恋愛詐欺師 | ナノ
恋愛詐欺師

 
 昨晩に考えあぐねた言葉は本人を前にすると泡となって心の海に溶けてしまった。梅雨が深まりつつある曇天の下で、天馬は陳腐な告白をしたんだ。

 好きです、付き合って下さい。

 なんて、相手にしてみれば倦厭する程に慣れた創意のない、嫌がらせのような言葉だ。
 確かに必死で生み出した筈の自分の考案した告白とは酷く異なる激白に、天馬の瞳は悲しげに揺れ、涙が波打っていた。吐露してしまった以上、弁解なんて許されないけれど、この告白だけは、どんな魅力的な文句も借りずに、自分だけの言葉で伝えたかったんだ。
 しかし、絶望したようなこの晴れない胸内に、一筋の光が挟み込まれた。

 「いいよ」

 大好きな人の言葉や声を聞き違える筈がない。霧野先輩は確かに、そう答えた。



 始まりはいつだったか覚えていない。霧野先輩に触れたとき、天馬の胸内の泉から温情が溢れ、肌を伝い、すうっと毛穴に浸透したんだ。今も同じように、溢れんばかりの幸せを感じている。
 流れていく時間に記憶が啄まれないように、天馬は就寝前には必ず、シーツに身を沈めながら最愛の人との会話を思い出す。天井と見境のない夜の樹海のような暗がりに掌を翳していると、徐々に疲れていく腕の神経の気だるさが、天馬に幸福の全てが夢ではない事を証明してくれるんだ。

 「蘭丸さん…」

 初めて恋する人の名前を形取ってみると、天馬は霧野先輩を独り占めしたような気分に浸り、安堵した。そのとき、鮮明な意識がすうっと遠のいていった。うつろな自覚を撫でる今朝に洗濯したシーツの、ほのかな洗剤の清涼な匂いが、とても気持ち良かった。


***


 汗ばむ肌をシャワーで洗い流してから天馬は登校した。木枯らし荘から多湿の外へ足を踏み出すと、せっかく清潔にした体から汗が相次いで焦げた肌を濡らしていくようだった。
 空を仰げば、あの日のような暗鬱な灰色の雲海が青空の素性を遮っている。霧野先輩に告白した日のことだ。足取りを重たくさせるような生憎の天候だが、天馬の踊っているような精気は、歩道沿いに立ち並ぶ小店や河川敷、学校の敷地内の並木道の原風景をぐるぐると迂回していた。学校に行けば、霧野先輩に会えるんだ。

 恋は夕立ちのように、突然、天馬の心に降り注いだ。しかし、何日と時間が流れても、この恵愛で湿った心胸が乾くことはなく、天馬の体内で福徳の波紋が広がっていくばかり。
 人を好きになる前、恋をすることを知る数週間前の俺が懐かしく感じる。
 天馬の理性を端から小さく蝕む、生まれて間もない恋の乳歯は、綿密に顕在な形を持って天馬を彩っていく。滅多に言葉にしない『好き』の二文字は胸内で酷く膨張するばかりで、歯がゆい哀愁を胸に煩いつつも、小躍りするような足取りで、天馬は学校に向かうんだ。

 恋の感触を掴んで以来、心なしか、視覚が煌びやかになったような気する。恋って凄い。いつもと変哲のない筈の風景も、特別な色調に変えてしまうのだから。
 霧野先輩に押し立てる愛念の波が、うんと甘い変調へ天馬を誘発したんだ。
 他のカップルのように、メールの交信をしたり、デートの約束をしたり、放課後の校舎でひっそり濃密な時間を過ごしたり、付き合い始めたとは言え、そんな甘やかな関係ではないが、この胸の内にとめどなく溢れる温かな蜜は、めっぽう幸せだと疾呼するから、周囲の価値観に流されず、たったひとつの初めての恋を大切にして、焦慮せず、ゆっくり俺たちのペースを見つけていきたい。


 「焦った方がいいだろ、それ」

 夢見心地な天馬の心情に水を差すように、狩屋は言った。眉間に寄った狩屋の細い眉の皺が、まるで怒気を含んで天馬を鼓舞しているかのように見える。
 天馬は、些さか席に腰をかけ直すと、狩屋を控えめに見ながら、

