Listen to my heart! | ナノ
Listen to my heart!
 

 霧野先輩が好きだ。大好きな部活を終え、汗ばんだユニフォームを制服と取り替えようと更衣室に入った時のことだった。天馬はいつも通り、さりとて意味のない、その時の気分を口にしながら更衣室に辿りついた。暑いだの、もっとサッカーがやりたいだの、『平凡』と言われれば『平凡』なことだったように思う。しかし、そんな誰宛てでもない独り言は、3歩進めばすっかり忘れていた。
 自分から放たれる汗の臭いにうんざりしつつ更衣室のドアノブに手をかける。ドアを開くと、霧野先輩が長椅子に腰を据えながら、器用に眠っていた。天馬はまず、起こさないようにそろそろと忍び足で室内を歩き、ロッカーの前で止まると、視線だけで霧野先輩を一瞥した。
 近寄って、静かに寝顔を覗いてみると、いつも見ている綺麗なグリーンの瞳が伏せ、長い睫毛が深い影を落としていた。

 「綺麗だなあ…」

 天馬は、無意識にそんな言葉を呟いていた。ただ何となく声に出した言葉だが、しかし、本当に綺麗だと思う。新緑のような霧野先輩の瞳が、天馬は大好きだった。今はその瞳は見れないけれど、伏せた瞼の先に必ずあるそれに、天馬は想いを馳せ、視界がぱっと明るくなった気がした。
 毛穴が縮こまって、ある感情が強く跳ね上がる。天馬は、

 「好き…」

 と、霧野先輩の寝顔を見ながら、反射的に囁いていた。

 「霧野先輩、大好きです。」

 色彩がいつもよりも濃く視界に映り、音が一瞬聞こえなくなった気がした。流れていく時間が徐々に通常の感覚を取り戻していくが、どうやらさっきの音とは違うらしい。まるで全身が心臓になったようだった。頬がかあっと熱くなり、天馬は咄嗟に掌で紅潮した頬を覆った。更に追い討ちをかけるように、どうせ眠っているとたかをくくっていたのだが、霧野先輩は睫毛を揺らしながら瞼を開いた。見え隠れする宝石のような眸に、天馬は場にそぐわずうっとりしてしまう。

 「天馬って、俺のこと好きだったの?」

 寝入っていたのが嘘のように、霧野先輩の声音ははっきりとしていた。逃げようとする天馬の行動を見透かしていたかのように、霧野先輩は天馬の手首を逃がすまいと掴みにかかる。大きくて、指の細い、がっつりした手に、天馬は少し面食らった。恥ずかしさばかりが胸に押し寄せ、ほとんど息が詰まりそうだった。2人だけの更衣室が、いつになく広く感じた。

 「……はい」

 とやっとの思いで返事をし、頷いてみせた。天馬は何を言われるかどきどきと心臓が早鐘を鳴らしていたが、霧野は、そっか、と言って、天馬の手首を掴む腕の力を緩めた。少しそれを惜しく思いながら、天馬は視線を霧野先輩に戻した。端整な顔立ちがこちらを向いていて、しかも霧野先輩は天馬が向ける思いを知ってしまった。小恥ずかしい気分だ。

 「そうか。届くといいな、その気持ち」

 他人ごとのようににっこり笑って言う霧野先輩に、天馬の眉が微かに皺を作ったのが分かった。
 天馬は「はい」と言うが早いかロッカーを開き、素早く制服を取り出した。霧野先輩は掌であくびを隠すと、腰を重たそうにして立ち上がった。もう、帰るんだ。と思っていると、霧野先輩はポケットの中から鍵を取り、天馬に見せ、

 「天馬が部屋を出ないと、鍵、かけられないよ」

 と、言った。それは霧野先輩の優しさなんだ。天馬に鍵を託すのでなく、ただ待っていてくれる気遣い。

 「霧野先輩、大好きです」

 胸が締め付けられる思いでもう一度伝えると、霧野先輩は「さっきも聞いたぞ」とはにかんだ。何度も、霧野先輩に一直線に向く想いを言葉にしてみると、まるで自分だけの感情に出来たような気がして、嬉しくなった。



