その場を後にする天馬を惜しみながら。
 天馬の無垢な感情を早く落手したくて決意した憔悴する心の雄叫びは既に迷子になりつつあるのを霧野は感じている。
 そのとき、小柄の柔らかな影が霧野の胸を叩いた。バランスを崩しながらそれを受け止めてやると、それは瞳を丸くしてこちらを見上げた。

 「あ。」

 一瞬、この思考からその姿を引っ張り出してきたのかと霧野は錯覚した。
 その影はシャワーを浴びたらしく、普段の明るさよりも黒掛かって見える濡れた癖っ毛の先端でくるくると丸い水滴が小躍りしているようだった。決まりが悪そうに霧野を仰ぐ双眸は的を失った憂いを帯びて潤んでおり、霧野が密かに抱くひしめく程の心嬉しさなどからっきり感付いていないような素振りでいる。

 「ご、ごめんなさいっ」

 謝りながら、大慌てで霧野の胸元に甘えたままでいた体を剥がす後輩の湿った髪に、霧野は殆ど使っていない自分のタオルを被せた。そうして、適当に彼の髪の湿気をタオルに挟むようにしてパンパンと優しく叩いて吸い取ってやる。

 「……?あの?」
 「濡れたままでいたら風邪ひくぞ、天馬」

 小さな唇が何かを言いかけたが、天馬はやにわに肩の力を緩め、僅かに開いたそれを閉じた。タオル越しに感ずる霧野の手に篭る潜熱にのめり込む天馬は蕩けた瞳を細め、伏せた睫毛の影が頬にうっすらと降っている。霧野は口を丸めてほうっという風に息を吐いた。
 すると、ふいに天馬が霧野が羽織っている上着の裾を慎しやかにきゅっと抓り、柔弱な声を揺らめかしながら呟くように問いかけた。

 「霧野先輩って、好きでもない人に平気で、ち、ちゅーとか、出来る人なんですか?」

 天馬は俯き加減で頬を紅潮させた。霧野は愕然として短く息を吸い込むと、爆発するように声を荒げた。

 「はあ!?あのな、言っておくけど、俺がこの間お前にキスしたのは」
 「したのは?」
 「したのは……」

 その先を口にするのを躊躇いながら、霧野は天馬をやはり馬鹿だと思う。硬い勇気を振り絞り、唇を触れ、返事を催促する旨まで相手の小さな耳朶に残した筈なのに、どうしてこの恋心を汲み取れないのだろう。
 苛立ちを滲ませた視線を天馬に放つと、彼は顎を持ち上げ、霧野を見据えた。その燦然と光が波打つ粗い眸子は、霧野の双眸のもっと向こう側に潜る心を波で吸い込むようで、霧野は思わず固唾を飲み込んだ。
 そこで、思い留まり、再考した。どうして天馬は笑っていないのだろう。憂いた天馬は幼さの影を伏せながら大人びて見え、どぎまぎするけれど、霧野が見たいと思う天馬はそれじゃない。ついと相次いで思考が重なり、もしかしたら、と、霧野は怯えた小動物のように身を縮めながら、おずおずとあることを聞いてみた。

 「ひょっとして、さっきの見てた?」

 『さっきの』とは、天馬が去った筈のグラウンドで流れた時間のことだ。
 僅かな間を挟み、天馬は黙ったまま頷いてみせた。いつもの雰囲気と異なる天馬を剥いでみると、霧野に寄った自分以外の唇に不満を抱き、ささくれているようだ。何だか胸が弾んできた。しかし、ピリピリと唇に蘇る電流の波は、決まって天馬と重ねた嫋かな熱度だ。本来なら、天馬が不貞腐れる必要なんてない。勿論、そんなに物寂しそうな風貌をして、涙を殺す必要だって。