 「どうして?」

 と、狩屋とは対照的に眉を垂らして聞いた。
 狩屋は頬杖をつき、適切な言葉を脳内で巡らせながら、

 「なんつーかな、向上心が見られないっていうか」

 狩屋は言葉にとても敏感で、その言葉から現実性を汲み取ることが本当に得意だ。天馬は時々、それを羨ましく思う。天馬は依然として子供で、分け隔てなく許容してしまうのだ。物事への分別の仕方が中々、身につかない。
 陰湿な色調を帯びた上天が、二人のいる教室を非難がましく閲する中で、狩屋は発言が内包する真意の感覚の輪郭を漠然として撫でながら、貧乏ゆすりを始めた。

 「今を大切にし過ぎて、未来が見えなくなってるってこと?」
 「そう、そう!それだ!」

 人差し指を天馬に向けながら身を取り出す狩屋に、身を背進させて、ちょっと驚きながらも、天馬はさっきと同じような調子で、

 「でも、今を大切に思えなきゃ未来だって大切に思えないよ」

 と意見した。大好きな人と付き合っているなんて、誰もが夢を見て朽ちらせた願望を、天馬が叶えたという現状だけで、幸せを抱いて一生を歩んでいけるとさえ思った。矛盾しているようだが、もしかしたら俺は現在を大切に扱っているのではなく、現在の幸福と呼べる霧野先輩との関係に満足していただけなのかも知れない。だとするなら、なんて幼稚な恋をしていたのだろう。恋を吸った天馬の平常心が、空を漂う雲のように、浮雲のような足場を辿っているんだ。自分を見失うようで、心なしか怖気づいてしまう。
 そのとき、ふと狩屋が唇を開いた。

 「そもそも、霧野先輩って本当に天馬くんのこと好きなの?」

 それは天馬の肝を潰す一言だった。まるで、浮かれて小躍りする天馬の心胆が、一瞬で冷たく氷漬けされたような感覚。もうすぐ夏が巡る筈なのに、腹部の奥からはじんわりと、神経が凍えていくようだった。更に追い立てるように、狩屋が言葉を繋げる。

 「騙されてるんじゃないの?」

 騙されてるって何に?霧野先輩の優しさに?いつもと変哲のない狩屋の声が響き、天馬の心頭では憂慮やらうら悲しさやら、宛てのない疑念が交錯して、頭が騒乱した。とにかく、今は霧野先輩と話がしたかった。狩屋がまやかしだと言うあの優しさに触れて安堵したかった。

 ショートホームルームが終わると、天馬は素早く離席して、職員室に向かった。天馬のクラスでは、出席番号の順に日直を日替わり交代していて、規則性に殉じて今日は天馬が日直に充当していた為、これから職員室へ学級日誌を取りに向かわなければならない。正式には、ショートホームルームが開始する前に日直は日誌を持って着席していなければならないのだが、今朝は狩屋との会話に没頭していて、自分の役割を忘れ去っていた。天馬はこっそり心の内で反省した。
 何気なく流し目に見やった密閉された窓ガラスの外の景色は、沈痛を具現したような湿っぽい厚い雲海の下で活気なく沢山の自動車がガスを発散させながら道路を這っていた。木々の葉も力なく風に靡いているだけだ。
 風が軽く窓を叩く音を聞きながら、天馬はドアの閉まった職員室の前までやって来ると、肩を落とした。職員室の雰囲気や、立ち込めるコーヒーの芳香が苦手だった。湿っぽさが余る空気を短く吸い込むと、天馬は目の前にはだかる、普段より一回り大きく見えるドアをノックしようとした。そのとき、緩く力の入った天馬の拳が掠れ、ドアが開いた。天馬よりも長身の影が天馬を覆った。

 「あれ、天馬?」
 「霧野先輩…!」

 さっきまでの陰鬱な情感が嘘のように、天馬のセンチメントが見る見るうちにモチベーションを高めていく。申し合わせをしていたのではないのに、この広大な校内で偶然にも霧野先輩と会遇した奇跡に、喜ばずにはいられなかった。しかし、自分の仕事を忘れてはならない。まずは学級日誌を落手する事を優先させなければ。天馬は再び意気込んだ。

