屋上、寒空とひとり


日が短くなってきた。
昼間には黄色く照らしていたはずの太陽が赤らんでいくのを、青年はぼうっと見ていた。薄く散った雲が時折日を陰らせて、そのたびに肌を走る悪寒に身を震わせる。
もうすぐ冬だ。朝や夜はかなり肌寒くなってきていて、下校している生徒を見ると、何人かはもうカーディガンを着ている。明日には自分も着ようと思うのに、探すのが面倒で、これでもう一週間寒い寒いと思いながらTシャツとカッターシャツで過ごす日々が続いている。
ここは特にそうだ。天文部だけが入ることが許される特別棟の屋上。高い場所で強く吹き荒れる風が、服の隙間から入り込んで青年に嫌がらせをする。
寒かった。けれど室内に入ろうとは思わない。屋上に来るためだけに天文部に入ったのだ、いくら風に邪魔されようとも、まだ帰るわけにはいかなかった。
徐々に沈んでいく太陽が、トマトのように赤く赤く熟れて潰れていく。血飛沫を上げて空が同じように染まっていく。もうすぐ下校時間だろうか。野球部が挨拶をしている声がする。女の子の笑い声がする。ストレッチの掛け声がする。知らない誰かを、知らない誰かが呼んでいる。
ごちゃごちゃと混ざり合っていく音に不快になって目を閉じた。瞼の裏が赤い。血液が川になって流れていく。何も見えなくなると余計に拾えてしまって、まるで音の濁流にのまれているようだ。
けれどこのポンコツの耳は、彼の声だけは逃さない。

「坂本―!」

はっと目を開くと、ジャージの生徒がこちらに手を振っているのが見えた。いっぱいに腕を伸ばして、眩しいばかりの笑みを浮かべて。

「今日も部活か―?」
「そうだよー」
「天文部も大変だな」
「そっちもね」
「大会が近いから仕方ないさ。もう暗くなるからほどほどにしろよー!」
「わかってるー」

ばいばい、と最後にもう一度手を振って、ジャージの生徒が背を向けた。彼の隣に女の子がいるのが見えて、嬉しそうに彼に話しかけているのが見えて、青年は言い損ねたまた明日をごくりと飲み下す。
トマトの太陽よりも眩しい光景だった。隠し事でもするように肩を寄せて、くすくすと笑いあうかわいい恋人同士。彼の耳が赤いのは、きっと血飛沫のせいじゃない。
青年は二人の後ろ姿を眺めながら、少しだけ笑った。



少女マンガのような恋を思い描いていたわけではない。好きな相手が自分のことを好きになってくれるなんて、そんなことは奇跡に近いのだということも知っていた。夢なんて、見たこともきっとない。
ただ、ずっと見ていた。蛍光灯の下や、ギラギラ照らす太陽の下。春一番に吹かれているときも、木枯らしに肩を震わせたときも、今も、ずっと。あの眩しい笑顔が自分以外に向けられているときだって、ずっとずっと見ていた。
それだけだった。他には何も望んでいない。誰かに笑いかける横顔だとか、広くなってきた背中だとか、そんなものが目に入るところにあってくれればいい。隣に彼の恋人がいたってなにも構わない。そこに彼がいるのならば、もう何の問題もない。
シュールな恋だ。
進行も後退もしない。自己完結で、告白もデートもキスもない、屋上から手を振るだけの、好きだというそれだけがそこにある、恋。



ジャージの生徒が、隣の女の子にカーディガンを手渡していた。はにかみながらそれを着こむ女の子。手を繋いで、二人は校門の向こうに消えていく。
青年はそれを見て、やはり少しだけ笑った。

「さむいねえ」

ぽつりと吐き出して空を見る。トマトはいつの間にか腐り落ちて、濃紺が広がりつつあった。夜になるともっと寒くなる。カーディガンを貸してくれる人は、生憎隣にはいない。
一人きりの天文部は今日も閉店だ。沈んでいく太陽と、眩しいたった一人を眺める部活。
風がびゅうと吹いて、目を閉じた。もう何も聞こえない。
ただひどく、寒かった。





END.



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