***



 今日も良い天気だ。照りつける太陽がじりじりと暑いけれど、鼻の先を撫でる風は気持ちが良い。何だか特別な日になるような気がして、わくわくした。
 夜露を含む、ひんやりと湿った石塀が続くこの道を真っ直ぐ行けば大きな車道に出る。視界が開けた先には歩道沿いに小店は立ち並び、天馬が家を出る時間帯では、まだシャッターが下りたままだ。よく自転車が通るので、気をつけなくてはならない。

 憧れの私立中学に入学し数ヶ月が経つ。迷うことなく自然と足が前に出るようになり、今では学校が楽しいものへとなっていた。
 サッカーに貪欲になれる場所もあり、勉強は少しばかり大変だけれど学べないよりは遥かに良い。初めての経験、初めて会う人達、それから初めての感情たち。まさか同性の霧野先輩に恋するという結果は想定外だけれど、不思議と憔悴はなく、むしろ天馬の胸内は抑えても食み出るくらいの喜びに満ちていた。そこそこ充実したスクールライフだと思う。俺も先輩方のように大きな背中を持つようになりたい。今ではそんな事も思う。

 学校の門を通り抜け、並木道のような新緑の葉をつけた樹木が通り道の脇に一直線に聳える道を歩く。滅多に自動車は入ってこないけれど、念の為に右脇に寄って歩くことが癖になっていた。

 それにしても本当に良い天気だ。いよいよ夜露も今日の空気に塗り替えられてくる頃だろう。今日は部活の朝練習の予定は入っておらず、それが悔しいくらいだ。こんなに晴れてたら、サッカーも充実するだろうし、逆光に照らされない限りは霧野先輩の顔も良く見えるだろうな。今にも触れそうなくらい強く霧野先輩の姿を瞼の裏側に浮かべると、一斉に葉が騒ぎ出し、風が天馬の背中をふわりと押した。自分の恋を応援してくれているみたいで嬉しくなって、天馬ははにかんだ。



 「おはよー」

 長い階段を上り、足を重たくさせながら教室の扉を開けると、クラスの男子がひとつの机を中心に円を作って人溜まりを見せていた。天馬は目を丸くさせて、なんだろ?と不思議に思ったが詮索したりはせず、自分の席の机上に荷物を置くと、教科書やノートを無造作に机の内に放る作業に移った。全ての教科の道具をしまってしまうと、ショルダーバッグはとても軽くなった。大人数で固まった男子を横切りロッカーにバッグを入れると、天馬は黒板の真上に設置された時計を見上げた。登校完了の時刻まで、まだ多少の余裕があった。
 宿題は昨晩のうちに済ませておいたし、1限目は国語と体操着に着替えが必要な教科ではない。よし、やることは全部やり終えた。けれどショートホームルームまでやることはなく暇だ、どうしようかと考える仕草をしていると、男子の人溜まりから狩屋がひょっこりと顔を出し、手招きした。辺りをきょろきょろと首を巡らせて見てみるけれど天馬の他に誰も生徒はいない。すると、狩屋は口パクで「おまえだよ」と言った、ような気がした。天馬は乗り気ではなかったが、何もすることがないので、黙ってその輪に加わることにした。

 僅かな隙間を両手を使って掻き分け、自分のスペースを作る。周りの声に耳をそばだててみると、話題の名目はどうやら机上に置いて皆が囲んでいる雑誌にあるらしい。背伸びをして目を凝らしながら覗いてみると、開かれたページはアンケートコーナーだった。なるほど、話題の趨勢は男子の恋人と呈した女子への不満らしい。暇な現状を口実に輪に加わったものの、愚劣さを持て余しながら馬鹿馬鹿しく思えていた。男子達はアンケート第1位を博した『我侭な女子は嫌だ』という文字に指を這わせ話を進めている。誰にも気づかれない程度に息を落とすと、天馬は誘ってくれた狩屋に口の中で謝り、熱の篭った男子の戯れの輪から抜け出そうとした。すると、天馬の手首を誰かが掴み、ぐん、と引き戻される。なんだろう、そんなに需要がある話題なのかな。とてもそうとは思えなかった。
 半信半疑で掴む手首を一瞥すると、その手は瞬時にぱっと離され、今度は抱くように肩に据えられた。やはりと言うべきか、狩屋だった。