 「丁度良かった。これ。」

 そう言われて差し出されたのは学級日誌だった。表紙の白い見出し欄には天馬のクラス番号が書き込まれている。天馬は一気に肩の力を解した。

 「なんで、これ…」
 「俺も日誌を取りに来たんだ。そしたらお前のクラスの日誌もまだあったから、届けてやろうと思って」

 天馬は丁寧にお礼を告げながら、学級日誌を受け取った。掌に乗った重みが感動を煽る。それは霧野先輩にも伝わったらしく、湿気のある髪をぽんぽんと叩くようにして撫でてくれた。

 「途中まで、一緒に行きましょう」

 霧野先輩は快諾して、肩を並べて歩いてくれた。霧野先輩の隣には清適の匂いが漂っている。今まさに、霧野先輩は天馬を気遣い、歩幅を合わせてくれているのだ。その香気は騙しようがないと思う。
 天馬は、この安息の時間を恋人のスキンシップをして埋めたくはなかった。温和な時間の流れを守りたいと思うし、こうして霧野先輩のたくましい横顔を見ることが大好きなんだ。世間の謳うカップルの姿態を模範するなんてまっぴらだ。
 そう思うのに、どういう訳か、さっきから、心を劈くような狩屋の言葉が、這いずるように脳内に取り縋る。

 「…霧野先輩」

 一年生と二年生の透目を裂く階段を面前に控えた所で、天馬は霧野先輩を引き止めて声をかけた。霧野先輩は相変わらず優美に笑んでいる。天馬が言い辛そうに眉を顰めて目を背けると、霧野先輩は、

 「ゆっくりでいいぞ、待つから」

 と言って、じっと天馬を待ってくれた。霧野先輩が瞬きをすると、長い睫毛が伏せられて肌に深い影を落とす。とても明媚に映えるので、いつも思わずうっとりしてしまう。そして、今日も同じように見惚れた。けれど、恍惚に交えた緊張感が見えない糸のように天馬の体を巻きつけるようだった。
 ほとんど息を詰まらせながら、天馬は躊躇しつつ唇を開いた。

 「霧野先輩は本当に、俺のこと好きなんですか?」

 言うが早いか、鼓動が早鐘を打ちながら天馬の疑問を不安に変えていく。血相を変え、笑顔を伏せて聞く普段とは似つかない風貌をする天馬に、霧野先輩はちょっと驚いているようだった。
 陰気臭い風情に微かに耳朶を触れる蝉時雨が溶け込んでいく。自然と俯く視線の先には湿った土が擦れたような汚れが転々として廊下に広がっていた。一向に口を開かない霧野先輩に、体に巻き付くとめどない緊張感の糸ががんじがらめになってしまいそうだった。いっそのこと、質問を取り消そうとして顔を上げたそのとき、

 「ひゃっ!」
 
 窓ガラスのほとんどが白い可視光に染まり、白い刃のような閃耀が厚い雲を裂いていた。ゴロゴロと唸る雷鳴が虫の鳴き声を戒める。脅かす雷は、より怖がる人の元へと向かっているような気がして、天馬はぞわりと産毛を総立ちさせながら警戒した。
 霧野先輩は、まるで息を詰まらせる天馬を見透かしたかのように、天馬の淡く色付いた外耳を掌で包むようにして塞ぎ、

 「雷、凄いな」

 そう言って、霧野先輩は柔らかく笑った。どうして、今そう言ったんだろう。触れる指先から優しい温度が伝わり、塞がれた耳輪が甘い熱を灯していく。なんだか照れくさいような、嬉しいような気がするが、それよりも期待と不安が溶け合った妙な気分が大きかった。微かに雷鳴が聞こえるが、霧野先輩が耳に掌を添えてくれてるから音は聞こえにくいし、怖くはない。ずっとこの時間が続けばいいのに、天馬はポツリと心の中で呟いた。

 「好きじゃないよ」

 遮られている筈の聴覚で、鮮明に霧野先輩の声が響いた。余りにも唐突に放たれた躊躇のない言葉は、全ての音を遠ざけ、天馬の熱をすうっと冷ましていく。天馬は小刻みに呼吸をしながら、霧野先輩を見据えてみた。その双眸は、天馬を捉えてはいなかった。碧落で猛獣のように哮る雷光のもっと向こう側を見つめながら、まるで独り言のように答えたんだ。
 霧野先輩は、遠い目をしていた。



