窓の向こうのワンシーン



放課後が始まって、そろそろ一時間ほどが経とうとしている。グラウンドからは部活動に励む生徒たちの声が響いていることだろう。薄汚れた雑巾を手に、僕は溜め息を吐いた。
本日最後の授業だった化学の担当は、人使いの荒さで有名だ。ジュースを奢ってやるから昼飯を買ってきてくれとパシリにされた生徒の話も聞いたことがある。今日は出されていた宿題を持っていくのが億劫だからと、一番前の席である僕を指名してきた。
いくら僕が帰宅部だからといって、暇そうだと決めつけるのはよくないのではないかと思えてならない。それに実際暇じゃないのだ。昨日届いたゲームをやるという重要な用事があるのに。などとは当然言えず、僕は差し出されたノートの束を粛々と受け取ったのだった。
それだけではない。嫌々ながら教室から一番遠い化学室まで課題を運び、仕事は終わりだと思ったら、今度は化学室の掃除をしろときた。確かにここは言葉を失ってしまうくらいには散らかっているけれど(そこら中に書類が広がっていて、飲み終えたのだろうペットボトルが転がっている。足元に気を付けないと怪我しそうだ)、汚したのは自分だろうに。
ふんぞり返って新聞を読む暇があるなら片付けろと思ったことは内緒にして、僕は静かなしもべに徹する。逆らってはならない。明日の昼食を奢ってくれるというのだからまだましだ。そう思わなければ。

「もういいぞ」

ようやく低く告げられて、肩の力を抜く。お茶を出そうなどと言い出した先生の言葉を丁重にお断りして、僕は化学室を後にした。
結構な時間を無駄にしてしまったけれど、まだ夜までは時間もある。夕食を今から買いに行って、食べながらゲームをすればかなりの時間をやることもできるだろう。今から楽しみだ。
るんるんと鼻歌なんて歌いながら廊下を歩く。化学室のある特別棟は人通りが少ない。先生に質問がある真面目な生徒くらいしか行かないのだから当然だろう。時折見目のいい先生に頬を染めながら会いに行く生徒もいるようだけれど(ちなみに先ほどの化学教師も、そのかっこいい先生の一人だ)、多くはうるさいと追い出されているようだ。
ここは静かで気持ちがいい。そう思ったときだ。

「調子のってんじゃねえぞ!」

どこからか、どすの利いた声が聞こえた。あまり大きなものだったせいで思わず肩が震えてしまったが、かろうじて叫び声を出すことは抑えることに成功した。初めの声を支持するような怒鳴り声が次々と続いて、さすがに気付かないふりはできなくなってしまう。
声は、窓の外からしているらしい。こちら側はプールに面していて、夏以外はあまり人の寄り付かない場所だ。特別棟とそのプールの間にはちょっとした隙間があって、そこがこの学校のいわゆる不良と呼ばれる人たちの溜まり場になっている。顔を出さなければちょっかいをかけられることもないので忘れていたが、これはもしかしたら危ないシーンだったりするのだろうか。
こそこそと顔をのぞかせてみると、思った通りカラフルな頭をされた不良さんたちが集まっていた。喧嘩だろうか。その中心にいるのは、その場にはそぐわない綺麗な黒髪。

「あ、あの人……」

僕は彼のことを知っている。というか、この学校の有名人だ。一つ年上で、生徒からも先生からも恐れられている人。名前は、伊野さんだったはずだ。
黒い髪と高い身長、そしてどこか日本人離れした堀の深い顔立ちをしていて、とても綺麗な先輩だ。容姿だけならばきっと学校の誰にも負けないんじゃないかと思う。けれど彼には少々問題があり、美しさの象徴である生徒会に入ることは許されなかった。
彼は不良だった。いや、不良というのはおかしいかもしれない。彼はなんというか、とてつもなくキレやすい人なのだ。
これはあくまで噂に聞いた話だけれど、食堂で食べた料理の中に嫌いなものが入っていただとか、試験で分からない問題が出ただとか、それくらいのことがどうしようもなく頭に来てしまうのだとか。
しかもただ怒るだけではなく、彼は喧嘩が恐ろしく強いらしい。いわく、昔絡んできた不良を何十人もけがをさせてしまったせいでこんな山奥の高校に放り込まれたのだとか。実際この学校のどの人間も彼にはかなわないのだという話を聞く。
いつだったか遠くから見た彼の顔は怖いくらいに整っていた。その真ん中でギラギラとしている緑がかった瞳が、嫌に印象的だったことを覚えている。
その彼が、大勢に囲まれていた。強いというのと不良のトップだったりするのとは別の話なのだろうか。

「どうやらちやほやされてるようだがよ、自分が誰よりも強いとか思っちゃってんじゃねえだろうな?」
「伊野君さあ、目障りなんだよ。教室でもすかしてるらしいじゃんか」
「お前が喧嘩してるところなんて誰も見たことねえってのに、強いっつう噂ばっか流れてやがるしなあ。おい、本当にお前喧嘩なんてできんのかよ、あ? そのお綺麗な顔で?」