 「アホらしいって思うのも無理はないけど、参考程度にはなるんじゃないの〜?」
 「参考?参考って、何の参考だよ?」

 聞くと、狩屋はニンマリと笑った。そして、先程に輪をかけて天馬の耳元に唇を近付けると、

 「天馬くんって、好きな奴いるでしょ」

 と、確信に満ちているようなからかう口調で天馬を硬直させた。単純な作りをしている脳内ではあっさりと霧野先輩の姿が浮かんでしまい、瞬時に天馬の視界は淡く染まった。

 「あ、図星。ねえ、誰?」
 「う、うるさいっ!狩屋には関係ないだろ!」

 ケチー、と唇を尖らす狩屋から視線を逸らし、肩に乗った狩屋の手を振り払う。男子がこちらをひと目見たが、会話の全貌は聞かれていないようで、天馬は息を吐いて安心した。
 余計なこと言うなよ、と言う念を視線に込め狩屋をちらりと見れば、狩屋は指を張って天井に掌を翳し、張りのある声で「ねえねえ」と相変わらずニンマリしたままの唇を開いた。何だか嫌な予感がして、天馬は何処か遠くで血の気が引く音を聞いていた。狩屋の声に一斉に振った男子たちは、不思議に思ったような素振りも見せず、むしろ目を生き生きさせていた。いよいよ後戻りは効かなくなった。天馬は狩屋が余計なことを口走らないことを祈った。

 「こちらの天馬くんに、好きな人がいるようですよ〜」

 突き出されながら公然の面前で告げられ、天馬の思考はシャットアウトした。ただ頬だけがかっと赤く染まり、覚束ない脳で理解しうるのは、言い逃れなんてできっこないということくらいだ。穴があったら入りたい。

 「恋愛初心者でやっと初恋を迎えたであろう無知な天馬くんにどうか好きな人を落とす方法の1つや2つ、伝授してやって下さいな」

 話の中心核であるクラスのリーダーの立場にいる男子に向かってぐいぐいと押し出され、天馬はやっぱ輪に入るんじゃなかったと後悔をした。
 相手の顔は逆光でいまいち良く見えず、ただの学ランを彩るロイヤルブルーが薄く映った。まるで空のようなその色合いに、手で影で作りながら見惚れていると、天馬の視界を遮るように雑誌が眼前に迫っていた。
 狩屋って、友達を売るのが好きみたい。



 乗り気でないまま複数人のクラスメイトから『恋愛の極意』とやらを雑誌を引き合いに教えて貰った。少し困ったけれど、皆のくるくる変わる楽しげな表情を見ていると、感染したように天馬も自然と笑えていた。自分の恋を応援してくれてるみたいで嬉しかったんだ。
 けれど、半場、一方的にテクニックとして伝えられた事柄を実践できるかと言われれば自信はなかった。ハードルが高いというより、ひとつひとつの言葉が悔しいけれど天馬にはまだ早かった。慣れない恋愛のことにばかり頭を使うこと自体、なんだか自分には不似合いな気がする。今朝にされたアドバイスは『無闇に我侭を言わないこと』だったけれど、恋愛の価値観が呈する我侭がどのラインにあるのかが天馬には今ひとつピンと来ず、分からずじまい。けれど、今はそれでいいのだと思う。少なくとも、天馬はそう言い聞かせた。

 窓の外では風が木々を揺らし、まるで踊っているかのような心地良い自然のざわめきが微睡みを誘う。心を洗うような太陽の温かさは、いつの間にか暑さへと塗り潰され、窓側の席に座る生徒は汗を肌に滲ませながら、下敷きを使って扇いでいた。なんだかいよいよ瞼が重くなってくる。
 我侭かあ。もし霧野先輩に何かお願いできるなら何て言おうかな。ふとそんな意味のないことを思案しながら、天馬は瞳を閉じた。どこか遠くで数学の先生の声を聞きながら、天馬の意識は遠のいてしまった。