 『好きじゃないよ』

 お弁当を広げる昼下がり。天馬は教室の近くにある紙パック飲料専用の自販機で買った苺ミルクをストローを使って吸いながら、今朝の返答を反芻していた。鼓膜の奥で蘇る霧野先輩の静かな声は罪悪感が直撃したように憂愁が漂っている。
 椅子の背もたれに体を預け、楽な体勢でいるが、決して自由ではなかった。関節が気だるくて動かない。天馬は細々として箸で弁当のおかずを摘みながら、溜息ばかりを零した。すると、売店から戻ってきた狩屋が、

 「信助くんたちは…ああ、委員会だっけ」

 と、買ってきたパンを詰めたビニール袋を下げながら言った。
 夏季が近付いてくると、必然的に委員会活動が活発になる。夏休み明けに予定される体育祭や文化祭、学期末の纏め作業や雑用、特に忙しい委員会なんかは昼休みや放課後を削ってまで集合がかかり、目まぐるしい学校生活を過ごしているようだ。
 天馬は意味もなくおかずを咀嚼したまま飲み込まずに、ぼんやりとして、信助の席から椅子を引きずる狩屋を眺めていた。

 「霧野先輩、別に俺のこと好きじゃないみたい」
 「だろうね。俺だって霧野先輩の立場だったら、天馬くんを好きじゃないだろうし」

 狩屋は得意げににこにこして頷きながら言った。 

 「俺は好きなんだけどなあ」 

 と息を吐きながら言うと、自然と視界が濡れて輪郭が霞んできた。はっとして、慌てて涙を拭う、霧野先輩で頭が詰まっている天馬の机の向こう側で、狩屋は呆気にとられたような顔をして、咥えたパンを机上に落としていた。天馬の『好きなんだけどなあ』と言う落ち込んだ口調の残響が、取り憑かれたように狩屋の鼓膜の奥を焦がす。

 好きなんだけどなあって、まさか、まさかとは思うけど、天馬くんって…、俺のこと、好きなのか?いや、でも、霧野先輩は…。もしかして、俺に嫉妬させようと、わざと持ちかけて…?気付かなくてごめん、天馬くん……。

 誤解から生まれた余計な情けを浴びているとも知らず、天馬は神妙な顔をして弁当箱を片付け始めた。弁当箱の中身は、まだ半分以上のおかずが残っていた。


***


 バッグの隅に小さく納まった弁当箱が重い。肩から下がるショルダーがいつもより布を張っているような気がする。
 放課後になっても、視覚が暗さを併せた微妙な空模様のまま、雲の辺りを雷が這っているように青白い光が薄墨色で見え隠れしていて、天馬は悲しみの色を垣間見たような感じがした。この風景を忘れることは、暫くないんだろうな。
 傘を学校まで所持していない天馬は、雨が降らないよう天気を案じながら足早に校舎を後にした。

 それにしても、今日の狩屋はどうしたのだろう。まるで天馬の気持ちを軽視するみたいに、散々、天馬の霧野先輩への恋心を甚振ってばかりいたのに、数時間前の昼休みの中盤からは、人が変わったように、一言で纏めれば、優しくなった。どこかのお偉いさんにでもなった気分だ。いや、天馬はまだ幼いから、その身内か。
 やっと天馬の心情を汲んでくれたのかと一瞬思いもしたが、これまでの狩屋との記憶を掘り起こすと、その可能性には心底期待ができなかった。
 では、どうしてだろう。普段とは似つかない狩屋の容姿に、気持ち悪さも感じたんだ。失礼だけれど。

 「ちょっと、今日は疲れたかも」

 まるで、霧のように脳を這う、霧野先輩の落ち着いた冷淡な本音を脳から追い払おうとするかのように、実際そうだったのかも分からないが、必要以上に日直の仕事に精を出し、没頭していた。職員室にいる先生に日誌を届けた所、これまででこんなに懸命に仕事してくれたのは天馬が初めてだと、褒めてくれた。職員室への苦手意識は抜けないけれど、以前よりは心が軽くなった気がする。

 「あ」

 立ち昇る湿気が足に絡み、怪しげな空模様を仰ぐと、小雨がちらついていた。雨粒がアスファルトに深い色合いを落としてくと、天馬の胸内にも同じように、雨粒のように冷たい、得体の知れない何かが浸透していくようだった。徐々に激しく降り注ぐ雨に打たれながら、天馬はぼんやりとしていた。
 そのとき、曇天を眺める天馬の視界を、ショルダーバッグの影が遮り、雨粒の感触が一瞬のうちに消えていった。肌に伝った滴の跡の痒さだけが残った。