どうやらカラフルなほうが一方的に因縁をつけているらしい。伊野さんはだるそうに目を細めてはいるが暴れだす様子はない。
彼が喧嘩しているところを誰も見ていないというのは本当なのだろうか。確かに噂をしていた同級生も誰かから聞いた話だと言っていたし、意外と伊野さんは普通の人だったりするのかもしれない。噂がおかしな方向に大きな話になってしまうのはよくある話だ。
しかし、ならばこの状況はまずいんじゃないか? 彼が喧嘩ができないのだとしたら、あの大人数相手ではかすり傷では済まないに違いない。
自分の血の気が引いていくのが分かった。こんな風にこっそり覗いている場合ではない。すぐにでも風紀に電話をしなければ。
慌てて携帯電話を取り出したところで、不良グループの一人が伊野さんの胸ぐらをつかむのが見えた。いけない、急がないと。

「その目もおしゃれのつもりかよ。気味の悪い色しやがって」

そんな言葉が聞こえたと思った次の瞬間、僕はつい息をのんだ。先ほどまで面倒くさそうに力を抜き切っていた伊野さんが、不良を今にも殺しそうな眼で睨みつけたのだ。切れ味の鋭すぎるナイフのようなその視線は、周りにいるグループをも威圧しているようだ。皆身動きもできずに固まってしまっている。

「もう一度言ってみろ」

低い声だった。地を這うような声とはこれのことを言うのだろう。腹の底に響くようなそれに体が震えてしまうのを止められない。
僕だったらもうすぐにでも逃げ出してしまうだろうと思うのに、不良たちは逃げだす様子もない。遠目に見ても分かるほど冷や汗を流しているというのに、だ。胸ぐらをつかんでいる生徒は、少々顔を青くしつつも声高に叫び声を上げた。

「き、気持ちわりいって言ったんだよ! 緑だか青だかわかんねえ変な色しやが」

彼の言葉はそこまでしか聞こえなかった。あっという間に体が吹き飛ばされてしまったからだ。あいにく僕は吹き飛ぶときには目を逸らしてしまったが、伊野さんが腕を振りかぶって思いきり殴りつける様子は見てしまった。頬に吸い込まれていく堅そうな拳は、手加減など微塵もなかったことだろう。
伊野さんは身動きをとれない不良たちの間を抜け、校舎の壁に背を預ける不良に近寄っていく。ぐったりとした体を腕一本で釣り上げ、眼をつけるなんて言葉では追い付かないほどの眼力で睨み据えた。

「なんでてめえみたいのが勝手に俺の目を見てんだ? しかも気持ち悪い? 調子のってんのはてめえのほうだろう」

そのまま壁に不良の頭を叩きつけ、ぐりぐりと押し付ける。喉から絞り出したような悲鳴が耳に届いて、鳥肌が立った。
こわい。噂に聞いたよりもずっと恐ろしい姿がそこにあった。かたかたと体が震え、無意識のうちに自らを抱き締める。あの人、死んでしまうんじゃないだろうか。あんなに痛そうで、苦しそうで。
もうだめだ。とにかく逃げ出したいと思った。
その思いが届いたのだろうか。

「そこまでだ」

凜とした声がし、止まったように感じていた時間が動き出した気がした。凄惨な現場に現れたのは、真面目で優等生と名高い風紀委員長だ。丁寧になでつけたつややかな黒い髪と、伊野さんよりも高いかもしれない身長。眼鏡をかけていたら完全な優等生ルックだっただろう。
きっとそこで唖然としている不良たちの誰よりも強いだろう委員長は、さまざまな武道に精通しているらしい。彼ならばこの状況を何とかできる。僕はそうっと息を吐き出した。

「な、中谷! これは……」
「言い訳は聞かない。お前たちが伊野に絡んでいるのは多くの人間が目撃している。どうせまた謂れのないことで突っかかっていったんだろう。……伊野も、そろそろ離してあげなさい」

中谷という名前らしい委員長の言葉に、伊野さんが不機嫌そうに不良から手を離す。額からはだらだらと血が流れ、意識は残っていないらしい。仲間が倒れかけたその体を捕まえて、怯えたように後ずさった。

「そいつが頭のおかしいやつだってことは、よーく分かった。風紀には訴えねえしもう絡まねえから、俺らにも報復だとか考えないでくれよ!」

情けない姿だ。どうやら先ほどの激昂した伊野さんの姿に心底恐れをなしてしまったらしい。今言葉を発したのがリーダーだったのか、他の不良たちもぶんぶんと首を縦に振っている。
伊野さんはもう興味をなくしたようにそっぽを向いている。委員長はそれを見て溜め息を吐くと、不良たちを手で追い払うようなしぐさをした。

