聞きたくないから目を閉じた



気付いたら泣いていた。何年かぶりの涙は記憶にあったものよりもずっと熱く、火傷してしまうかと思った。僕の、柔らかくも滑らかでもない頬の上を、ドライアイスのようなそれが走っていく。ひどく不快だった。

「松山? どうしたっ?」

久住が焦ったような声を出した。不安が滲むそれも今の僕にとっては煩わしい。奴の偽善じみた優しさが、僕は大嫌いなのだ。
顔を覆った指の間から見える久住の顔は、どこの俳優かと聞きたいほどに整っている。身長も僕より大分高い。サッカーのクラブに入っているらしい彼の体は、貧弱な僕のそれとは比べようもなかった。そうそう出会えないレベルの美形である彼は当然女子にモテ、かといって男子に疎まれているわけでもない。生まれ持った人懐っこい性格のせいか、友人には恵まれ先輩には可愛がられ後輩には頼られ先生からの信頼も厚い。
僕は、そんな彼のことが大嫌いだ。多分今現在、この世で一番。

「松山、何があったんだ?」
「……っさい」
「え?」
「うるさいうるさいうるさい」

戸惑ったような声がする。ぼやけきった視界では判断もできないが、彼の眉は綺麗に八の字を描いているのだろうと容易に想像がつく。誰もいない教室。夕焼けの中で見る彼の顔なら、どんな表情であってもかっこいいのだろうと心中で嘲笑った。
涙は止まらない。制服の袖はぐちゃぐちゃだし、コンタクトがずれた気もする。最後の矜持で鼻だけはずるずる啜っているが、それも一体いつまでもつのやら。いや、それよりも心配すべきは、ストップのきかなくなったこの口だろう。

「うるさいんだよ久住。毎朝挨拶してくんのも、休み時間に話し掛けてくんのも、今こうやって心配されんのもすっごい迷惑。欝陶しい、気持ち悪い」
「ま、」
「だいたい何のつもりなんだよ。僕とあんたは友達でも何でもないのに、毎回毎回! 親切のつもりか? それともクラスで浮いてる奴に話し掛けて優越感にでも浸りたいんだ?」
「ちょ、待てって!」
「そのうえ、この仕打ち?」

試験があった。今年最後の定期試験。所謂優等生な僕は勉強くらいしか人に誇れるところがなくて、毎度の試験には必要以上に力を入れている。そのおかげでこの二年間、学年首席から落ちたことは一度もなかった。
なかった。そう、過去形だ。僕の唯一の誇りは一瞬で砕け散った。目の前に立つ、美形でスポーツマンで社交的な彼によって。

「なあ、どうしようっての? 僕の立場切り崩して、楽しい?」

僕には勉強しかない。特別親しい友人もおらず、顔も母親似のきつい目付きだけが特徴のようなもので、身長も辛うじて平均がある程度、運動なんてできたこともない。何も持たない僕には勉強しかなかった。それだけで自分を保っていた。僕が一人でいられる魔法が、首席という立場だったのだ。がり勉だと影で笑われようが別に構わなかった。あいつらはみんな馬鹿だと笑えばそれでよかった。
それを、こいつは。ずたずたにしてくれやがった。
僕は久住が嫌いだ。僕が持たないものを全て持っているこの男が憎らしくてならない。ジェラシー? その通り。この男のことが、僕は、羨ましくて妬ましくて堪らないのだ。たった一つ彼に勝っている勉学がなければ声を聞くのも嫌になるくらい。それももう消滅したわけだが。

「首席おめでとう」
「は」
「クラブではレギュラーを勝ち取ったそうじゃないか。友人間でパーティをするんだろ? ああ、彼女の一人や二人できた? あんたかっこいいものね、周りも放っておかないさ」
「松、山」
「ねえ久住。これ以上何が欲しいって?」

ああ、涙が止まらない。もう無理だ。嫉妬するのも悔しがるのも疲れてしまう。結局どうしても、彼に何かで勝ることなどできないことが判明したのだ、自暴自棄になっても仕方がないだろう。
何が違うというのか。僕と彼で。どうして僕は彼のようになれないんだ。どうして彼は僕のようではないんだ。

「ずるいよ、あんた」

うっすらと開いた瞼の向こうで、久住もまた泣きそうな顔をしていた。腹が立つほど綺麗な顔立ち。ぶん殴ってやりたい。なんであんたがそんな顔をするんだ。僕の何倍も何十倍も満たされているあんたは、そんな顔をしてはならない。その表情は、僕のような負け犬にこそ似合う。ひがむばかりの醜い人間だけがしていい表情だ。
誂えたような完璧男が、唇を噛む。血が滲む。それは真っ赤で、彼と同じものが僕にも流れているのだと思うと不思議であり吐き気がした。

「松山」

大嫌いな男が僕を呼ぶ。迷子になった子供が縋ってくるような視線に、心は動かされない。そんな顔をすればほだされるとでも思っているのだろうか。誰もがあんたのことを愛しているわけじゃないというのに。

「俺の欲しいものは、友人でもレギュラーでも恋人でも、ましてや首席の座でもない」
「黙れよ!」
「黙らない」
「だま、れよ……っ」

僕の欲しいものを全て持った男。そんな奴にとっては僕が必死にしがみついていた立場など少しの価値もないのだと、そう告げられたも同じだった。
腹が立つ。腹が立つ腹が立つ。喉をマグマがせき止めているようだ、燃え盛る怒りはぐるぐると体内を巡る。
僕は彼の口が開く前に目を閉じ耳を塞いだ。彼に、これ以上僕のプライドを踏みにじられるのは我慢ならなかった。彼の言葉はカッターナイフだ。鈍い切れ味のせいで余計に傷付けられる。それを天然でやってのけるのがこいつ。耳を覆う指が震えているのには気付きたくなかった。

「俺が唯一欲しいのは、……」

彼が何を言ったのかは分からない。知りたいとも思わない。音もせず視界は真っ暗。床を踏み締める足元の感覚だけが明瞭で、奥歯に力を込めながらこれが全て夢であればいいとだけ思っていた。目が覚めたらこの世から久住が消滅していればいい。僕はこれまで通り一人ならいい。
目を開いた先で、久住は泣いていた。僕の頬は、知らないうちに渇き切っていた。





END.


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