 「気象庁が、雨はすぐ止むって言ってたから、雨宿りでもしようか」

 いつも、何かの拍子に優しさを振り撒くのは、決まって霧野先輩だった。今だって、そう。霧野先輩は、細やかな水圧に打たれながら、天馬を安堵に触れさせてくれる。けれど、情の薄い優しさは、何て空虚なのだろう。
 鼻の奥がつーんとして、唇が痙攣する。霧野先輩は、何も言い出せずにいる天馬の腕を引くと、近場のバス停のベンチに天馬を座らせた。体温よりも遥かに冷たい雨の水圧が、ふんぞり返った屋根を殴打する。霧野先輩は天馬を一瞥してから、少し距離を挟んで腰を下ろした。

 諦念にも似た沈黙が時間に紛れ、排水口に溜まった水のように流れていく。雨の降る空に視線を漂わせながら、霧野先輩は何やら考え込んでいるようだった。天馬は雨を恐る小動物のようにじっと身を固めて、雨が止むのを待った。早く、晴れて欲しかった。そうすれば、暗雲を閉じ込めたこの幼い心に、太陽のように温かく眩しい光が満たしてくれると思ったんだ。
 そのとき、霧野先輩が、まなじりを決したような様子で口を開いた。思いがけず、天馬はどきりとした。

 「今朝の言葉、聞こえてたろ。怒ってる?」

 今朝の言葉。天馬を悩ませる、あの言葉のことなんだろう。
 そういえば、あのときは霧野先輩が耳を塞いでくれていたんだっけ。天馬の耳朶に、微かに熱が蘇ったようだった。
 天馬は、霧野先輩の言葉に、黙って頷くと、俯きながら、

 「怒ってるとするなら、自分に怒ってるんだと思います」

 と、呟いた。霧野先輩の心配そうな目線がこちらを向いていることは分かっていたけれど、今は目を合わせられそうになかった。それでも、霧野先輩が少し驚いたように肩が跳ねたのは、分かった。

 「酷く浅ましかったんです、俺が。告白を受容してくれるなら、両思いだと思ってた」

 悔しさと情けなさが交錯して、酷く自分が惨めに思えてくる。霧野先輩はどう反応したらいいのか分からないという風に、ただ天馬に視線を投げていた。天馬は力強く拳を握ると、肩で息をしながら、

 「周りの子を見てて、学びました。みんな、彼氏や彼女の悪口を言うんです。それって、きっと、恋じゃないからなんだなって思いました」

 と、できるだけ穏やかに言った。そして、

 「俺、霧野先輩が好きです。好きな人の悪口なんて広めたくないし、先輩には、笑っていて欲しいなって思います」

 やっと、天馬の鷹揚な瞳が霧野先輩を仰ぎ、声調が落ち着いてきた。口には出さない全ての感情を後ろめたく思いながら、天馬はそれらを弾んでいた呼吸も添えて胸の奥底に封じ込めた。まるで、自分の感情をコントロールできたみたいで、天馬はちょっとだけ大人になったような気がした。

 「だから、大丈夫なんです。明日からは、ちゃんと、霧野先輩の恋人として、笑えるから」

 言いながら、一瞬だけ、自分が誰なのか迷いそうになった。これは本当に、本心なんだろうか。ううん、きっと、見紛うことなく、本心なんだ。言い聞かせるように放った言葉たちは鼓膜の奥を叩くように響き、騒めくように血の音がじんじんと聞こえてきた。
 霧野先輩は照れ臭そうに鼻の先を軽く掻くと、ふと睫毛を伏せた。

 「もし、天馬に恋をしていないとするなら、どうして俺は、あんな返事をしたんだろうな」

 霧野先輩は、にやりと腕白な笑顔を見せた。その瞬間、天馬の胸内から、ふつふつと、嬉しさのようなものが、音をたてながら湧き出してきた。脳内を覆っていた嫌な霧が自然と消えていく。霧野先輩の笑顔を見た途端、いつもどおりでいられると感じたんだ。安堵した天馬の目から、ぶどうのように大きな涙の粒が零れていく。ひなたぼっこをしているみたいに、とても暖かい。