 「天馬」

 甘い吐息で名前を囁いて、霧野は淡い桃色に染まる天馬の頬を慰撫するように撫でた。すると、天馬のそれが更に燃え立ち、その体温が霧野の指をじんわりと温めていった。

 「なんで、泣きそうな顔してるの?もしかして、俺のこと」

 期待が散開して、最後まで紡ぎ出されようとしていた言葉たちは、天馬の掌により拙く塞がれた。

 「だ、黙ってください!」

 そうして、いつになく紅潮しながら、胸内で喧騒する羞恥を隠すようにたよたよと霧野を睨みつける眼差しが愛らしさを誘発する。霧野は口唇を壅塞する天馬の掌の皮膚を軽く啄み、それに驚いた天馬が更に火照りながら、この喋り口を塞ぐ手を離すを待った。案の定、天馬は肩を跳ねさせ、瞬時にそこから掌を引いた。
 そこで、霧野は呼吸するみたいに言った。

 「天馬、今から俺、手品するから」

 慮外な霧野の確言には、流石に天馬の機嫌をからきし損ねてしまったらしく、彼は怪訝そうに視線を拗じくれた。しかし、霧野はさも膳立であるかの如く控え目に天馬の前に握り拳を突ん出した。

 「天馬、目をつむって。」

 天馬ははっとした。その言い回しを銘記から掠め取ったのか、信じられないという風に眉間に皺を寄せて、霧野を一瞥する。その様子を見受け、霧野はもう行為を剥く必要はないと踏み、拳を崩した。霧野が示す言い訳を天馬は余す事なく拾い上げ、更に鬱積を深めたようだった。

 「それに、まんまと騙されたってことですか」

 余儀なくされた託ち種は残されていない。霧野は素直に「そう」と短く返した。

 「霧野先輩だって、案外、騙されやすいんじゃないですか」

 力なく呟くと、天馬は大袈裟に溜息を漏らし、済まなそうな態度を取る霧野に恨めしげに目配りしてみせた。霧野が念望した口付けではないにしろ、本人が招いた失態でもある。天馬は波紋のように胸に広がる悋気を、自分のことを棚に上げる誂え向きの素行のように感じ、徐々に不満が薄れ、隠れていた分の悲しみが顔を出しているのを認めていた。霧野は気まずそうに天馬を見据えているだけだ。口にこそ出さないが、霧野が何を訴求しているのか、天馬は把握していた。

 「霧野先輩、目をつむって、屈んでください」
 「どうして」
 「いいから、屈んでください」

 訳を明かさず、拗ねたように二度目を言い放たれ、霧野は小首を傾げつつ、言われた通りにした。伏せた瞳の向こう側で制服が擦れる音が大仰に鼓膜を揺すった。視界がうねる暗闇に遮断されている為、状況を飲み込むには、聴覚に縋るしかないのだ。
 ふと頬に穏やかな感触の波が迸り、霧野は瞼が起きないよう、きつく目を瞑った。互いの熱っぽい吐息が溶け合って、天馬が至近距離で見詰めているのが分かる。
 こういうのって、柄になく緊張する。何をされるか予測できない不安感の後を期待が縫っていく。いや、うっすらと予見はしているのだ。だからこそ、大仰しい心臓音が鼓膜の奥を叩く。
 やがて、天馬の丸っこい掌が霧野の両頬を包み込んだ。胸の高鳴りを抑止しようとする霧野の努力に気付きもせず、天馬はふっと短く息を吸い込むと、自分の額を使って桜色の前髪が流れる霧野の額を猛威を散らしてゴツンッ!と思いっきり弾いた。

 「ぁいっつぅ〜〜……!」
 「ふ、ふ、あははははっ!」

 額を覆う疼痛を紛らわす為に額に圧力を加え庇っていると、元凶の天馬の堰を切ったような幼い笑い声が飛んできて、霧野は痛みを忘れ、だらしなく口を開けたまま、天馬のえびす顔につい目を奪われていた。涙を溜めながら、腹を抱えて爆笑する天馬を、心底愛おしいと思う。
 ようやく笑いが収まった天馬の風貌は普段通り柔らかい雰囲気に戻ったが、ときどき、艶っぽい嫋かさを垣間見せていた。その大きな瞳で霧野を捉えながら微笑む唇が、ゆっくりと歌うように音を紡いだ。