 夢を見た。後になってみれば目を開いた瞬間に忘れてしまうくらい微かで薄暗い夢だ。
 昼間の海を写したような色を纏う日の沈んだ空はとても鮮やかで、闇を裂く黄金色の丸い月が陸地を照射する。真珠のような星は微笑んでいるように見えた。外の水道を使ってバケツにたんまりと水を入れてやる。波打つ水面に自分の姿を映った。なんだかみすぼらしく映る自分の姿に気落ちしてしまい、まるで追い払うように、天馬を囲む植物たちにバケツの水をざっとかけてやる。土が湿り、花びらから水滴が流れ落ちる様子を、天馬は空になったバケツを持ちながら目で追っていた。

 「水面じゃなくたっていい。せめて、せめてあの人の瞳に」

 綺麗に映れたなら。
 いつになく鮮明に鼓膜を揺する自分の声はどことなく元気がない。たったひとつの感情が生み出す新たな心情は決してひとつだけではないんだ。
 夜露のように植物の葉に滴る水を眺めているうちに、空は別蜜柑の色の明るみを帯びていた。朝の風が心地よく外を吹きまわり、厚い雲を裂いて太陽が顔を現す。白く燦然と輝くそれを合図に、また昨日と同じように1日が始まる。朝焼けを見届けると、天馬は裾の長い寝巻きを翻し、植物だらけの野原を後にした。野原を抜け出し、ずっと続く通り道の脇には野苺の実がなっていた。
 天馬はそんな風情を楽しみつつ峠を下り、夢を出る。



***



 自分が諦めてしまえば叶うことなく儚く朽ちてしまう足場のないような恋だけれど、天馬は不思議と怖くはなかった。荒れ果てた大地にだって花が綻ぶように、天馬の幼い恋心も実を結ぶと信じていたかったのだ。願い信じるだけでなく、現実に引き起こす為には相応な努力を伴う。乗り気ではなかったにしろ、天馬は今朝に学んだ男子からの恋の援助の通達を脳内で反芻してみた。雑誌の言うことをアテにしている訳ではないけれど、現代の中学生の調査結果なのだ、参考程度にはなるだろう。

 昼間になると照りつける日光が一段と輝きを増し、気温を上昇させていく。じりじりとした熱気が視界を揺らがし、天馬の顎に汗が溜まっていく。すると、ビーッと笛の音が鳴り、集合がかかった。

 「今日の練習はここまで!各自、水分補給を忘れずに行うように!」
 「はい!」

 毎日の楽しみでもある部活を終え、使った道具を全て倉庫に片付けると、天馬は調整にも入った。やっと作業が終わり視線を上げた頃にはもう他の部員はグラウンドには残っておらず、天馬が1人きりでいた。誰もいないと思った途端に肩がずっしりと重たくなり、天馬は肩を手を使って揉みながら更衣室を目指した。荷物を全て置きっぱなしにした更衣室に戻ると、霧野先輩がロッカー内に実を乗り出した状態が天馬を待っていた。すでに制服を纏い、ショルダーバッグを肩に下げていて、帰り支度は万全のように見える。ちなみに本日の鍵の当番は天馬に割り振られていた。

 「霧野先輩、何か探し物ですか?」

 他に部員のいない更衣室に1人きりということは、神童先輩たちを先に帰らせたのかもしれない。
 霧野先輩は天馬を振り返ると、

 「携帯」

 と、短く答えた。
 携帯を探している、ということなんだろう。もっと愛想よく答えてくれたっていいのになあ。

 なかなか見つからない携帯を探す霧野先輩の数個のロッカーを跨いだ隣で、天馬はいつものように自分のロッカーから制服を取り出した。
 まるで測ったように、滅多に訪れない2人きりの空間が連続で続くと、なんだか目に見えない何かに励まされているような気分になる。
 それに縋るように、天馬は昨日の放課後を思い起こしてみた。霧野先輩に告白した状況、重たく空気に浸透していく自分の発した言葉。今になって思えば、どれもこれも羞恥に満ち溢れた行為だ。後悔してしまうような尻こそばゆさに天馬は自分の頭を軽く小突いた。けれど、言葉を紡ぎ続けたのは、霧野先輩が眠っているという油断からだけではない気がする。ずっと前から感じていたのに気づかずにいた、自分の心に芽生えた情緒。これからの未来を照らし出す感情は甘く心の波に波紋を作り、天馬を渦に沈ませていく。逃避的で甘ったるい感情の渦だ。