 「可愛かったからだよ、告白してくる天馬が」

 天馬の心臓が、甘い鼓動を打ち始めた。霧野先輩の指先が、天馬の涙の跡を滑る。

 「だから、泣かせたくないって思ったし、それに」
 「それに?」
 「それに…」

 影が降った、と思った。雨ではなく。天馬の視界に降り注ぐ雨の滴を、次々と吸い込んだ地面のように、天馬の心胸で、とある感情がつんのめる。驚愕の中央を占める、心嬉しさだ。けれど、感情に表情が追いつかず、天馬は間抜けな顔をしているんだろう。霧野先輩は、煮詰めた距離を離すと、そんな天馬の反応を、まるで予測済みだと言うように、こらえるようにして、ぷと笑った。
 もしも、接近した影が雨だとするなら、唇に接触した感触は、雨がものを打ち付ける音だ。そう思う。
 重さを感じない腕を、のろのろと動かし、指先で唇に触れてみる。生暖かく、柔らかく、自分の唇ではない感触の余韻が、明らかに残っていた。みるみるうちに、面白いくらい天馬の頬が紅潮していく。そして、ついに、霧野先輩が吹き出した。
 ああ、ああ、ああ。霧野先輩は、俺以上に馬鹿だ。

 「そう、その顔。それ、ほんのちょっとだけだけど、独り占めしてみたいって思ったんだよ」

 天馬はその言葉を聞いた途端、思わずひゅっと息を吸って、胸を詰まらせてしまった。そんな天馬を知ってか知らずか、霧野先輩はなおも続ける。

 「明日からは、ちゃんと笑ってくれるんだろ。なら、俺も笑顔でいる」

 そう言うと、霧野先輩は顔を崩して笑った。その笑顔が待ってくれてるのなら、天馬は安心して笑顔でいられると思った。

 天馬は目を閉じて、霧野先輩の肩に寄ってみた。それに気づくと、霧野先輩は天馬と手を重ね、にっこりと笑んだ。どきりとして、天馬は素早く俯いてしまい、火照りながら雨が過ぎ去るのを待った。心の奥底では、密かに、もう少しだけ雨が長引くことを期待していたのかも知れない。そう思うほどには、いつの間にか絡んだ指を解くことが、うら悲しさを煽った。

 部屋に潜ると、早速ベッドに身を沈めて、薄暗さを纏う天井に手を翳してみた。腕を疲労が襲い、気だるさが残った。これは、夢ではない証。胸内を満たす愉悦も、それを擽る心苦しさも、先程まで絡めていた指の感触も、時が止まったような一瞬だけの唇の熱っぽさも、夢ではなく、夢のような現実として、天馬の胸に熱く焦がれ、焼き付いていく。

 早く明日にならないかなあ。霧野先輩の言葉を無意識に反芻させながら、焦れていると、なんだか瞼が重くなってきた。感情の変化に忙しい一日だったから、きっと疲れていたんだ。そう思って、天馬は静かに目を閉じて、シーツに身を委ねようとした。
 そのとき、ショルダーバッグの中から、虚を突くような携帯の着信音が部屋中に響いて、天馬は睡魔が逃げ出すくらいに目を大きくさせて開いた。この聞き覚えのない、妙に不快感が顔を出すメロディは、狩屋が勝手に弄ったに違いない。いつものことなので、もう驚きはしない。いちいち怒ったりして、感情に振り回されていると、狩屋と付き合ってなどいられないと、把握しているからだ。天馬は慌てて携帯を取り出すと、新着メールを開いた。狩屋からだった。

 「……何これ」

 放課後くらいなら付き合ってあげる。
 そんな文面の、一行きりのメールの対処法など天馬が知る筈もなく、霧野先輩に相談してみたら「放っておけ」と言われたので、そのメールは捨てないで寝かせておいた。

 霧野先輩のメールアドレスをじっと見据えながら、天馬は思案した。
 恋人という肩書きが絡んでいても、所詮はまだ天馬の片思いに過ぎないのだ。これから努力をして、徐々に好きになってもらえるように頑張ろう。そう決心して、天馬は今度こそ安らかに眠りについた。

 その後に届いた狩屋のメールを、天馬はまだ知らない。


end
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