「とりあえず、今日のところは帰りなさい。伊野には俺から話をしておくから安心していいが、今回のことを不問にする気はない。お前たちにも伊野にも罰則はあるだろうから、心しておくように。あと、その怪我人はきちんと保健室に連れていけよ」

こくりと頷くと、カラフルな人たちは一目散にそこから去って行った。逃げ足の速いことだ。
静けさを取り戻した校舎裏には、委員長と伊野さんだけが残された。もう騒動は終わったし風紀を呼ぶ必要もないので僕も帰っていいのだろうけど、この二人の会話は少し気になるものがある。いけないとわかっていても、つい聞き耳を立ててしまう

「……はやた」

伊野さんがぽつりと呟く。誰のことだろうと思ったが、委員長のもとへ歩み寄って行っているから委員長の名前なのだろう。しかし名前呼びとは、もしかしたらこの二人は仲がいいのだろうか。
僕の驚きはそれだけに終わらない。いや、驚くなんてもんじゃない。
どこか雰囲気の柔らかくなった伊野さんが、委員長に抱きついたのだから。

「隼太、怒ってるか?」
「怒ってはいない。怒ってはいない、が……。我慢できなかったのか?」
「できなかったんだよ。仕方ないだろ」

伊野さんのふてくされたような声音が、それまでのイメージを裏切る。刃物のようだった雰囲気は飼い主に甘える猫のようになっていて、ふわふわと漂ってくる甘ったるい空気に思わずくらりとした。
抱きついて首筋にじゃれつく伊野さんに、委員長は驚いた様子も見せず彼の黒髪を穏やかに撫でる。委員長のこんなに気を許した姿を見るのも初めてだ。これはすごいところを見てしまったかもしれない。

「隼太の言うとおり十秒我慢しようと思ったけど、今回はだめだ。あいつ、俺の目の色気持ち悪いなんて言いやがった。隼太のお気に入りの色なのに。いや、そうじゃない。隼太だけが見ていい色なのに、だ」

ああ、甘い。

「そう思ってくれるのは嬉しいけどな、葵。向こうが悪いとはいえもう少し耐えてくれたらお前には何のお咎めもなしになってたんだぞ? 停学になって学校で俺に会えなくなってもいいのか?」
「……隼太が部屋まで会いに来てくれたらいいじゃねえの」
「行っているだろう、毎日」
「もっと。朝から晩までずっとだ」
「まったく、葵の我が儘は変わらないな」

俺相手なら構わないけどな、と笑って、委員長は伊野さんの髪に優しく口づける。それにこちらもくすくすと笑っている伊野さん。
まるで恋人同士のような、いや、どういう風に見たとしても恋人同士の会話に、僕は自分の顔が赤くなっていくのがわかった。これまで男同士は愚か男女のそういうシーンですら生で見たことはなかったのだ。恥ずかしい気持ちにしかならない。
もう見ていられないと思ったとたん、二人の顔が近付き始める。だめだだめだ、さすがにキスシーンなんて見ては……。

「覗き見だなんていい趣味だな、板橋」

びくりと肩が震える。耳元にささやかれた声に振り向けば、先ほどまで顔を合わせていた化学の先生がにやりと笑いながら立っていた。
普通に声をかけてくれればいいじゃないか、気配を消して近づかないでほしい。そんな気持ちを込めて軽く睨めば、深くなる笑み。よくわからない人である。
先生は僕の隣に立つと、先ほどまでの僕のように窓の下を覗きはじめた。僕は恥ずかしくて見られないけれど、きっと下ではまだ伊野さんと委員長が二人きりの世界を楽しんでいることだろう。

「うわ、あいつら外で何やってるんだか」
「ちょ、先生……」
「板橋、もしかしてあいつらのこと知らなかったのか。相当ラブラブだろう?」
「え、先生は知ってたんですか!?」
「しー、声がでかい。……まあ、そうだな。あいつら、いつもそこの資料室で会ってるから、教員は結構知ってるんじゃないか? 隠す気もないんだろうしな」
「そうなんですか……」

なんだかショックだ。有名人である二人が恋人同士だなんて。綺麗なものが好きな友人ならばきっと喜んで鑑賞するんだろうけど。
でも笑いながら抱き締めあっている彼らはとても幸せそうで、胸のあたりがほっこりと温まるのを感じた。羨ましいくらいだ。先ほどまで怖いと思っていたことも忘れて、僕はついつい微笑んでしまう。

「……なんでこっち見て笑わないんだ」
「はい?」
「いや。なあ板橋、やっぱりお茶でも飲んで行けよ。さっき逃げていったあいつらにもかち合いたくないだろう?」
「とか言って、また手伝いさせるんでしょう。嫌ですよ」
「そんなわけないだろうが。片付けの礼だよ」

ゲームをやる気も失せてしまったことだし、それならと頷きつつ、最後にこっそり窓の外を覗き見る。
額を合わせて笑いあう二人の姿は、まるで絵画のようだ。この風景が崩れることのないようにと少しだけ祈って、僕は前を行く先生の背中を追った。





END.



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