 「お、あった」

 携帯を見つけ出したらしい霧野を流し目に見やると、折り畳み式の携帯電話を開いているところだった。生きている時間は天馬と1年くらいしか違いがない筈なのに霧野先輩がとても大人びて見えた。そんな先輩に恋をしたのは天馬だが、こうして見ると落ち込んでくる。猛烈に感傷に浸りたくなってアプローチする気分にはなれなかった。
 それに、クラスの男子も『我侭は控えるべき』と言っていた。アプローチの為と口実を付けて近寄っても、いつらしからぬ我侭で唇を湿らせるか分からない。理性からはみ出た我侭は、その人の私欲でしかないのだから。そして天馬は子供で、境目の区別がつけられない。
 天馬が肩を落としていると、霧野先輩は更衣室のドアノブを握りながら天馬に「またな」と挨拶をした。それだけで充分なような気がしたので、天馬は引き止めたい気持ちと、喉元まで込み上げていた利己的な言葉をぐっと抑えて、

 「また明日」

 と、頬のあたりに掌を添えて挨拶を返した。
 今日は特別な日になるような気が勝手にしていたが、やはり現実はそう甘くない。天馬は気を引き締めると、さっさと着替えてしまおうと練習用の靴下を脱ごうとした。それを遮るように、霧野先輩がふと声をかけた。

 「天馬。本当に良いの、帰っても」

 弄ぶようなニンマリとした唇で尋ねられ、天馬は胸が締め付けられる感覚を覚えた。ぐっと飲み込んで抑えていた弾けんばかりの我慢が、霧野先輩のそんなたったひとことでおじゃんになってしまう。なんだかそれが無性に悔しくて、私欲と業腹が入り混じったような微妙な感情に晒された。霧野先輩はいたずらっぽく笑んで、最後のチャンスだと言わんばかりに「いいの?」と短く聞いてくる。分かってる癖に。と口の中で呟くと、天馬は半場、反射的に声を張っていた。

 「い、一緒に帰りたいです!」

 もう、胸はいっぱいいっぱいだった。霧野先輩は満足そうに微笑んで、更衣室の扉に体重を預ける態勢で腕を組みながら、天馬を待ってくれた。やっぱり優しいなあ、と胸内で呟きつつ、今度こそ靴下を脱いだ。
 理解しているつもりではいた。霧野先輩が天馬に与えてくれるチャンスにも似た甘さは、優しいだけではなく、同時に卑しいものでもある。けれど、それに縋るように霧野先輩との距離を詰めようとする天馬は、もっと下劣で卑怯なのだ。勇気も自信もない癖に、好都合なチャンスには飛びつく消極的な恋愛初心者。明日こそは自分から。と、天馬は小さくガッツポーズを作って、密かに意気込んだ。

 身支度を終えると、霧野先輩と肩を並べて歩いた。影の俺が霧野先輩と重なったり離れたりしているのが、磁石みたいでなんだか面白かった。
 サッカー塔を後にして校門を出ると、朝とは違う匂いが胸をいっぱいにした。同じ場所でも、時間と気分によっては全くの別物のように見えるんだ。空も薄暗くなり、隣に霧野先輩がいるのだと思うと少しだけ変な感じがした。

 けれど、その幸せな感覚を手放したくないのなら、俺が努力をしなければ。天馬が諦めれば瞬時に終わってしまう儚い恋を叶えるにはやはり距離を煮詰めなければならなかった。

 「霧野先輩は、我侭とか嫌いですか?」
 「我侭?そうだな、嫌いって言うか、度が過ぎてるものは迷惑、くらいには思うよ」
 「度が過ぎてるって、例えばどんな?」

 聞くと、霧野先輩は顎に手をあてて「そうだなあ」と少し考えているようだった。外灯に照らされる霧野先輩の横顔はとても映えていて、思わずうっとりしてしまう。
 霧野先輩を好きだと自覚した時も、こんな風に見惚れていたっけ。クラスメイト分の数学のワークとノートを先生に頼まれて職員室まで一気に持ち運ぼうとしていた時、霧野先輩が通りかかって手伝いをしてくれた。半分よりも少し多めに持ってくれた霧野先輩の横顔は他の生徒とは比較にもできないくらいの綺麗さを博していて、天馬は惚けていた。きっかけはいつだったか思い出せないけれど、日を積むごとに恋心が強くなっただけで、これといった出来事はなかったと思う。ただ、好きだと感じたのだ、この横顔を。滲み出る、その優しさを。
 時が止まったように、ぼおっとしながら霧野先輩の横顔を堪能していると、先輩がふと天馬を見やった。急なことで、天馬はどきりとして、成り行きを見守った。