 「霧野先輩、もう一度だけ、目を閉じてください」
 「…またかよ」
 「もう一度だけ、ですから」

 痛みが薄れた額の件を考慮すると微かな恐怖心を煽るが、天馬が掌を重ねて低姿勢で頼んでいる姿は悪くない。霧野が「屈んだままでいいのか」と問えば、憂慮し震えていた天馬の瞳がぱっと煌きを散らし、「もちろん!」と切り返した。
 霧野は慎ましく瞼を下ろしたが、警戒心は忘れず天馬の行為を待った。微かな痛みでさえも危険である。しかし、天馬が霧野に触れようとはせずに起立し、短いステップを踏む音が鮮明に聞こえる。そしてまた、靴音が止み、制服が擦れ合う。どこに天馬が屈み直したのか把握がままならなかったが、吐息が感じるくらい間近で背後から囁かれ、すぐに居場所が分かった。

 「後ろを振り向いてください」

 既に霧野は警戒心を解いていた。天馬が何を策しているのか、いよいよ予想だにし難いが、更なる痛みを与えることはないだろう。だから、ただの素直な好奇心を抱き、目を開いて背後を振り返る。一瞬、先週の甘やかな放課後の感触をけざやかに呼び起こしたのかと錯覚した。振り返った先でぶつかるように落ち合った互いの唇に沸々と甘い感じが漂っていく。
 それを惜しむように離したのは、煽動した天馬が先だった。
 仰天の余り、呆気に取られたように目を白黒させる霧野は瞬きもせず、離れた唇に視線を這わせるばかりだ。

 「一日に何度騙されれば気が済むんですか」

 その言葉を受け霧野はハッとすると、今度は顔を火照らせ、ぎこちなく微笑した。
 我ながら気持ち悪い顔をしていると思う。けれど、抑止のきかない感情はひたすら天馬のことを叫んでいる。
 
 『もしかして、俺のこと』

 天馬が遮った渇望にも似た霧野の言葉の続きは単なる欲求じみた予測でしかなかったが、それが確信の枠にストンと嵌っていく。もっと贅沢な欲が許されるのなら、口付けに込めた要旨を言葉にして伝えて欲しい。調子を上乗させる天馬の話し口調が霧野は好きだった。

 「次に会話する時は返事をして…って、霧野先輩が言ったから…」

 有無を言わせずに放った一方的な約束を、天馬は律儀にを守ってくれたのだ。その素直な従順っぷりを愛くるしく思う。もう、気後れはしないし、遠慮もしない、霧野は密かにそう決めた。

 「今のキスが返事なんだよな、天馬」
 「…霧野先輩がしてくれたキスが、俺の解釈で合ってるのなら、ですけど」
 「合ってるよ、大正解だ」

 身を屈めたまま改めて体を向かい合い、霧野はそう言った。それから、天馬は黙りこくって視線をじっとこちらに投げた。その粗い瞳は潤み、まるで星の光を浴びながら波打つ海のようで、霧野は思わずうっとりとして魅入っていた。その瞳子を飾る光が揺らめく度に『好きだ』と訴えられているようで、少し恥ずかしい気もする。

 校門を過ぎた辺りで、天馬は自分より背の高い霧野を一瞥した。その横顔の相貌は爽やかで、やや前まで天馬が感じていた疾苦の跡はすっかり失せていた。
 柔らかな追い風が二人の背中を撫で、これからの彼らを後押ししているみたいだと思った。天馬はほんわかと胸が温かくなり笑みを深める。霧野を再度見上げると、丁度こちらを見下ろしていた霧野と視線が交錯して、今度は小っ恥ずかしい気分になった。常に移り変わる感情が忙しいが、それさえも幸せを誘う。

 「……何、笑ってるんだよ、天馬」

 そう言う霧野の肌は火照っていて、その赤みは耳輪も覆っていた。疑う要因なんて何もない、その風貌は確かに天馬に恋をしている証を剥き出しにしていた。隠し切れていないそれがとても嬉しくて天馬は吹き出すように笑った。霧野の胸内に暖かい微笑みがやんわりと響き渡る。

 「秘密です」

 天馬の『好き』が小躍りしているような口調が霧野の理性を劈く。
 どちらからともなく繋がれた指先から、ありったけの霧野への恋心が漏れ出してしまえばいいのに。天馬はそんなことを願いながら霧野の隣で帰路を沿っていた。



end
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