 「天馬、俺に我侭とか言ってみて」
 「え、俺がですか?」
 「そう、天馬が」

 唸り声をあげながら考えていると、難しい顔をしていたのか、霧野先輩は微笑んで「そんな悩まなくてもいいんだぞ」と言ってくれた。大した問題ではない筈なのに、なんだか胸が詰まって目頭がつーんとした。

 「えっと、じゃあ、霧野先輩と一緒にいたいっていう我侭は、駄目ですか?」

 霧野先輩は例のいたずらっぽい笑みを浮かべた。それがどんな意味を持っているのか、天馬には良く分からない。

 「そうだな。それはちょっと迷惑かもな」
 「えぇ、そんな」

 これには流石にショックを隠せなかった。天馬にとっては、好きな人に拒まれたのと同義だった。身を縮こませて肩を落としていると、霧野先輩が笑みながら、髪の毛を撫でてくれる。嬉しいけれど、あやされているようで複雑な面持ちになった。
 自動車の通りの少ないこの道を抜ければ大きな車道に出て、霧野先輩とは異なる帰路を辿ることになる。それまでにはこの落ち込んだ気分を振り払いたかった。けれど、今回ばかりは自力で立ち直るのは難しそうだった。一緒にいる事が迷惑ならば、霧野先輩を相手にアプローチをする事は叶わない。そう考えると、自然と背中が丸くなってしまう。道がだんだんと開けて来る。自動車のタイヤがコンクリートを擦る音が近寄ってくる。これが霧野先輩との別れの合図のような役割を担っていた。今日もこの恋に進展はなし。むしろ退化したような気がして、天馬は何度めかの落胆した。そんな天馬に向けて、故意に霧野先輩は言葉を繋げた。期待してしまいそうになる光を宿した霧野先輩の双眸が、一段と綺麗に天馬の目に焼き付く。

 「一緒にいたいって言葉は、付き合い始めてからもう一度言ってよ」

 自動車がブレーキをかける音、発進する音、車内から漏れる大ボリュームの音声。音の世界が広がりつつあるこの帰路で、もしかしたら俺は都合の良い、願いにも似た私欲の夢を見ているのかも知れない。頬をつねってみても、叩いてみても、痛覚が働かないのだから、そうとしか言い様がなかった。
 霧野はそんな天馬の様子を見て今までとは違う笑みを浮かべた。春に花が甘い匂いを空気に溶けさせながら綻ぶように、霧野先輩も麻薬のような、そんな笑顔を容貌に浮かべてて。

 「希望があるってこと…?」

 そう聞く天馬の声は震えていて、恥ずかしいくらい頬を紅潮させていた。淡い桃色に染まった天馬の頬を指先で擦るように撫でながら、霧野先輩は穏やかな声音で、「そうかも」と曖昧な返答をした。天馬は微かに、霧野先輩の感情の輪郭に触れた気がした。理屈も言葉も働かず、根拠のない琴線の感覚が先走りする。天馬は帰路が三又になる手前で、霧野先輩の制服の裾を掴んだ。
 胸いっぱいに夜の空気を吸い込むと、霧野の瞳をしっかりと見据えて、昨日と同じ意図の言葉を告げた。

 「大好きです、霧野先輩!一生好き!」

 昨日のような流れでもノリでも油断でもない、初めて作為的に言葉にする純粋な恋心。言葉を介してどれほどの情熱を霧野先輩が落手したか、天馬にはいまいち分からない。けれど、霧野先輩が「知ってる」って満足げに笑うから、天馬は不安も自嘲も全て脱ぎ捨て、霧野先輩に『好き』と伝えるのだ。

 そうしていつか、天馬の唇から落ちた『好き』の2文字は、霧野先輩の心に拾われる。


end
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -